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第7話 種

第7話 種


 朝露さえ降りなくなった頃だった。


 ミリアはいつものように夜明け前に起きた。


 窓を開けると、まだ薄暗い空に星が残っている。


 風は涼しい。


 けれど昼になれば焼けるような暑さになることを知っていた。


 母はかまどの前に立っていた。


 今日は少しだけ特別だった。


 黒パンと一緒に、小さな焼きリンゴが一つ皿に乗っていたのだ。


 去年の秋に干して保存していた最後の一つだった。


「今日は頑張る日だから」


 母が笑った。


 ミリアは驚いた。


「もったいないよ」


「食べなさい」


 焼かれたリンゴは柔らかく、甘い香りがした。


 口に入れると懐かしい秋の味が広がる。


 干ばつが始まる前の豊かな季節を思い出した。


 少しだけ涙が出そうになった。


「ありがとう」


 母は優しく頭を撫でた。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 ミリアは山へ向かった。


 湧き水の音が聞こえる場所へ。


 そこにはヨナが待っていた。


 岩の上に座り、小さな布袋を膝の上に置いている。


「おはよう」


「おはようございます」


 ルカも来ていた。


 羊たちが周囲の草を食べている。


「今日は面白いものを見せてやろう」


 ヨナはそう言って布袋を開いた。


 中には種が入っていた。


 茶色く小さな種。


 見た目は特別でも何でもない。


「種?」


 ミリアが尋ねる。


「そうじゃ」


「何の?」


「乾燥に強い豆じゃ」


 ヨナは一粒摘み上げた。


「昔、南の砂漠の国で手に入れた」


「育つんですか?」


「育つ」


 ルカが首を傾げる。


「この天気で?」


「だから乾燥に強いんじゃ」


 ヨナは笑った。


 その日の昼、ヨナは神殿前の広場で村人たちに種を見せた。


「皆に分けよう」


 村人たちは顔を見合わせる。


「何だそれ」


「豆じゃ」


「今さら豆?」


 農夫のガルドが呆れたように言った。


「雨も降らないのに育つものか」


「そうだ」


「畑はもう死んでる」


「無駄だ」


 不満の声が上がる。


 ヨナは静かだった。


「試してみればよい」


「試すまでもない」


 誰かが鼻で笑う。


「神が雨を降らせれば済む話だ」


「そうだそうだ」


 人々は頷いた。


 ミリアはその様子を見ていた。


 まただ。


 湧き水の時と同じだった。


 何かが差し出される。


 すると人々はまず理由を探して拒む。


 ヨナは一粒の種を手のひらに乗せた。


「この小さな種が命をつなぐかもしれぬ」


「かもしれないだろう?」


 ガルドが笑った。


「俺たちは確実な雨が欲しいんだ」


 結局、誰も種を受け取らなかった。


 広場に残ったのはミリアだけだった。


 ヨナは微笑む。


「どうする?」


 ミリアは種を見つめた。


 小さい。


 本当に小さい。


 これで何が変わるのだろう。


 だが湧き水もそうだった。


 最初は細い流れだった。


 それでも本物だった。


 ミリアは両手を差し出した。


「ください」


 ヨナの目が優しく細くなる。


「よし」


 種が手のひらへ落ちる。


 軽い。


 風で飛びそうなほど軽い。


 だが不思議と重みを感じた。


 その日の夕方。


 ミリアは家の裏の小さな畑へ向かった。


 かつて野菜を育てていた場所だった。


 今は土がひび割れている。


 乾いて白くなっていた。


 母も出てくる。


「何を植えるの?」


「豆」


「この時期に?」


「うん」


 母は種を見つめた。


 少し不安そうだった。


「育つかしら」


「分からない」


 ミリアは正直に答えた。


「でもやってみたい」


 母は笑った。


「それならやってごらん」


 二人で土を掘る。


 固かった。


 鍬を入れるたびに腕が痺れる。


 それでも少しずつ耕した。


 そこへ種を植える。


 一粒ずつ。


 丁寧に。


 祈るように。


 翌朝。


 ミリアは水を運んだ。


 山から。


 湧き水から。


 重い桶を担いで。


 肩が痛い。


 足も痛い。


 だが畑へ水をかける。


 ほんの少しだけ。


 それしかできない。


 昼になると村人たちが笑った。


「まだやってるのか」


「豆娘だな」


「雨も降らないのに」


 ミリアは言い返さなかった。


 ただ水を撒いた。


 翌日も。


 その翌日も。


 毎日続けた。


 朝は黒パン。


 昼は豆の煮込み。


 夜は野菜のスープ。


 食事は質素になっていく。


 体も疲れていく。


 それでも水を運んだ。


 ある日。


 夕暮れの畑でミリアはしゃがみ込んでいた。


 疲れていた。


 本当に育つのだろうか。


 自分は無駄なことをしているのではないか。


 そんな考えが頭をよぎる。


 その時だった。


「元気ないな」


 ルカだった。


 羊を連れて帰る途中らしい。


「ちょっとね」


「見てやる」


 ルカは畑を覗き込んだ。


 しばらく黙っていたが、突然言った。


「大丈夫だ」


「どうして?」


「だってまだ死んでない」


 ミリアは思わず笑った。


「何それ」


「羊だってそうだよ」


 ルカは肩をすくめた。


「生きてるうちは諦めない」


 その言葉に救われた気がした。


 夜。


 ミリアは窓から星空を見上げた。


 相変わらず雨は降らない。


 雲もない。


 でも少しだけ考え方が変わっていた。


 以前は空ばかり見ていた。


 今は違う。


 土を見る。


 水を見る。


 種を見る。


 そして人の言葉を聞く。


 ヨナの言葉。


 ルカの言葉。


 母の言葉。


 もしかしたら。


 本当に大切なものは、いつも小さい姿でやって来るのかもしれない。


 湧き水のように。


 種のように。


 誰も見向きもしないほど小さく。


 けれど確かに命を運ぶものとして。


 ミリアは目を閉じた。


 そして明日もまた水を運ぼうと思った。


 たとえ誰に笑われても。


 たとえまだ芽が出なくても。


 この小さな種を信じてみようと決めたのだった。



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