第1話 空を見上げる村
第1話 空を見上げる村
雨が降らなくなって、もう半年が過ぎていた。
かつて村の中央を流れていた川は、今では細い溝のようになっている。川底には白く乾いた石がむき出しになり、ひび割れた土の隙間から熱い風が吹き上がっていた。
ミリアは空っぽの水桶を抱えながら、村の入口で立ち止まった。
見上げた空はどこまでも青い。
雲ひとつない。
美しいほどに晴れている。
だからこそ恐ろしかった。
「また晴れだね」
隣で声がした。
幼なじみの少女エマだった。色あせた茶色のワンピースの裾を押さえながら、ため息をついている。
「うん」
「昨日も晴れ。一昨日も晴れ。その前も」
「そうだね」
「もう雨の降り方を忘れそう」
エマは苦笑した。
ミリアも笑おうとしたが笑えなかった。
村の畑はひどい状態だった。
小麦は途中で枯れ、豆も育たない。
牧草も不足し、羊や山羊は骨が浮き出るほど痩せている。
最近では鶏まで卵を産まなくなった。
空気にはいつも土埃が混じり、口の中がざらつく。
朝から晩まで喉が渇いている気がした。
二人は神殿へ向かった。
村人たちも同じ方向へ歩いている。
誰もが疲れた顔をしていた。
くたびれた麻の上着。
日に焼けた帽子。
何度も繕ったズボン。
以前なら収穫祭で着るような鮮やかな服も見られたが、今は誰もそんな余裕はない。
神殿の前に着くと、人々は静かに列を作った。
石造りの神殿は村で一番大きな建物だった。
入口には干からびた花束が供えられている。
長老エリアスが祭壇の前に立った。
六十を超えているが背筋は真っすぐだった。
白い長衣の袖を整えながら人々を見渡す。
「皆の者」
低い声が響いた。
「神は我々を見捨ててはおられない」
人々は黙って聞いている。
「試練は終わる」
「いつですか」
誰かが言った。
「畑はもう駄目です」
「牛が二頭死にました」
「子どもたちに食べさせるものがありません」
悲痛な声が次々と上がる。
エリアスは目を閉じた。
「だからこそ祈るのです」
人々はひざまずいた。
ミリアも頭を垂れる。
石床の冷たさが膝に伝わった。
静寂。
遠くで風が鳴る音だけが聞こえる。
そしてエリアスが祈り始めた。
「どうか大雨をお与えください」
人々も続く。
「大雨を」
「畑を潤してください」
「川を満たしてください」
「家畜を救ってください」
祈りの声は神殿いっぱいに広がった。
だが外では相変わらず乾いた風が吹いている。
ミリアはそっと目を開いた。
祭壇の向こうに見える空は、やはり青かった。
どこまでも。
どこまでも。
雲ひとつない。
祈りが終わると、人々は重い足取りで帰っていった。
ミリアも家へ戻る。
小さな石造りの家だった。
母は台所で鍋をかき回している。
夕食の匂いがした。
しかし昔のような肉の香りではない。
野草と豆の匂いだった。
「おかえり」
「ただいま」
鍋の中を見る。
薄いスープ。
豆が少し。
野草が少し。
それだけだった。
「今日もこれしかなくてごめんね」
母は申し訳なさそうに笑った。
ミリアは首を振る。
「十分だよ」
本当はお腹が空いていた。
でも母も同じだった。
二人は木の椅子に座った。
スープを口に運ぶ。
塩気はほとんどない。
それでも温かかった。
胃に落ちると少しだけ安心する。
「雨、降るかな」
母がぽつりと言った。
「降るよ」
「そうだね」
母は微笑んだ。
けれどその目には疲れがあった。
食事の後、ミリアは家の外へ出た。
夕焼けが村を赤く染めている。
畑は黒い影になっていた。
乾いた土。
枯れた茎。
沈黙する畑。
以前はこの時間になると虫の声が聞こえた。
今はほとんど聞こえない。
ミリアは空を見上げた。
赤い空。
やがて紫色に変わる。
星がひとつ現れた。
「お願いです」
思わず呟いた。
「雨を降らせてください」
その声は風に溶けて消えていった。
村中の人々もきっと同じように祈っている。
家の中で。
畑の脇で。
神殿で。
みんな空を見上げている。
雨を待っている。
ただひたすらに。
空だけを見つめながら。
その時だった。
遠くの街道に、小さな人影が見えた。
夕暮れの光の中をゆっくり歩いてくる老人だった。
長い旅をしてきたような杖をつき、古びた外套をまとっている。
ミリアは不思議そうに目を細めた。
「旅人……?」
老人は村へ向かって歩いてくる。
だがミリアはまだ知らなかった。
その老人との出会いが、自分たちの祈りの意味を大きく変えることになるとは。
まだ誰も知らなかった。
奇跡が、もう村へ近づいていたことを。




