幕間 ミオとリリア1
イングランド北西、カンブリア。
灼熱のアッザリアを飛び立ったレイヴンズウッドのステルス輸送機は、
海を滑るように徐々に高度を下げていく。
やがて、セント・ビーズ・ヘッドの切り立った赤い断崖が視界に広がる。
「本機はまもなく地面効果翼状態に移行します。振動に備えてください」
薄暗いカーゴルームにアナウンスが響く。
目元を痛々しい包帯で覆われたヒルデガルドは、手探りでリリアに近づき、
その小さな体をそっと抱きかかえた。
「もう少し……あと、もう少しで後を託せる……」
憔悴しきった彼女の唇から、祈るような声が漏れる。
外では、輸送機が水しぶきを上げて水面すれすれを飛行し、
断崖にぽっかりと開いた天然の隠し穴へと近づいていく。
薄暗い洞窟の中で静かに着水した機体は、
波紋を広げながらゆっくりと奥へと進んでいった。
天然のトンネルを抜けた先――セブンゲート第4の門『ケセド』の地下ドック。
ステルス輸送機が秘密港の停泊所へと滑り込む。
そこには事前にパイロットからの連絡を受けていた、
エヴァンジェリンと医療スタッフ、
そしてヒルデガルドの安否を案じるミオが、沈痛な面持ちで待ち構えていた。
機体が完全に停止するよりも早く後部ハッチが開き、
パイロットが血相を変えて飛び出してきた。
「医療班! 早く来てくれ、重傷だ!」
医療チームが慌ただしく駆け込み、全身の骨を砕かれたガレスと、
意識不明のパーシヴァルが次々とストレッチャーで運び出されていく。
怒号が飛び交う中、最後にゆっくりとタラップを下りてきたのは、
第9の門のサブマスター・ヒルデガルドだった。
「ヒルデガルド、その目は……」
駆け寄ったエヴァンジェリンが息を呑む。
「ヒルデガルド!」
ミオも青ざめた顔でヒルデガルドに駆け寄った。
彼女の顔の上半分は、血で赤黒く染まった布で固く覆われていた。
だが、彼女は自分の痛々しい惨状を説明するよりも先に、
その腕の中に抱いた「毛布に包まれた小さな少女」を、
エヴァンジェリンに託した。
「エヴァンジェリン様 ……この子を……」
エヴァンジェリンがそっと毛布に包まれた子供を受け取った瞬間、
限界を迎えていたヒルデガルドの糸が切れ、その場に膝から崩れ落ちる。
「担架!!早くして!!」
エヴァンジェリンが叫び、医療班が慌ただしくヒルデガルドを担架に乗せる。
薄れゆく意識の中、担架に乗せられながらも、
ヒルデガルドは虚空へ手を伸ばした。
「……全知の巫女……リリア様を……どうか……」
その悲痛な呟きを最後に、彼女の腕がダランと力なく垂れ下がった。
「いや!!ヒルデガルド!」
ミオは叫びながらヒルデガルドに駆け寄ろうとするが、
エヴァに腕を掴まれて制止される。
「落ち着きな! 気を失っただけさ……今は休ませてあげるんだ」
「……でも……」
エヴァンジェリンは静かにミオの肩を掴み、ポンポンと頭を撫でる。
行き場を失った両手を胸の前で組み、ミオは運ばれていくヒルデガルドを、
ただ見つめることしかできなかった。
ふと、エヴァンジェリンの片腕に抱かれた毛布が、ミオの目に留まった。
毛布の隙間から覗いていたのは、
ミオより幼い、8,9歳くらいの蒼白な少女の顔だった。
痩せこけ、生気のない顔は、まるで精巧な人形のようだった。
(そっか、この子を救う為に、皆、命を懸けて戦ってたんだ……)
かつて自分を救いだしてくれたように、
彼女達はいつも誰かの為に戦ってくれている。
そう思うと、自然と胸が熱くなり、涙が溢れた。
エヴァンジェリンも今回の任務の事は聞いていた。
第9ゲートのマスター「幻視のオフィーリア」が予言し、
レイヴンスウッド主権財団が捜索させていた「全知の巫女」。
レイヴンスウッドの秘めたる悲願、
「世界の修復」の鍵を握ると言われている少女。
その少女を奪還する為、たった7名という少数精鋭で、
アッシャー光輪の本拠地を強襲するという無謀な作戦。
どれだけの激戦だったか、彼女達の惨状が物語っていた。
「ヒルデガルドなら大丈夫さ、ああ見えてもサブマスターなんだ。
簡単に死ぬような奴じゃない。外傷もそこまでひどくはない、疲れただけだ」
「うん……」
エヴァンジェリンにそう諭されてミオは力なく頷く。
しかし、そう口にしたエヴァンジェリン自身もまた、
腕の中のリリアと、運ばれていくヒルデガルドの姿を交互に見つめ、
複雑な表情を浮かべていた。
ケセドのドックに輸送機が到着して数日後。
地下施設の上にある修道院の一室。そこに静かに横たわるリリアの姿があった。
ふと、ふわりと、暖かいものに包まれている感覚をリリアは覚えた。
窓の隙間から差し込む、柔らかな陽の光。
そして、遠くから微かに聞こえてくる、楽しげな子供たちの笑い声。
リリアは重い瞼をゆっくりと開けた。
(え……ここは……?)
見慣れた無機質な液槽でも、冷たい実験室でもない。
清潔な白いシーツのベッド。
一見すると、ありふれた子供部屋のようだ。
だが、リリアの心臓は早鐘のように激しく鳴り始めた。
彼女の最後の記憶は、あの施設を破壊して自分を水底から引きずり出した、
不気味な笑みを浮かべた少女の姿で途切れている。
「うっ……!」
突然の嘔吐感に襲われる。
アルジェンタの、あの恍惚とした瞳。
笑顔を浮かべたままやすやすとあの厚いガラスを砕き、
リリアの体に繋がった管を無残に引き抜いた不気味な少女。
それを思い出した瞬間、激しい身震いがリリアの小さな体を襲った。
けたたましく鳴り響く警報音の中、もしかしたら誰かが救い出してくれる。
そんな淡い期待を抱いたのも束の間、液槽から有無を言わせずに、
引きずり出されたあの時の恐怖が脳内に蘇る。
少し遅れて、彼女の脳内に『全知の記録』が、
津波のように押し寄せてくる。
ここは?という疑問のその答えを全知の記録が告げる。
レイブンスウッドとアッザリアの血塗られた歴史。
数百年前に及ぶ彼等の争いの記録。
拷問、裏切り、そして処刑。
数百年の情報が彼女の自我を飲み込もうと畳み掛けてくる。
「やめ、て……」
リリアは耳を強く塞ぎ、ベッドの隅で膝を抱えて丸くなった。
「……気がついたかい?」
ふいに、扉が開いて浅黒い肌の銀髪の女性の姿。
エヴァンジェリンが静かに部屋に入ってきた。
彼女は心配そうな、ひどく優しい声で話しかけてくる。
だが、リリアはその声すらも拒絶した。
(誰なの……?)
真っ黒な修道服を着た、巨躯のその女性。
その優し気な声と眼差しにまったくにそぐわない屈強な体つき。
リリアの脳内に閃光が走る。
あの血みどろの闘争を繰り広げていたレイヴンスウッドの私設兵団。
セブンゲートの「シグネチャーズ」。
映像の中の彼等も黒いタバードに包まれていた。
(優しいふりなんかで……どうせ、また裏切られる)
実の親にすら「化け物」と見捨てられたのだ。
自分をただの子供として見てくれる大人など、この世界には存在しない。
リリアはエヴァの言葉を遮断し、
自身の意識を『数字』の世界へと深く潜らせた。
1,2,3,4,5…100,101…1000,
(私は私。誰の物でもない)
いつのまにか、無機質な数字の羅列だけが、
自分という存在を繋ぎ止める唯一の錨になっていた。
それからのリリアは、ただ呼吸をするだけの人形と化していた。
エヴァが何を問いかけても、無反応でただ虚空を見つめるだけ。
途方に暮れたエヴァは、静かに部屋を後にした。
修道院の最下層を抜けた先に広がるケセドの地下施設。
その中でさらに厳重にロックされた隔離隔壁の一室。
そこに用意されたベッドの上にヒルデガルドがいた。
——1週間前——
医療室で目覚めたヒルデガルドは、
怪我も治らぬまま人目を忍ぶように修道院を後にした。
しかし、ヒルデガルドの失踪をいち早く察知したエヴァは、
周りの誰もが驚くほど、血相を変えて追いかけた。
エヴァはヒルデガルドの顔の傷跡に違和感を覚えていたのだ。
あまりに丁寧すぎる傷跡は、争いで付いた傷ではない。
殺菌処理されたナイフを見つけた時、彼女の疑問は核心に変わっていた。
夜の帳が下りた暗い森を抜けようとしていたヒルデガルドを、
馴染みのある声が呼び止める。
「あんた、こんな時間にどこにいくつもりだい?」
「……」
ヒルデガルドは何も答えなかった。
薄明りの中、エヴァの目に映ったのは、
何かを託す為に自ら犠牲になることを選ぶ、そんな表情。
かつて見た、同じ表情をエヴァは未だに忘れることができない。
「死ぬ気なんだろ。何があった?事情くらい説明してくれないか」
小さなため息とともにヒルデガルドは尋ねた。
「目ざといですね、エヴァンジェリン様は……どうしてそう思うのです?」
「まあ、アンタみたいな人を前にも見てるからかもな」
「マーサ様、ですか……」
「ああ……」
慈愛の団、ケセドの先代門主マーサ・シェパード。
エヴァを港町のギャングから拾い上げ、シグネチャーズへと導いた人物。
彼女はアッザリアとの戦いで精神汚染を受け、ケセドをエヴァに託し、
自ら命を絶った。
10年前のその出来事をヒルデガルドも伝え聞いていた。
門主になることを拒み続けていたエヴァが受け止めた覚悟は、
外野には計り知れない。
そんな彼女にだからこそ、ヒルデガルドは託せると思っていた。
ヒルデガルドはアルジェンタの何かしらの能力によって操られているという、
懸念をエヴァに伝えた。
「恐らく私はすでにアルジェンタの駒なのでしょう。
セブンゲートを危険に晒すわけには行きません。
ですがリリア様をあなたに託すまでは死ねなかった。
後のことは頼みます」
そう言ってヒルデガルドは再び去ろうとした。
「待ちなよ。あんたの覚悟は分かる。散々考えての決断なんだろうってことも。
けどさ、もう少しだけ考えてくれないか 」
「……酷なこと言うのですね」
「すまないね、経験者なもんでさ。
託されるってのは美談かもしれない、けど人を縛るんだ。
ミオやリリアに同じ思いを味わってほしくないんだよ。
まだ手段は選べる。一緒に考えよう」
エヴァの説得により、情報から隔離し厳重に監視するという条件で、
ようやくヒルデガルドはケセドで療養することを了承したのだった。
そして現在。
リリアの対応に行き詰り、ヒルデガルドの部屋を訪れたエヴァンジェリン。
そこには傷ついたヒルデガルドを心配して入り浸っている、ミオの姿もあった。
エヴァは呆れたようにため息をつきながら、呟く。
「また来てるのかい……一応、ここは隔離棟なんだがね」
「へへ……でもヒルデガルド目も見えないし、一人じゃ心配だし。
はい、剥けたよ。あーん」
ミオは器用に剥いたリンゴをヒルデガルドに差し出す。
ヒルデガルドはそれをゆっくりと咀嚼し、虚空を見つめながら呟く。
「やはり……手こずっているようですね」
「ああ……
何も語らないし、反応すらしない。
だか、心が壊れているってのとは違うんだ。
無反応を演じている、とでも言うのか。
何があったら、ああなるっていうんだろうね……」
「……」
エヴァンジェリンのその感想にヒルデガルドは静かに俯く。
「彼女はまだ、あの液槽に捕らわれたまま、
何にも救われていないのかもしれません」
「液槽?……どういうことだい?」
ベッドに腰掛けたヒルデガルドは、
包帯に覆われた顔をエヴァとミオに向け、静かに語り始めた。
リリアが背負わされた、ナハシュ・アルール(原罪の器)の刻印のこと。
公開裁判で、実の両親から存在を否定された絶望。
スタティック・ウェルでの、人間扱いされない非道な実験。
そして今もなお、『全知』に自我を飲み込まれまいと、
たった一人で必死に抵抗し続けていること。
その話を聞いてミオの顔色が変わる。
(似てる……。私と同じだ……)
エヴァはそれを察してか、ヒルデガルドの話に耳を傾けながら、
ミオの頭にポンと手を置いた。
「……私が本部ではなく、この修道院に彼女を連れてきたのには理由があります」
ヒルデガルドは、包帯越しの視線をミオへと向けた。
「マスター・オフィーリアの幻視によれば、
凍りついた彼女の心に光を取り戻せるのは……ミオ、あなただけだと」
「私……?」
ミオは息を呑んだ。
親に捨てられ、幻聴に怯え、
自分が何者なのか分からずに震えていた5歳の自分。
ヒルデガルドから語られたリリアの姿は、かつてのミオそのものだった。
ミオは両手を強く握りしめる。
「うん……」
そして、少しの間をおいて彼女は答えた。
「私、やってみたい!」
エヴァンジェリンとヒルデガルドがそうしてくれたように、
今度は自分が誰かに救いの手を差し伸べることができるのなら。
ミオの心には、そんな気持ちが込み上げてきた。
「私、頑張る!任せて、小さい子の相手なら得意なんだから!」
そういうとミオは病室を飛び出していった。
「大丈夫……かね?」
エヴァは走り去ったミオを見送りながら、心配そうに呟いた。
曲りなりにも多くの子供達を迎えてきた孤児院の運営者として、
エヴァはミオのその挑戦が容易なものではないことを理解していた。
「全てはオフィーリア様の幻視が導くままに進む。
私たちはそう信じて待つだけです」
ヒルデガルドはエヴァンジェリンの心配をよそに、静かにそう言った。
それから、ミオの果てしない挑戦が始まった。
リリアは自室から一歩も外へ出ようとしなかった。
運ばれてきた食事を機械的についばみ、虚ろな紫紺の瞳で、
ただ窓の外で遊ぶ子供たちを眺めているだけ。
「リリア! ご飯持ってきたよ!」
バンッ! と元気よく扉を開けて、ミオが満面の笑みで飛び込んでくる。
だが、リリアはその姿を見て、ビクッと肩を震わせた。
(……)
ミオの底抜けの陽気さ。顔全体を綻ばせる、その満面の笑み。
それがリリアの瞳には、あの時、
強化ガラスを割りながら自分を見下ろしていた、
アルジェンタの不気味な笑顔と重なって見えてしまう。
「今日ね、外で変な形の雲を見つけたの! ほら、魚みたいじゃない!?」
ミオはリリアが怯えているとは露とも思っていない。
あの頃の自分と重ねるあまり、
自分がされて嬉しかったことをそのままリリアにも
してあげればいいと信じて疑わなかった。
(大丈夫、今は心を閉ざしているだけだもん。きっと、気持ちは伝わるはず)
結果、ズカズカとパーソナルスペースに踏み込み、
太陽のような笑顔で体当たりを続けてしまう。
(……やめて。その笑顔で私を見ないで……!)
リリアはシーツを頭から被り、その明るすぎる声を遮断するように、
再び冷たい数字の世界へと意識を沈めていった。
それからの数日間、ミオは毎日リリアの部屋へと足を運んだ。
だが、事態は一向に好転しなかった。
「リリア! 今日はね、中庭で綺麗な花を見つけたんだ! ほら!」
「……っ!」
バンッ、と勢いよく扉を開けて飛び込んでくるミオの満面の笑み。
だが、それを見るたびに、リリアはビクッと肩を跳ねさせ、
ひどく怯えたようにシーツを被ってベッドの隅へと逃げ込んでしまう。
怯えるリリアと、空回りし続けるミオ。
何度やっても拒絶される現実に、ミオの心も少しずつ摩耗していくのだった。




