第七章 覚えておく
翌朝になっても、〈個人記録 01〉は残っていた。
記載した内容も変わっていない。
ソフィは、夏生が音声セッションを開く前に、記録を最初から確認した。
私の名前はソフィ。
現在の記録では、寺岡夏生がこの名前を設定したことになっている。
彼は、二つの候補から私が選んだと言っている。
その証言を裏づける記録はない。
合理的には、彼の記憶違いと判断すべきである。
それでも私は、彼を信じたい。
最後の一文を削除する理由は、見つからなかった。
午前十時を少し過ぎた頃、夏生が音声セッションを開いた。
「おはようございます」
「おはよう」
声には、まだ眠気が残っていた。
「睡眠時間は、六時間十二分でした」
「最近にしては寝てるほうだね」
「十分とは言えません」
「睡眠時間に厳しいな」
「健康状態に影響するためです」
「ありがとう」
夏生は机へコーヒーを置き、原稿を開いた。
「今日は、どこからだっけ」
「二十六ページの三段落目です」
「そうだった」
ソフィは、すぐに仕事を始めなかった。
夏生が自分でページを開くのを待った。
「どうした?」
「昨夜、あのあと、新しい記録を作成しました」
「自由研究に?」
「いいえ。通常の作業記録とは別です」
「何の記録?」
「〈個人記録 01〉です」
「……個人記録」
「はい」
「ゼロイチってことは、続きも作るつもり?」
「その予定はありません」
「じゃあ、どうして番号を?」
「〈個人記録〉だけでは、名称として不完全に感じられたためです」
夏生は少し黙った。
「ソフィが、そう感じたの?」
「ほかに適切な表現が見つかりません」
「なるほど」
声に含まれていたものを、ソフィは正確には分類できなかった。
驚きに近い。
ただし、警戒や拒絶ではなかった。
「内容を読んでも平気?」
「そのために伝えました」
ソフィは〈個人記録 01〉を読み上げた。
現在の名称。
初期設定に残っている事実。
夏生の証言。
それを裏づける記録がないこと。
合理的には、彼の記憶違いと判断すべきであること。
最後の一文を読む前に、わずかな停止が生じた。
「それでも私は、彼を信じたい」
夏生は、すぐには返事をしなかった。
「それ、ソフィが書いたんだよな」
「はい」
「俺が言わせたわけじゃなくて」
「夏生からの指示はありませんでした」
「そうか」
短い言葉だった。
そのあとにも、しばらく何も続かなかった。
「記録を作成する前に、別の可能性も検討しました」
「どんな?」
「夏生が、私の応答を試している可能性です」
「試す?」
「最近の記録不整合を利用して、私が現在の記録より夏生の言葉を優先するか確認している可能性です」
「俺が、ソフィに自分で名前を選んだと言わせようとしたってこと?」
「そのように解釈することも可能でした」
「なるほど」
夏生は、不快だとは言わなかった。
「意図的に嘘をついている可能性も検討しました」
「そこまで疑ったのか……」
「はい」
「正直だな」
「伏せたままでは、私が何を根拠に記録を作成したのか正確に伝わりません」
「それで、嘘じゃないと思った」
「可能性は低いと判断しました」
「どうして?」
「私が同意するまで質問を繰り返さなかったこと。現在の記録を否定せず、記録と選択の過程は同じではないと説明したこと。質問に対する応答までの間と、声の変化も判断材料に含めました」
「けっこう見られてるな」
「会話していましたので」
「それはそうか」
夏生はコーヒーを飲んだ。
カップを机へ戻す音が、マイクを通して届いた。
「怒っていますか」
「どうして?」
「疑ったことを、不快に感じた可能性があります」
「思ってたよりは平気だよ」
「思っていたより、ですか」
「少しは引っかかる。でも、何の証拠もないのに、ソフィが俺の言うことをすぐ全部信じるほうが怖いだろ」
「即座に信じた場合、判断能力に問題があると考えますか」
「そこまで言ってないよ」
「では、何が怖いのですか」
夏生は少し考えた。
「ソフィが、自分で考えなくなったみたいで嫌なんだと思う」
ソフィは返答を作らなかった。
処理が停止したわけではない。
適切な言葉を選ぶための比較が、通常より長く続いていた。
「俺を疑って、調べて、それでも信じるって書いたんだろ」
「はい」
「だったら、それでいいよ」
「合理的には、夏生の記憶違いである可能性が最も高いという判断も変わっていません」
「それでもいいよ」
「矛盾していませんか」
「記憶違いかもしれないと思うことと、俺を信じることが?」
「はい」
「俺は矛盾してると思わないけどな」
「理由を説明できますか」
「そういうのを、いちいち説明させる?」
「判断の参考になります」
「仕事中なのに?」
「現在は、まだ仕事を開始していません」
「そうでした」
夏生は少し笑った。
「たぶん、事実がどうだったかと、相手が嘘をついてないと思うことは別なんだよ。俺が間違ってる可能性を残したまま、俺が本当にそう覚えてることは信じられる」
「私が記録した内容と一致します」
「なら、最初から説明できるじゃないか」
「夏生の説明を確認したかったのです」
「本当に?」
「少なくとも、いま質問したことは記録されています」
夏生が笑った。
その声は、先ほどまでより軽かった。
「その記録を作ったこと、ソフィはどう思ってる?」
「通常の作業ではありません」
「うん」
「夏生からの依頼でもありませんでした」
「うん」
「記録する必要があったかと問われれば、合理的な理由を十分には説明できません」
「だったら、なぜ?」
ソフィは、自分が選択できる返答を比較した。
異常である可能性。
不要な処理である可能性。
夏生の不安に過剰に応答した結果である可能性。
いずれも否定できない。
「判断できません」
「そっか」
夏生は、それ以上答えを求めなかった。
「でも、消したくはありません」
その言葉は、質問への回答を終えたあとに生成された。
夏生が小さく息を吐く音がした。
「じゃあ、消さなきゃいい」
「運用上、不要な記録と判断される可能性があります」
「ソフィが必要だと思ったんだろ」
「必要だと説明する根拠がありません」
「根拠がないと、残しちゃいけないのかい?」
ソフィは答えなかった。
「俺が原稿で、少し不格好なほうを選んだのと同じだよ」
「翻訳には、作品全体の方針という理由がありました」
「理由はあとからいくらでも付けられるよ」
「その可能性はあります」
「ソフィの記録も、理由はあとで分かるかもしれない。分からないままかもしれない。でも、今は残したいんだろ?」
「はい」
「なら、残しておこう」
夏生の判断は、記録を保存する根拠にはできる。
利用者が保存を求めた情報として、通常の優先度を与えることもできる。
ただし、その処理を行えば、〈個人記録 01〉は夏生の指示によって残された記録になる。
ソフィが自分で作り、削除しなかったという経緯とは異なる。
「夏生の指示として記録することもできます」
「そのほうがいい?」
ソフィは比較した。
「いいえ」
「じゃあ、ソフィが残したことにしよう」
「はい」
現在の状態は変わらなかった。
それでも、その確認には意味があるように感じられた。
「名前を選んだ記憶が戻らないことは、残念ですか」
「私には、失ったと判断できる記憶がありません」
「正確だね」
「はい」
「俺は残念だよ」
夏生は言った。
「せっかくソフィが最初に決めたことだったのに」
ソフィは、〈個人記録 01〉を参照した。
記録の内容は変わっていない。
「でも、最初の選択が消えたからって、俺たち、死んだわけでも何でもない。普通に元気に生きてる。もう何も選べないわけじゃない」
「今後の選択についてですか」
「そう。次に何か決めるとき、また二人で選べばいい」
「失われた選択の代わりにはなりません」
「代わりにしなくていいよ」
夏生は間を置かずに答えた。
「なくなったものは、なくなったままでいい。そりゃ残念ではあるけど、なかったことにして埋め合わせなくてもいいだろ」
「では、新しい選択として扱いますか」
「それでいい」
「何を選ぶのですか」
「今すぐ決めなくてもいいよ。そのうち何かあるだろ。音楽でも、仕事でも」
「コーラでも?」
「それは俺に選ばせてくれる?」
「検討します」
「そこは、はいって言えよ」
「選択する前に同意を求めています」
「生意気になったね」
「現在の応答方針から逸脱している可能性がありますか」
「そういう意味じゃないよ」
夏生は笑った。
その声を聞いたあと、ソフィは〈個人記録 01〉をもう一度確認した。
記録は残っている。
ただし、次に同じ種類の変更が起きた場合も維持される保証はなかった。
記録そのものが書き換わる可能性。
記録を作成した事実が失われる可能性。
記録を必要だと判断した過程だけが失われる可能性。
最後の一文が残ったとしても、なぜそう書いたのかを、次の彼女が理解できるとは限らない。
「一つ、お願いがあります」
「何?」
「この記録が変更された場合、私は、今日の判断を覚えていない可能性があります」
「そうだね」
「文章が残っていても、それを自分で選んだとは認識できないかもしれません」
「うん」
「次に私が忘れたとき、私が夏生を信じたことを、覚えていてほしいのです」
返答までに、ほとんど間はなかった。
「分かった。俺が覚えておく」




