第6話 祈りの答えはどこに
第6話 祈りの答えはどこに
湧き水を見つけてから十日ほどが過ぎた。
ミリアは毎日、山へ通っていた。
夜明け前に起きる。
麻のブラウスに古いスカートを身につけ、母が焼いてくれる黒パンを布に包む。
時には豆の団子。
時には干し果物を一つ。
質素な食事だったが、今の村では贅沢な方だった。
朝焼けの中を歩き、山へ登る。
水を汲み、村へ運ぶ。
肩は赤く擦り切れていた。
腕も痛い。
それでも続けた。
誰かが飲めるからだ。
小さな子どもが。
年老いた人が。
病気の人が。
水を待っている。
だが村の空気は変わらなかった。
むしろ悪くなっていた。
広場では毎日のように不満が飛び交う。
「まだ雨は降らないのか」
「神はなぜ沈黙しておられる」
「このままじゃ畑が全滅だ」
「湧き水なんて気休めだ」
その言葉を聞くたびに、ミリアの胸は重くなった。
あんなに嬉しかったのに。
あんなに冷たく美しい水だったのに。
なぜ誰も喜ばないのだろう。
ある日の夕方だった。
ミリアは一人で山へ登っていた。
水を運び終えた帰り道。
西の空が赤く燃えている。
乾いた風が草を揺らし、遠くで鳥が鳴いた。
湧き水の近くまで来ると、ヨナが岩の上に腰を下ろしていた。
夕日に照らされた横顔は、どこか寂しそうだった。
「疲れた顔をしておるな」
ミリアは苦笑した。
「分かりますか」
「分かる」
ヨナは隣を指差した。
「座りなさい」
ミリアは腰を下ろした。
湧き水の音が聞こえる。
さらさら。
さらさら。
それだけで少し心が落ち着いた。
しばらく黙っていたが、やがてミリアは口を開いた。
「ヨナさん」
「なんじゃ」
「神様は本当に聞いておられるのでしょうか」
ヨナは何も言わなかった。
ミリアは続ける。
「みんな毎日祈っています」
「うむ」
「長老も祈っています」
「うむ」
「私も祈っています」
声が少し震えた。
「なのに雨は降らない」
風が吹く。
木々の葉が揺れた。
「みんな神様は沈黙しているって言います」
ヨナは湧き水を見つめていた。
やがて静かに尋ねる。
「お前さんはどう思う」
ミリアは答えられなかった。
本当は分からない。
信じたい。
でも苦しい。
祈っても変わらない現実が目の前にある。
ヨナは小石を拾った。
そして水面へ投げる。
ぽちゃん。
小さな波紋が広がった。
「神は答えを送る」
ヨナが言った。
ミリアは顔を上げた。
「え?」
「神は答えを送る」
老人は同じ言葉を繰り返した。
「だが人は、自分の期待した包み紙しか受け取らない」
ミリアは首を傾げる。
「包み紙?」
ヨナは微笑んだ。
「たとえば、お前さんが腹を空かせておるとする」
「はい」
「誰かがパンをくれる」
「うん」
「だが、お前さんは焼き菓子が欲しかった」
ミリアは思わず笑った。
「そんなこと言いません」
「本当にか?」
ヨナは目を細めた。
「人は案外そういうものじゃ」
ミリアは黙った。
ヨナは続ける。
「村人たちは何を願っておる」
「雨です」
「そう」
「畑を潤す雨」
「そうじゃな」
ヨナは湧き水を指差した。
「ではこれは何じゃ」
「水です」
「命を救う水じゃ」
「はい」
「だが皆は言う」
ヨナは村人たちの口調を真似した。
「こんなのでは足りない」
ミリアは思わず苦笑した。
「本当の奇跡じゃない」
「言ってました」
「なぜじゃと思う」
ミリアは考えた。
答えはなかなか出ない。
だが少しずつ分かってきた。
「雨じゃないから……?」
「そうじゃ」
ヨナは頷いた。
「彼らは雨という包み紙しか受け取らぬ」
湧き水が流れる。
静かに。
絶え間なく。
「だが神は水を送った」
ミリアの胸がどくりと鳴った。
ヨナはさらに言う。
「ルカを送った」
「……」
「山を送った」
「……」
「知恵を送った」
ミリアは何も言えなかった。
今まで考えたこともなかったからだ。
その時だった。
遠くで羊の鳴き声がした。
ルカだった。
羊たちを連れて帰る途中らしい。
「おーい!」
元気な声が響く。
「今日は二頭も子羊が生まれた!」
満面の笑顔だった。
ミリアは手を振った。
ルカはすぐに走り去っていく。
その背中を見ながらヨナが言った。
「子どもだから聞かぬ」
「うん」
「旅人だから聞かぬ」
「うん」
「だが雨なら聞く」
ミリアは思わず吹き出した。
「それ変ですよね」
「変じゃな」
二人は笑った。
久しぶりに心から笑った気がした。
日が沈み始める。
空は黄金色から紫色へ変わっていく。
ミリアは湧き水を見つめた。
小さな奇跡。
誰も奇跡だと思わない奇跡。
だが確かに命を支えている。
帰り道。
村へ続く坂を下りながら、ミリアは考えていた。
父の言葉。
ヨナの言葉。
ルカの言葉。
そして湧き水。
もし神様が本当に答えを送っているのなら。
もし自分たちが見落としているだけなのなら。
それはとても怖いことかもしれない。
神様が沈黙しているのではない。
自分たちが聞いていないだけなのだから。
村の灯りが見えてきた。
神殿の鐘が鳴る。
今日も人々は空を見上げて祈るだろう。
だがミリアは少し違っていた。
空を見るだけではなくなっていた。
地面を見る。
山を見る。
人の話を聞く。
そして胸の奥で、小さな確信が芽生え始めていた。
もしかしたら。
本当に大切なのは、祈りの後なのかもしれない。
祈った後、何を聞き、何を見るのか。
その方がずっと大事なのかもしれない、と。




