静かなる侍女の血の決意
エレオノーラの自室の前では、侍女のヨハンナが唇を噛んでいた。
いつもなら就寝する時刻までエレオノーラの側に仕えている。しかし、今夜は部屋に明かりを灯す間もなく追い出されてしまった。
すべては夕食後に届けられた、あの手紙からだ。いや、正確には半年前から耳に入るようになった、あの噂からだ。
半年前、エレオノーラの婚約者である第二王子が男爵令嬢に熱を上げているとの噂が立ち始めた。十六歳の頃から、もう六年もローゼンベルク家に仕えているヨハンナは、周辺の屋敷に仕える侍女たちとの情報網でその噂を知った。貴族が社交界で噂を耳にするように、侍女には侍女の世界がある。
ヨハンナは大好きなエレオノーラの耳にその噂が入らないように注意を払った。が、それにも限界がある。
エレオノーラはローゼンベルク侯爵家の一人娘である。しがない子爵家の長女に生まれたヨハンナは、主となるエレオノーラを一目見た時から心酔してきた。
ローゼンベルク家は昔から、なぜか女児しか生まれない。そのため娘が侯爵を継ぐ、もしくは婿を取ることによって家を繋いできた。当然、一人娘のエレオノーラも侯爵家を継ぐべく教育を受けていた。
それは同じ貴族令嬢の立場で見ても、とても厳しいものだった。しかし、ヨハンナより六歳も年下のエレオノーラは、それを泣き言ひとつ吐かずに貪欲に学んだ。
固く閉ざされた扉の向こうからは、そんなエレオノーラの小さな泣き声が漏れ聞こえてくる。
噛みしめたヨハンナの唇には血が滲んだ。
「……消すか」
ヨハンナはひと言だけ言い残すと、扉に向かって一礼してから踵を返した。肩で揃えられた黒い髪がくるりと揺れる。ヨハンナはゆっくりと歩き出した。
「ヨハンナ、今夜はもう上がりか……って、おい! お前、唇どうした?」
ヨハンナが荒い足取りで厨房に入ると、厨房の片付けをしていた小太りの料理長がヨハンナの顔を見てギョッとした。
「私の唇なんて、エレオノーラお嬢様のお痛みに比べれば」
ヨハンナは座った目でブツブツ言いながら、料理長に近づいた。その負の勢いに、料理長は思わず後ずさる。
「料理長」
「な、何?」
「遅効性の毒を今すぐ準備していただきたい。できれば、男爵令嬢一人分の致死量を」
「そんなもん無いし、あっても渡せねぇよ!」
ヨハンナがチッと舌打ちをする。勤め始めた頃からのヨハンナを知っている料理長は、大きなため息を吐いた。普段は、貴族令嬢として躾けられた立派な侍女であるヨハンナ。しかし、エレオノーラのことになると血の気が多くなる。
「毒の量が具体的すぎる。何をしようとしているのか聞かなくてもわかるようだ」
「では、鹿か男爵令嬢をヤれる量を」
「取ってつけた鹿だな。それに、鹿に遅効性の毒を使うとか聞いたことがない」
ヨハンナは、まるで役立たずと言わんばかりに料理長を睨み付ける。料理長は肩をすくめた。
「お嬢様の噂のことだろう。お前が頭にくるのは理解できるし、俺もやりきれねぇ」
料理長はヨハンナの肩を軽く掴んだ。
「お前も貴族だからわかるだろう。お嬢様は今、理不尽な目にあっている。だがな、我らがエレオノーラお嬢様だ。すべて、ご自分で解決されるだろうよ」
ヨハンナはモスグリーンの瞳で、じっと料理長の目を見つめている。
「だから、お前はお嬢様の足を引っ張るな。いいな?」
真剣に話す料理長に、ヨハンナは深く頷いた。
「はい」
「その返事を聞けて安心したよ。今日はもう休め」
「わかりました。明日の朝食は、お嬢様が大好きなオムレツとポタージュスープをお願いします」
いつもの調子に戻ったヨハンナを見て、料理長はほっと笑顔を浮かべた。
「あと、今夜のうちに厨房にある刃物をすべて研いでおいてください」
「ヨハンナっ!」




