登城の馬車(ローゼ男爵家)
かれこれ半時間、クララは馬車に揺られていた。
お気に入りのクッションも暇つぶしの本もない。慣れない馬車にクララはどうも落ち着かない。
それもそのはず。
結局、男爵家の馬車が直ることはなかった。仕方なく、ヤーコプが隣の子爵家まで馬車を借りに走ったのだ。
快く馬車を貸してくれたという子爵家には、年頃の娘がいる。内心は複雑だろうとクララは他人事のように考えていた。
いつもなら老体に鞭打ってまで付いてくるマータは同行していない。夫である執事がいつまでも戻って来ないのだ。マータがいても気を遣うだけだし、とクララはあまり深く考えなかった。
寝てしまおうか。クララが瞼を閉じた瞬間、馬車が急に止まった。クララは思わず前のめりになる。
御者席から降りたであろうヤーコプが、閉まったままの扉越しに声を掛けてきた。
「すみません。車輪に蔦が絡まっているみたいで。すぐ取り除きますので、そのままお待ち下さい」
そう言うとクララの返事を待たずに、ヤーコプの足音が遠ざかる。
クララは行儀悪く足を伸ばした。
「ついているのか、いないのか」
ポツリと零したクララは、再び瞼を閉じた。
遠くで物音がする。鳥のさえずりが聞こえる。馬が鼻を鳴らす音がする……。
クララはその音を聞きながら、ウトウトと微睡んでいった。
深い眠りに入ってしまう直前。
コンコンコンと馬車の扉を叩く音がした。クララはハッと目覚め、無言で扉を見つめた。ヤーコプだったらノックなどしない。クララは少し緊張した。
「扉越しに失礼いたします。近くの屋敷に務める、侍女のヨハンナと申します」
こちらの不安を感じ取ったのか、扉の外からは落ち着いた女性の声がした。まだ返事をしないクララをよそに、ヨハンナと名乗る女性は続けた。
「屋敷の用事で馬を走らせておりましたら、あなた様の馬車が見えました」
クララは黙ったままでいた。
「失礼ですが、ヘルマン子爵家の馬車ですね。ヘルマン子爵家とうちの侯爵家は多少ご縁がございます。よろしければ、車輪を直すお手伝いをさせていただきたいのですが」
そっか。この馬車は隣の子爵家から借りたものだった。そのあたりの事情をここで説明するのは面倒くさい。それに、馬車の不備は子爵家のせいだ。
「お気遣いありがとう。ぜひお願いするわ」
クララは扉越しに返事をした。
馬車の外ではヤーコプと女性の声がする。ヤーコプの声のトーンから、女性と揉めている感じはない。クララはホッと息をついた。
車輪を動かしているのか、時折馬車が小さく揺れる。その度に、馬車の外から女性が声を掛けてきた。
「少し揺れますね」
「もう少しです」
この女性は侍女としてとても優秀なのだろうなと、クララは感心した。それにとてもいい人だ。立ち往生している馬車の修理を買って出る女性は珍しい。
耳心地のよい声と、その後ろから聞こえる鳥のさえずりのせいか、クララはまたウトウトと眠りについた。
気がついた時には、馬車は何事もなかったかのように走っていた。クララは、先ほどの出来事が夢だったのではないかとぼんやりと考える。
そこで、あることに気がついた。
馬車を助けてくれた、あの女性にお礼を言っていなかったのだ。彼女が勤める侯爵家の家名も聞いていない。
――ヤーコプは聞いてくれただろうか。
車窓から外を眺めていたクララの目に王城が映る。クララはスッと背筋を伸ばした。
そして、馬車を助けてくれた女性のことはすっかり頭から消えていった。




