少し前『王太子妃カタリナの復讐』
「まったく殿下ったら、いつまで油を売っているのかしら。罪人を待たせて……」
広い王宮の外れのある古びた塔。あまり人が寄りつかないこの塔には、人知れず地下牢が存在する。
剥き出しになったレンガの壁に設置されたランタンの明かりだけが照らす螺旋階段を、王太子妃カタリナは危なげない足取りで降りて行く。
地下に到着したカタリナは、共に来た近衛騎士と侍女に言った。
「ここでいいわ。少しだけ、待っていてね」
「しかし……」
戸惑う近衛騎士に向かってウインクしたカタリナは、侍女が持っていたバスケットを受け取ると薄暗い廊下の奥へと向かって行く。
静寂の中、カツン、カツンというカタリナのヒールの音だけが響き渡る。やがて、その足音は一つの牢の前で止まった。
「妃殿下!」
牢の前にいた若い牢番が、驚き畏まる。
「ご苦労様。少し、お話をさせてね。あなたはそこで休憩でもしていて」
この場に相応しくない女性の声に反応したのか、鉄格子の向こう側で暇そうに座っていた男がカタリナを見る。そして、その細い目を見開いた。
「王太子がこないと思ったら、妃がお出ましか」
男が唇を歪ませる。カタリナはそれには反応せず、敷物を広げだした。驚く男の目の前で、カタリナは敷いた敷物によいしょと座った。
「……おい。一体何のつもりだ」
男が憎々しげに低い声を出す。牢番は男の動きを注視しながらも、横目でチラリとカタリナを見た。牢番は内心、焦っていた。予定では王太子が取り調べを行うはずだった。まさか、このままカタリナが、しかもたった一人で行うのだろうかと。
「まあまあ。夜は長いですわよ。アドリアン・ド・ヴァレン侯」
そう言われて、男は固まった。当たりかしらと言いながら、カタリナは楽しそうにバスケットを開く。
「まさか、一度夜会で会っただけで顔を覚えられているとはな」
「偶然ですよ。初めての外交でしたから、気を張っていたのでしょう」
「優秀な妃だ。ますます、王太子に成り代わってこの国を手中に収めたくなる」
「それでローゼ男爵を使って、レオンハルト王子を傀儡にしようと思ったの? おバカさんね」
カタリナは楽しそうに笑った。男は一瞬ムッとしたが、それよりもカタリナの手の動きに釘付けになる。
「……妃、一体何をしているんだ」
驚くことに、カタリナの左手にはスープカップが持たれ、今まさにポットから湯気の立つスープを注ごうとしていた。男の問いには答えず、カタリナはゆっくりとスープを注ぐ。淀んだ空気漂う地下牢に、スープの良い香りが漂いだした。男はカタリナを睨み付けた。
「わかったぞ。その中に毒が仕込んであるんだろう。一目見た時から、度胸のいい女だと思っていたが、まさかそこまでするとは……」
男の額に、初めて汗が滲んだ。男が夜会で襲おうとした時、この妃だけは冷静な目でこちらを観察していたのを思い出したのだ。
しかし、そんな男の予想を裏切るように、カタリナはなんと、そのスープにフウフウと息を掛けた。
スープの湯気と共に、香りが男を直撃する。
「このスープは?!」
「あら、お気づきになったかしら? あなたの国を訪れた時、私はこのスープをものすごく気に入ってしまったの」
それは、男の国ではもはや国民食と言ってもいいぐらいに好まれているスープだった。少しとろみのついた褐色のスープは、スパイスがほどよく効いている。スパイスは贅沢にも何種類も使われていて、その香りは食欲をそそった。
最後の食事が、好物のスープになるとは。毒入りだが……男は自嘲するかのように笑った。
しかし、男が笑っていられたのもそこまでだった。
「いただきます」
カタリナはそう言うと、スープカップに唇を付けた。男は思わず鉄格子にしがみつき、牢番はカタリナに駆け寄ろうとした。
カタリナの喉がコクリと音を立てる。そして、ふうっと息を吐くと満面の笑みを男に向けた。
「すっごく、美味しいわ! もっとよくご覧になっていて」
カタリナは男の目をみつめたまま、またカップに唇を付ける。
コクリ、コクリ……ふう。コクリ……うふふ。
静かな地下牢に、カタリナのスープを飲み込む音と息づかいだけが響き、そしてスパイスの香りがいつまでも漂う。男と牢番は、カタリナから目を離せないでいた。
グー。
男のものか牢番のものか、誰かの腹が鳴った。
「あなたも召し上がる?」
カタリナはもう一つカップを出すと、それを牢番に差し出した。
「い、いいのですか?!」
「うふふ。命令よ」
カタリナがいたずらっぽく言ったためか、牢番は素直にカップを受け取ると一気にそれを飲み干した。鉄格子を掴んだままの男は、口をあんぐりと開け牢番の口元を凝視した。
「う、美味いです! こんな美味いスープ初めて飲みました!」
上気した表情で食の感想を述べる牢番から、カタリナはにこにことカップを受け取った。
「さて、戻りますわ」
カタリナが片付けを始めた。牢番もそれを手伝う。ごちそうさまでした、いえいえ……などと、のんびり話しながら。
「ま、待て! 俺は捕まってから何も食べていない。俺にもスープを!」
去ろうとするカタリナに、男は恥ずかしげもなく大声を出した。その姿を見たカタリナは、満足そうに頷くと、また螺旋階段へと戻って行った。
カタリナの後ろから、男の絶叫が聞こえる。
「何しに来たんだ! このサイコパス王妃めっ!」
カタリナは面白そうに笑いながら、前だけを見て呟いた。
「夜会を台無しにされた、八つ当たりに決まっているじゃない」




