第11話 山の水が空を飛ぶ日
第11話 山の水が空を飛ぶ日
収穫祭から数週間が過ぎていた。
久しぶりの雨で村の畑は潤いを取り戻し、人々の表情にも明るさが戻っていた。しかしミリアは満足していなかった。
朝の光が山の斜面を照らすなか、彼女は麦わら帽子をかぶり、麻のシャツに動きやすい茶色のズボン姿で山道を登っていた。背には空の水桶を背負っている。
隣には羊飼いのルカがいた。
「また湧き水を見に行くの?」
「うん」
「もう雨が降ったのに?」
「だからこそよ」
ルカは首を傾げた。
山の奥へ進むと、岩陰から澄んだ水が絶え間なく湧き出している。
さらさら。
きらきら。
朝日を受けて水面が銀色に輝いていた。
ミリアはしゃがみ込み、水に手を浸した。
冷たい。
透き通るような冷たさだった。
「もったいないなあ」
「何が?」
「この水」
ルカは辺りを見回した。
「いっぱいあるじゃない」
「だからよ」
その時だった。
背後から聞き慣れた声がした。
「ようやくそこに気付いたか」
振り返るとヨナがいた。
相変わらず古びた灰色の外套をまとい、杖を手にしている。
ミリアは笑った。
「また突然現れるんですね」
「老人とはそういうものだ」
ヨナは岩に腰を下ろした。
「何を考えていた?」
「この水を畑まで運べないかなって」
「運ぶだけか?」
「え?」
ヨナは湧水を見つめた。
「水は高いところから低いところへ流れる」
「はい」
「それだけだ」
「それだけ?」
「神が作った法則だ」
ミリアはしばらく考えた。
そして突然立ち上がった。
「まさか!」
その日の夕方。
村の広場。
ミリアは村人たちを集めていた。
長老エリアスもいる。
「みんな聞いてください!」
「今度は何だね?」
「山の水を畑へ流します!」
村人たちは顔を見合わせた。
「どうやって?」
「運ぶのか?」
「桶が何百個必要なんだ」
ミリアは地面に棒で絵を描いた。
山。
水源。
畑。
線。
「木の管をつなぎます」
一瞬の沈黙。
そして。
「は?」
「管?」
「そんなもので?」
笑い声が起きた。
以前ならミリアは落ち込んでいただろう。
しかし今は違う。
「笑いたければ笑ってください。でも私はやります」
ヨナが小さく笑った。
「その顔ができるようになったか」
翌日から工事が始まった。
村の若者たちが山へ入る。
木を切る。
中をくり抜く。
長い管を作る。
畑までつなぐ。
汗の匂い。
木屑の香り。
槌を打つ音。
乾いた空気の中に活気が満ちていた。
ルカも懸命に働いた。
「ミリア姉ちゃん!」
「どうしたの?」
「ここ水漏れてる!」
「布を巻こう!」
夕方になると皆で簡素な食事を囲んだ。
黒パン。
山羊のチーズ。
豆の煮込み。
焼いた玉ねぎ。
以前の飢えの頃に比べれば夢のような食卓だった。
エリアスは豆を口に運びながら言った。
「本当に水が来るのかね」
「来ます」
「根拠は?」
「神様が作った法則です」
ヨナが吹き出した。
「なかなか言うようになった」
そして数日後。
ついに完成の日が来た。
村人たちが畑へ集まる。
空は青い。
風が吹く。
鳥が鳴く。
皆が固唾を飲んで見守った。
ミリアが叫ぶ。
「水門を開けて!」
山の上で若者が板を外した。
ごぼっ。
ごぼごぼっ。
管の中を水が流れ始める。
村人たちは息を呑んだ。
しばらくして。
先端の細い木管から。
ぴゅっ。
水が飛び出した。
「出た!」
ルカが叫ぶ。
さらに。
ぴゅうううっ!
勢いよく空へ噴き上がった。
太陽の光を浴びた水滴が虹色に輝く。
歓声が上がった。
「おおおお!」
「飛んだ!」
「空へ飛んだぞ!」
子どもたちが走り回る。
水しぶきが顔にかかる。
冷たい。
気持ちいい。
笑い声が広がる。
畑へ細かな水滴が降り注ぐ。
まるで小さな雨だった。
エリアスは呆然としていた。
「これは……」
「噴水です」
ミリアが胸を張る。
「高い場所にある水の力です」
ヨナは満足そうに頷いた。
「神の法則は美しいな」
夕暮れ。
赤く染まる畑を見ながら村人たちは語り合った。
誰も文句を言わない。
誰も不満を言わない。
子どもたちは噴水の周りではしゃいでいる。
ルカが尋ねた。
「ヨナさん」
「何だ」
「これも奇跡?」
老人は笑った。
夕日が皺だらけの顔を照らす。
「どう思う?」
ルカはしばらく考えた。
そして答えた。
「神様が最初から置いてくれていた仕組みを見つけたんだと思う」
ヨナは嬉しそうに目を細めた。
「その通りだ」
ミリアは空を見上げた。
噴き上がった水が夕日に照らされ、金色の霧になっていた。
雨を待っていた頃には見えなかった景色だった。
神は空の上だけにおられるのではない。
山にも。
湧き水にも。
土にも。
知恵にも。
耳を傾ける心にも。
その全ての中におられる。
そう思うと胸が温かくなった。
その夜、村人たちは広場で祝宴を開いた。
焼いた羊肉の香ばしい匂いが漂う。
野菜の煮込みから湯気が立つ。
焼きたての黒パンが籠に山盛りにされている。
ルカは頬いっぱいに肉を頬張りながら言った。
「来年はもっと畑を増やそう!」
「いいわね」
「噴水も増やそう!」
「それもいい」
皆が笑った。
その輪の少し外でヨナは静かに空を見上げていた。
満天の星。
老人は小さく呟く。
「聞く耳を持つ者が一人いれば、村は変わる」
その言葉を聞いたミリアは微笑んだ。
そして心の中でそっと答えた。
「いいえ」
「一人が聞けば、次の一人が聞くようになるんです」
噴水の水音は夜になっても止まらなかった。
さらさら。
さらさら。
まるで神の優しい笑い声のように、いつまでも村を潤し続けていた。




