幕間 ミオとリリア3
太陽が西に沈む頃、ケセドでの訓練を終えたミオは、
いそいそと訓練用のスーツを脱ぎ捨てると、質素な修道服へと着替える。
「そんな慌てなくても、姫は逃げないっしょ」
アリサは、そんなミオの様子を見て笑いながら声をかける。
「わかってるけど、なんかじっとしてられないの!」
そう言いながら、笑顔で送り出すエリザやアリサを横目に、
ミオはエレベーターへと向かう。
ミオは修道院の廊下を、リリアの部屋へと向かって歩いていた。
いつもなら走って向かうところだが、今日は違う。
(出しゃばりすぎない。飾らない。無理して笑わない……)
そう自分に言い聞かせて、意識してゆっくりと歩を進める。
早くリリアと話したいというウキウキした気持ちはどうしても隠しきれない。
昨日、リリアは初めて声を聞かせてくれた。
「さっきの笑顔は……その……悪くない……と思う」
その声を思い出すと。歩幅は自然と弾み、
口元はだらしなくニヤニヤと緩んでしまっていた。
部屋の前に着くと、ミオは一度深呼吸をして表情を引き締めた。
そっとノブを回して扉を少しだけ開ける。
隙間からひょっこりと顔を覗かせ、小さな声で問いかけた。
「……リリア、今大丈夫?」
バサッと、いつものようにシーツを被る音。
ベッドの上にいたリリアは、
ミオの顔を見るなり反射的にシーツを引き寄せた。
だが、昨日までのように頭まですっぽりと被ることはない。
シーツで口元だけを隠し、その縁から紫紺の瞳だけを出して、
ミオの方をチラチラと窺っている。
「……少しなら」
警戒しつつも、返ってきた返事に拒絶の色はない。
ミオはパァッと顔を輝かせたが、すぐに「いけない」と表情を戻した。
「よかった!ありがとう、リリア」
ミオが静かに部屋へ入ると、ある異変に気がついた。
ベッドサイドのテーブルや床に、見たこともない分厚い古書や、
小難しい数式が並んだ書類の束が山のように積まれていたのだ。
中には、レイブンスウッドの翼の紋章が入ったファイルまで混ざっている。
「これ……どうしたの?」
ミオが目を丸くして尋ねると、リリアはシーツを掴んだまま、
小さな声で答えた。
「あなたが昨日帰った後…いつもの大きな女の人が様子を見に来た。
……それで、頼んで、持ってきてもらった」
そう断片的に告げると、リリアはその中から分厚い『~の神秘主義』と、
タイトルのついた難解そうな本を取り出した。
そしてペラペラとページをめくり始める。
「……」
早くも会話が途切れる。
それでも、ミオには嬉しかった。
(よし、普通に話せた!一歩前進!でも慌てちゃダメ、ゆっくりと……)
ミオは話掛けたい気持ちを抑え、
ベッドから少し離れた椅子にちょこんと座ってみる。
いつ話しかければいいのか分からず、おずおずとタイミングを計っていた。
一方リリアも、視線は本に落としてはいるものの、
その実、全くページは進んでいない。
横目でたまにチラ、チラ、とミオに視線が向いてしまう。
沈黙に耐えかねたのか、先に口を開いたのはリリアの方だった。
「……今日は、『アレがあった』とか『コレがあった』とか……言わないの?」
「言って……いいの!?」
ミオの顔がパァァッと明るくなった。
抑えていたものが溢れ出すように、その表情がほころんでいく。
花が、静かに咲いていくのを見るようだった。
リリアはそう感じた瞬間、顔よりも大きな本に顔を埋めた。
「……好きにしたらいいじゃない」
リリアのその言葉を合図に、ミオの堰を切ったようなお喋りが始まった。
「あのね! 今日はね、中庭で珍しい虫を見つけたの!」
エリザにこっそりお菓子をもらった話、
アリサの体術の稽古が厳しすぎること。
ミオは今日あった出来事を、思いつくままに喋り出す。
リリアは分厚い本で顔を隠し、時々ミオに視線を向けながら、
黙ってそれに聞き耳を立てていた。
「ふーん……」
ミオの話が一段落したところで、リリアがポツリと呟いた。
「そんな感じ、なんだ……。ここって」
リリアが読み漁った本の山。
そこには、彼女の「全知」が映し出す知識の裏付けを取るための
ものばかりが積まれていた。
RSGとアッザリアの血にまみれた歴史――
自分が本来知るはずのなかった、世界史や理論。
それは、全て事実だった。
けれど。
本のどこにも書かれていないものがあった。
中庭の虫のこと。こっそりもらったお菓子のこと。
厳しすぎる体術の稽古のこと。
それは「全知」ではなく、ミオの言葉だけが運んでくるものだった。
リリアはそっと本を閉じた。
そして、手をベッドにつくと、ひょいっと体だけをミオの方へと向けた。
まだ、まっすぐミオを見ることには抵抗があった。
「……ねえ。あなたは、私が何なのか知ってる?」
世界の修復の鍵。
全知の巫女。
ナハシュ・アルールという呪われた蛇の器。
大人たちが押し付けてきた肩書を、この少女も知っているはず。
だが、ミオはきょとんと首を傾げ、当たり前のような顔でこう答えた。
「え? リリアは、その……リリアだよね?
しいて言うなら、お人形みたいに可愛い女の子」
少し照れた笑顔をミオは浮かべる。
「……」
リリアは言葉を失い、呆然とミオを見つめた。
呪われた化け物でも、奇跡の巫女でもない。
ただの『リリア』。
世界中の誰一人として向けてくれなかった、
何の装飾もない当たり前であったはずの言葉がそこにあった。
呆然とするリリアに向けて、ミオはにかっと笑って付け足した。
「ちなみに、私はミオだよ。よろしくね!」
その言葉に、リリアは少しだけ目を伏せ、シーツをきゅっと握りしめた。
「……うん、よろしくね、ミオ。今日は疲れたから……少し寝る」
そう言うと、リリアは再びシーツを頭から覆いかぶさった。
ミオはその姿を黙って見つめている。
(もう少し、話したかったな……)
ミオの口の端が綻んでくる。
(けど、名前、呼んでくれた!「よろしくね」だって!)
すっとミオは立ち上がると、ドアへと向かう。
「今日は話せて嬉しかった!また明日ね、おやすみ」
ミオが部屋を出ていくと、リリアはシーツから顔を出した。
そして、ミオが出ていったドアをじっと見つめるのだった。




