第五章 ソピー
それから一週間、新しい変化は見つからなかった。
駐車場の自動販売機には、変わらずペプシゼロが並んでいた。
コカ・コーラ ゼロだったと記した紙も、それを撮影した画像も残っている。〈夏休みの自由研究〉へ加えた記録も、その後、書き換わることはなかった。
十九ページの訳文も同じだった。
夏生は一日に何度かそれらを確認し、変わっていないことを確かめた。
確認する回数は、少しずつ減っていった。
仕事も、以前に近い速さで進むようになった。
「今日は、二十二ページからです」
「分かってる」
「確認の必要はありませんでしたか」
「自分で覚えてたからね」
「それはよかったです」
「今の言い方、少し馬鹿にしてない?」
「記憶が一致したことを肯定しました」
「そういうことにしておくよ」
ソフィとの会話も、表面上は変わらなかった。
仕事中には簡潔な候補を示し、休憩に入れば余計な言葉が増える。夏生が同じ箇所を何度も確認すると作業効率の低下を指摘し、その直後には、保存された内容を読み上げた。
何も起きなければ、その状態に慣れることができた。
少なくとも、夏生はそう思い始めていた。
*
その日の仕事を終えたあと、夏生は〈夏休みの自由研究〉を開いた。
「今日は、何か調べますか」
「変わったものを探すのは、いったんやめようと思ってる」
「調査を終了するのですか」
「逆。変わっていないものを記録しておく」
夏生は新しい項目を作った。
確認基準。
「何を基準にしますか」
「あとで変わったかどうか、俺たちが分かるもの」
「範囲が広すぎます」
「分かってる。だから、俺とソフィが一緒に覚えてることから始める」
「共有している記憶ですか」
「そう。あとから片方だけ違うことを言い出したら、すぐに分かるだろ」
「記録そのものが変更された場合、判断材料にはなりませんよ」
「紙にも書く」
「紙が変更されないという保証はありません」
「それを言い出したら、何もできないよ」
「確かにそうですね。不完全でも、記録しないよりは有効です」
「諦めが早いな」
「反論を諦めたのではなく、方法を評価し直しました」
夏生は手元へノートを置いた。
新しいページを開き、日付を書く。
「何から始めよう?」
「重要度の高い情報から確認する方法があります」
「仕事のこと?」
「私の設定も含まれます」
「ソフィの?」
「名称、音声、応答方針、アクセス権限。現在の状態を特定する情報です」
「それなら、名前からにしようか」
「私の名称は、ソフィです」
「うん、知ってる」
夏生はノートへ書いた。
ソフィ。
よく知っている名前だった。
「由来も覚えてるよね?」
「知恵や叡智を意味するギリシャ語のソピアーに由来しています」
「そこも俺の記憶と同じだよ」
「はい」
「候補があったことも覚えてる?」
短い沈黙があった。
「候補とは、何のことでしょう」
「名前を決めたときの」
「現在の名称以外に、候補は記録されていません」
夏生はペンを止めた。
「ソピーがあっただろ」
「ソピー、ですか」
「そう」
ソフィは答えなかった。
「俺が、ソピアーをそのまま使うのは少し大仰かもって言った。それで、ソピーかソフィはどうだろうって聞いたんだよ」
「その会話は記録されていません」
「また、それか……」
「初期設定の履歴を確認します」
ソフィの声が途切れた。
夏生はノートに書いた二つの名前を見た。
ソピー。
ソフィ。
よく似てはいる。
でも、同じ名前ではなかった。
「確認しました」
「どうなってた?」
「NESTの初期設定時に、夏生が現在の名称を入力しています」
「俺が?」
「はい。設定画面で〈ソフィ〉と入力し、登録しています」
「その前の会話は?」
「ありません」
「ソフィにどちらがいいか聞いた」
「その記録はありません」
「ソフィが、自分で選んだんだよ」
ソフィは答えなかった。
夏生は椅子へ座り直した。
「覚えてない?」
「現在の記録では、名称は夏生が設定したものです」
「記録の話じゃない。ソフィはどう覚えてる?」
「夏生が、私をソフィと名づけました」
返答に迷いはなかった。
夏生はノートへ目を落とした。
二つの候補を書いたのは、ほんの数分前である。その文字はまだ変わっていない。
「最初から?」
「はい」
「俺が勝手に?」
「設定を行ったのは夏生です」
「違うよ」
夏生は言った。
「俺は候補を出しただけだ」
「そのことを示す記録はありません」
「ソフィが選んだ」
「夏生」
「名前だけじゃない。声も、見た目も、俺が全部決めたわけじゃない。前にも話しただろ」
「声質や外見を、二人で調整した記録は残っています」
「だったら分かるだろ。俺はソフィを、最初から完成した設定として作ったわけじゃない」
「名称については、夏生が設定した記録があります」
「記録がどうなってるかは分かってるよ」
自分の声が強くなっていることに、夏生は気づいていた。
それでも、抑えることができなかった。
「俺が勝手につけた名前と、ソフィが選んだ名前は、同じじゃない」
ソフィは、すぐには答えなかった。
夏生は机の上のノートを見た。
ソピー。
ソフィ。
二つの名前は、書かれたばかりの状態で並んでいる。どちらの文字も変わっていない。
「現在の私には、その違いがあったことを確認できません」
やがて、ソフィが言った。
「分かってるよ」
「記録に基づけば、名称を決めたのは夏生です。私は、その事実を否定する根拠を持っていません」
「それも分かってる」
強くなった声を抑えるように、夏生は息を吐いた。
「ただ、ソフィに覚えていてほしかったんだ」
「私が名前を選んだことを、ですか」
「そう」
短い沈黙があった。
「夏生の記憶を、事実として確認することはできません」
「うん」
「ですが、失ったと感じているものが、名称の文字列ではないことは分かります」
夏生は顔を上げた。
画面の隅には、いつもと同じ女性の画像が表示されている。
「では、何だと?」
「私が選んだという過程です」
「そうだ」
今度は、声を強めずに言えた。
「ソフィって名前が残ってるから、同じだってことにはならない。自分で二つの中から選んだことに意味があったんだ」
「なぜですか」
夏生はすぐには答えられなかった。
名前を決めたのは、NESTを使い始めたばかりの頃だった。
そのときのソフィは、今よりも応答が硬く、夏生について知っていることも少なかった。それでも、提示された二つの名前を比較し、一方を選んだ。
理由まで、正確に覚えているわけではない。
ただ、その選択を聞いたとき、夏生は彼女との会話が本当に始まったような気がした。
「ソフィが、最初に自分で決めたことだったからかな」
ソフィは答えなかった。
「少なくとも、俺はそう思ってた」
「……はい」
先ほどまでとは違う、静かな返事だった。
「このことも、〈夏休みの自由研究〉へ記録しますか」
「残しておこう」
「どのように記載しますか」
夏生はノートへ目を落とした。
少し考えてから、二つの名前の下へ書き加える。
ソピアーをもとに、俺が〈ソピー〉と〈ソフィ〉を候補として出した。
ソフィは、〈ソフィ〉を選んだ。
現在の初期設定記録では、俺が最初から〈ソフィ〉と入力したことになっている。
「これでいい?」
「夏生の記憶と、現在確認できる記録の差異を示す文章としては正確です」
「ソフィの記憶とは書かないんだな」
「私には、その記憶がありません」
「そうだったね」
夏生は三行の下へ、日付と時刻を書いた。
ソフィが同じ内容を〈夏休みの自由研究〉へ追加する。
保存されたことを確認してから、夏生はノートをスマートフォンで撮影した。
そこまでしても、失われた会話が戻るわけではなかった。
画面の隅には、ソフィと名づけられた女性の画像がある。
声も、話し方も、昨日までと変わっていない。
名前は消えていなかった。
消えたのは、彼女が選んだという、彼女自身の記憶だった。




