幕間 ミオとリリア4
それからの数日。
ミオは毎日リリアの部屋へ通い続けた。
ミオの笑顔には穏やかな温もりが増していった。
エヴァやエリザ、アリサもその様子に胸を撫で下ろした。
「最近さ、ミオの笑顔が前より輝いて見えるんだよねー、
あの笑顔眩しいー!さすが私の妹だわ!」
アリサがそう言ってリンゴを口に運びながら笑う。
「そうね、一時はどうなるか不安だったけど、本当に良かった」
エリザは安堵の表情を浮かべている。
後から部屋に来たエヴァンジェリンが、
そんな2人を怪訝な表情で見つめていた。
「で、なんでアンタ達がここにいるんだい……」
3人がいたのは、本来、捕虜を拘束するための隔離室。
つまりはヒルデガルドの部屋だ。
「エヴァンジェリン様がきちんと鍵をしないからですよ……」
ベッドの上のヒルデガルドがため息交じりに呟いた。
「あんたは捕虜じゃない、鍵をかける必要なんかないだろ。
それより、ここは訓練生立ち入り禁止だと言っただろうに、
まったくお前達は……」
エリザとアリサはミオの様子が気になって後を付ける内に、
ヒルデガルドの部屋へ紛れ込んだ。
そして、エヴァの知らぬ間にミオについての相談をするようになっていた。
「ミオは最近、訓練と姫の相手が忙しくてここに来れてないじゃないですか?
だから代わりに私達がこうやって、差し入れ持ってきてるんですよ!」
そう言ってアリサはリンゴを頬ばりながら、
フルーツの入ったバスケットをエヴァに見せた。
「あんたか、最近食堂から勝手に持ち出してるって噂の犯人は」
「いや、ちゃんと料理長の許可は貰ってるますってば!」
静かな部屋にアリサの元気な声とエヴァの呆れた声が響く。
ヒルデガルドはその様子を見てクスクスと静かに笑った。
「エヴァンジェリン様、その辺りで許してあげてください。
彼女達の行為は、決して悪い方向には向きませんから」
「まあ、ヒルデガルドがそう言うなら……」
ヒルデガルドの表情を見てエヴァンジェリンに僅かに安堵の色が浮かぶ。
ケセドを抜け出し、死を決意していたあの時の悲壮感は消え失せていた。
ヒルデガルドはエヴァに顔を向け、静かに言葉を紡いだ。
「エヴァンジェリン様、感謝を」
エヴァンジェリンは小さく息を吐くと、静かに微笑んだ。
「こっちのセリフさ。あんたのアドバイスのおかげで今ミオもリリア様も、
私達も救われてるんだ」
その言葉にエリザが頷き、アリサが「そうそう!」と調子良く相槌を打つ。
無機質な隔離室がいつの間にか、陽だまりのような温かさに満たされていく。
それは慈愛の団、ケセドを象徴するような温もりに溢れる景色だった。
一方その頃——
ミオはいつものようにリリアの部屋を訪れていた。
少し離れた場所に置かれた椅子にミオはちょこんと腰を掛け、
今日あった出来事をリリアに報告する。
リリアは相変わらずそっけない態度で本を読みながら、
それでもミオの話を追い出すことなく、静かに聞き入れている。
ふと、ミオはリリアの手元に目をやった。
今日の本はいつもの難しい文字の羅列ではなく、
細密な線画が並ぶ図鑑のようだった。
開かれた頁には、イギリスの淡水に棲む生き物たちが描かれている。
「へえ、リリアが図鑑なんて珍しいね」
「別に……私だって難しい本ばかりじゃ飽きるの」
リリアの指先が、頁の隅の小さな甲殻類の絵に触れていた。
「リリアの国にはいないの?」
「……私の故郷は砂漠」
返事はそれだけだった。
たまにそうやって相槌を打つくらいで、大きな変化はない、
とミオは思っていた。
(あれ?)
ミオがふと感じた違和感。
(気のせいかな?いつもよりリリアが近いような……)
昨日よりもちょっとだけ椅子がベッド近くに寄せてあった。
「リリア……もしかしてだけど……」
ミオはそう言いかけたあと、黙って本に向き合っているリリアを見て、
言葉を飲み込んだ。
せっかく心を開いてきてくれたリリアを、
これ以上困らせたくなかったからだ。
「ん……なに?」
ちらりと横目でミオに視線を送るリリアに、
ミオは首を横に振って、「なんでもないよ」と微笑みかけた。
「……変な人」
そう呟くと、リリアは再び本に視線を戻した。
最初は少し離れた位置に置いてあった椅子は、
それからも訪れるたび、椅子の位置がちょっとずつ動いていた。
そして、いつの間にかベッドのすぐ横に置かれるようになっていた。
ミオはその場では気づかないふりをしながらも、
エヴァ達に自慢げに報告するのだった。
リリアの口数は相変わらず少なかった。
それでも、ミオはありのままの自分が受け入れもらえたことが嬉しかった。
リリアにも小さな変化が起きていた。
自分が自分でいるために、数字を数え続ける——
あの自我を保つ為の儀式は、ミオを受け入れてからは必要無くなっていた。
二人の間に決定的な変化が起きたのは、それから一ヶ月が過ぎた頃だった。
その日、ミオは部屋に入ってくるなり、
盛大なため息をついてベッドの端に突っ伏した。
「はあぁぁ……」
本から顔を上げたリリアが、呆れたように言った。
「もう……入ってくるなり何?」
ベッドに顔を埋めたミオの髪が濡れている。
「来るならちゃんと髪を乾かしてからにして」
ミオはもごもごと話し始めた。
「今日、地上で訓練があってね。
その帰りに私、川で流されそうになっちゃってさ、
さっきまでめちゃくちゃ怒られてた……」
リリアの瞳が一瞬揺らぎを見せた。
「……どうすればそんなことになるの?」
だが、少し間をおいて、リリアはいつもの調子でミオに返した。
「ん……」
ミオはベッドに突っ伏したまま両手をリリアの方へと向ける。
その手にはガラス瓶が握られていた。
何かが、もぞもぞと瓶の中で動いている。
リリアはベッドの上で膝をつくと興味深げに近づく。
「これ……もしかしてザリガニ?」
紫紺の瞳が丸く輝きを帯び、瓶の中を覗き込んだ。
「どうして……?」
その瞳がミオに向けられ、ミオは柔らかな笑みを浮かべた。
「リリアさ、この間、図鑑ずっと見てたでしょ?
それで、本物見せてあげられたらなーって思ってたの。
今日の帰り道で川を見つけてね、ひょっとしているかな?って。
そしたら岩陰にその子がいたの!
捕るのに夢中になってたら苔で滑って川に落ちちゃって……」
ミオが当時の悲惨な状況を、
身振り手振りを交えながら大げさに再現して見せた、その時だった。
「……ぷっ」
部屋の中に、小さな、本当に小さな吹き出すような音が響いた。
ミオが驚いて振り返ると、リリアが口元を両手で押さえ、
必死に肩を震わせていた。
「……バカね、ミオは」
それは、リリアが初めてミオに見せた、明確な「笑顔」だった。
「えっ、リリア……今笑った!? 」
「笑ってない、バカって言ったの」
リリアは澄ました顔を作って本を手に取った。
だが、その本は上下逆さまであり、銀髪から覗く耳の先は、
ほんのりと薄紅に色づいていた。
「やった……リリアが笑った……」
ミオは噛みしめるようにそう呟いた。
「笑ってな……」
本から顔を上げたリリアの視界に飛び込んできたのは、
ぽろぽろと涙をこぼしながら、
柔らかな笑みを浮かべるミオの顔だった。
「もう……なんで、泣くの」
暖かな日差しが窓から差し込みリリアの頬を照らし出した。
ミオはその日差しの中、少し照れくさそうに首を傾げる。
「なんでって……嬉しいから?」
ぽすん、と柔らかな音を立ててリリアは枕をミオに押し付けた。
「バカなんだから」
そう言ってリリアはクスクス控えめな笑い声を上げる。
つられてミオも笑い出すと、しばらくの間、
二人の笑い声が部屋に響き渡っていた。
それ以来、リリアは少しずつ、
ミオにだけ「年相応の素顔」を見せるようになっていった。
「また明日ね」
2人の会話はいつのまにか、その言葉で締めくくられるようになっていた。
ヒルデガルドの部屋では、いつもの3人が彼女を囲んでいた。
ヒルデガルドが、そういえば、と口を開く。
「ガレスとパーシヴァルの様子はどうです?」
「あいつらなら心配ないよ。まだ松葉杖こそ手放せないが、
体を動かしたくて仕方ないみたいでね……」
エヴァの言葉に、アリサが天を仰ぎながら言った。
「あれだけ元気ならさ、もうティファレトに帰ったらいいのにね~」
「アリサ、言い方……。まあ、確かに訓練の後に、
あの2人の相手はトレーニング追加されてるみたいで正直キツイけど」
アリサに苦言を挟みつつもエリザの言葉の端にも幾分か徒労感が滲んでいた。
ヒルデガルドの顔には安堵と、2人への同情が入り混じった表情が浮かぶ。
その時、部屋のドアがバタン、と音を立てて開くと、
息を切らせたミオが飛び込んできた。
「ヒルデガルド!、エヴァ!って……エリザ姉、アリサ姉?」
エリザとアリサの二人まで揃っていることはミオにとって予想外だった。
だが、そんなことを気にする余裕もなかった。
肩で息をしたまま、そのまま部屋の真ん中まで駆け込むと、
両手をぎゅっと胸の前で握り締め——
「やったよ……! リリアがね——笑ったの!」
気持ちが急ぐあまりミオの声は上擦っていた。
アリサとエリザが顔を見合わせた。
アリサが川でずぶ濡れになったミオを引き上げ、
エリザが渡したガラス瓶を抱えて駆けていく背中を見送ったのは、
ほんの数時間前のことだ。
「おおー! やったじゃん!すごい!」
アリサがリンゴを持つ手を止め、目を丸くした。
「マスターに怒られた甲斐があったね、ミオ」
エリザがにこやかに言う。
「うん! ぷって、こう、肩が震えて——
それでね、バカって言いながら枕をぽすんって——」
身振り手振りで必死に再現しようとするが、
興奮のあまり言葉が追いつかず、同じところを何度も繰り返す。
「ちょっと落ち着きな。順を追って説明しておくれよ」
エヴァンジェリンが苦笑しながら制するが、
その声もどこか柔らかかった。
「えっとね、あのね——」
ミオは深呼吸を一つして、最初から話し始めた。
部屋に入った時のリリアの様子。
ガラス瓶を見たリリアの目が丸くなったこと。
川に落ちた話を再現して見せた時に、 リリアが「ぷっ」と吹き出したこと。
「——それでね、上下逆さまに本持ってた。耳、赤かった」
その一言に、エリザが口元に手を当てた。
「……ふふっ」
「エリザ姉、リリアが初めて笑ったんだよ!?私なんか嬉しすぎて、
涙出そうだったんだから!」
「わかってる、わかってるわよ。私だって嬉しいに決まってるでしょ」
エリザは目を細めて微笑んでいた。
うっすらミオの目尻に涙の後が残っていることは、伝えなかった。
「ホント良かったね、ミオ。
……って、まだ髪濡れたままじゃん。風邪引くってー」
アリサが立ち上がってミオの肩にタオルをかける。
だがミオはタオルもそこそこに、ヒルデガルドの方へと向き直った。
「ヒルデガルド、ありがとう。あの時の言葉のおかげで、私——」
ヒルデガルドはゆっくり首を横に振ると、穏やかな声で応えた。
「いいえ。感謝したいのはこちらのほうよ。
閉ざされたリリア様の心を、あなたは解き放ってくれた。
それにね、答えを見つけ出したのはミオ自身よ。」
「そんな……私なんか……」
ミオの目が潤んでくる。
「泣くんじゃないよ」
エヴァンジェリンの大きな手がミオの頭をぽんと撫でた。
「——よくやったじゃないか」
その一言に、ミオは堪えきれず、
ミオはエヴァンジェリンの腰のあたりにしがみついた。
「うぅ……えへへ」
「おいおい、濡れた頭を押し付けるな……」
文句を言いながらも、エヴァンジェリンはミオを引き剥がさなかった。
アリサがぐすっと鼻を鳴らし、ミオの後ろから肩を抱き、
エリザもそっと、その輪に加わる。
ヒルデガルドはベッドの上から、その温かな光景を静かに見守っていた。




