幕間 砂漠の聖女5
レグルス達が琥珀卿ローレンスと対峙する少し前。
琥珀卿の背中を見送ったアルジェンタは、
ふわりと観測室のコンソールテーブル飛び乗った。
「あーあ、随分風通しが良くなっちゃって」
琥珀の針でガラスは粉々に砕け眼下には遥か下層の巨大なカプセルが見える。
「さーてと。それじゃあ私はリリアちゃんに会いに行ーこおっと」
彼女は鼻歌交じりにコンソールをちょんっと蹴ると、
大きく開いた窓枠から躊躇いもなく飛び降りた。
ヒュゥゥゥ、と風を切る音。
約3秒ほどの自由落下の後。
――ズドォォンッ! という爆発のような重低音と共に、
最深部のコンクリート床に盛大な亀裂が走る。
だが、土煙が晴れた後、
そこには何食わぬ顔で着地ポーズを決めるアルジェンタの姿があった。
彼女はスカートの埃を軽く払う。
そして見下ろしていた巨大な円筒形の液槽へと歩みを進めた。
一方、液槽の中のリリアは、
水面の向こう側から近づいてくる小さな人影を見つめていた。
恐らく15歳前後の、不気味なほど愛らしい少女がこちらを見上げている。
(え……今、落ちてきた……?)
リリアは自分の目を疑った。
あれほどの強烈な落下音を響かせておきながら、
何事もなかったかのように近づいてくる少女の姿。
リリアの抱いた疑問に対し、彼女の脳内の『アーカイブ』
が強制的に答えを見つけようと検索を始める。
だが、アルジェンタに該当するデータは、
ひどいノイズに塗れて読み込むことすらできない。
アルジェンタは液槽の分厚いガラスにペタッと両手をつくと、
まるでショーケースの子犬を見つけたような無邪気な笑顔を向けた。
「かわいそうに。こんな狭くて息苦しいところに入れられて……。
苦しいよね?今出してあげるね」
ガラス越しでは彼女の声はよくは聞き取れない。
しかし鈴を転がすような甘い声色と、
彼女の恍惚とした表情はとても恐ろしいものに感じた。
アルジェンタが、スッと右手をガラスに当てた。
指先に挟まれた一枚の銀貨が、カチン、とガラスの表面を軽く触れる。
「ディール。――割れなさい」
――ピキッ。
対物ライフルすら弾き返すはずの特注の強化ガラスに、
クモの巣状の亀裂が走った。
(え……?)
リリアが目を見開いた次の瞬間。
パァァァンッ!! という爆音と共に、巨大な液槽が粉々に砕け散った。
何トンもの液体が、ガラスの破片と共に津波のように、
施設最深部の床へと溢れ出す。
「ゲホッ、ガハッ……!」
拘束具ごと床に投げ出されたリリアは、突然の重力と衝撃に激しく咽せた。
肺に溜まっていた液体を吐き出し、荒い呼吸を繰り返す。
そんな彼女の傍らに、アルジェンタはしゃがみ込むと、
吸い込まれそうな瞳でリリアの顔を覗き込んだ。
「痛かった? ごめんね。でも、これで出られたでしょ」
アルジェンタは鼻歌を歌いながら、
リリアの顔を覆っていた無骨な呼吸器を無造作に引き剥がす。
「ちょっと痛いけど我慢してね?」
さらに、彼女の細い腕に突き刺さっていた何本もの太いチューブを、
躊躇いもなくブチブチと引き抜いていった。
「あ、ぁ……ッ!」
腕に激痛が走り、
そのショックでリリアの脳内に絶え間なく流れ込んでいた、
『記録』の奔流が、チューブの切断と共に唐突にプツリと途切れた。
異常な情報量から解放された反動と、急激な失血、
そして現実に引き戻された物理的な疲労感が、
一気にリリアの幼い身体を襲う。
「ん、かわいいなあ。やっぱり、あなたは特別だよ♪」
(何を、言っているの…?気味が悪い…よ)
薄れゆく意識の中、リリアは自分の冷たい頬を撫でる、
アルジェンタの生温い手の感触を感じていた。
「少し眠ってて。『お客さん』が来てるんだ。
もし、あの子達が私の番犬を退けられるのなら、その時はー」
その甘く悍ましい囁きを聞き届けたのを最後に、リリアは完全に意識を失い、
冷たい床の上で深い昏睡へと落ちていった。
「あ、もう寝ちゃったんだ?おやすみ、私の大事なーー」
アルジェンタは動かなくなったリリアを見下ろして満足げに囁くと、
唯一の出口であるリフトの前へと歩いていく。
そして、チャリン、チャリンと銀貨を弄びながら、獲物を待つ蜘蛛のように、
静かにその場へ座り込んだ。
レグルス達と別れ深層へと続く通路を進むヒルデガルド。
「見えてきた、もうすぐだわ」
最深部、『スタティック・ウェル』の底。
そこは、上層の喧騒が嘘のような、不気味なほどの静寂に包まれていた。
中央にそびえる巨大な液槽のガラスは既に割られ、
溶液が床一面に広がっている。
ヒルデガルドは、拘束具を外され、冷たい床に横たわる小さな影を見つけた。
「全知の巫女!?リリア様!」
ヒルデガルドが水飛沫を上げて駆け寄り、少女の濡れた銀髪をかき上げる。
リリアは意識を失っているが、確かな寝息を立てていた。
「……よかった、まだ息がある…間に合った……」
――パチ、パチ、パチ。
人気のない静寂の中、拍手の音が響く。
「うんうん、間に合ったね!偉い偉い♪」
鈴を転がすような、無邪気な少女の声。
ハッとして振り返ると、唯一の出口であるリフトの前に、
一人の少女が座り込んでいた。
「第12座・彩晶卿アルジェンタ……」
ヒルデガルドが険しい顔で呟く。
アルジェンタは手の中で、チャリン、チャリンと数枚の銀貨を弄びながら、
三人の侵入者を品定めするように見つめている。
「そこをどいてくれませんかね、お嬢ちゃん」
パーシヴァルが油断なく二丁の銃口を向ける。
ガレスが無言で前に進み出ると、
ヒルデガルドとリリアを庇うように分厚い光の盾を展開した。
「えー?やだよ。リリアちゃんはさ、」
アルジェンタは言葉を区切り、艶然と微笑んだ。
「……私にとって大切な宝物なんだもん。勝手なこと言わないでくれない?」
アルジェンタが、退屈そうに一歩を踏み出す。
瞬間、最深部の空気が凍り付くような、異次元の殺気が膨れ上がった。
「ガレス、展開ッ!」
ヒルデガルドの悲痛な叫びと同時に、
ガレスが最大出力で『偏光障壁』を張る。
だが。
瞬きすら許さぬ速度で肉薄したアルジェンタは、
強固な光の盾の目の前でピタリと止まり、
親指でたった一枚の銀貨を弾いた。
「はじけちゃえ」
――キィン!
澄んだ音と共に放たれた極小の銀貨が、
大砲の砲弾を凌駕する異常な質量で障壁を粉砕し、
その後ろにいたガレスの巨体ごと、
分厚いコンクリートの壁の奥深くへと吹き飛ばした。
「ぐあっ……!?」
「ガレスッ!」
パーシヴァルが怒声と共に二丁拳銃を連射する。
だが、
アルジェンタは鼻歌を歌い、手を後ろに組んだまま、
ステップを踏むように上体を揺らし、
殺到する光弾をすべて紙一重で躱していく。
「うーん、不合格」
甘い声が耳元で響いた時には、
彼女は既にパーシヴァルの背後に回り込んでいた。
流れるような脚さばき。
か細い足が綺麗な円弧を描き、パーシヴァルの脊髄を正確に捉える。
彼は銃を手放し血を吐きながら床に沈む。
一瞬の蹂躙だった。
その戦力の差は圧倒的な開きがある。
「化け物め……」
ヒルデガルドは額に浮かんだ冷たい汗を拭い、
リリアをゆっくりと床へ下ろした。
「あれれー?おかしいな?こんなんじゃ、
あの醜いワンちゃんのほうがマシだったよ?」
アルジェンタは倒れた二人には目もくれず、くるりと振り向くと、
ヒルデガルドへ向けて再び指先で一枚の銀貨を構えた。
「……くっ、『囁く者』!」
ヒルデガルドの脳裏に、数秒先の未来が囁きと共に強制フラッシュする。
――弾かれた銀貨が、一直線に自分の心臓を貫き、
背後のリリアごと挽肉にする宣告。
(右、30度! 次は下!)
彼女は予測された未来の弾道を避けるべく必死に身を捻る。
――キンッ!
弾かれた一枚の銀貨が、音速を超えて空気を裂く。
間一髪で直撃こそ躱したものの、
頬を、腕を、銀貨の巻き起こした衝撃波が掠め、
ヒルデガルドの鮮血が床に散乱した液体の海に迸った。
「へえ、避けるんだ?それ、面白い」
アルジェンタは興味深そうに首を傾げると、攻撃の手を緩めた。
ヒルデガルドは肩で荒い息をしながら、
血まみれの体でリリアを抱き上げると、きつく抱きしめる。
ガレスとパーシヴァルは、壁際でピクリとも動かない。
「うーん。実力差は歴然だよね?
お姉さん達じゃ、逆立ちしたって私には敵わない。
この調子じゃ多分、上で頑張ってる人達が来ても変わらないよ?
……ねえ、その目。
どうして、そこまでして、その子を助けたいの?」
ヒルデガルドは、口元の血を拭い、腕の中のリリアへと視線を向けた。
「……この子は、私たちの……人類の『希望』。
全ての人が等しく生きる世界を残せるのは彼女しかいない。
そう信じているから、私たちは命を懸けてここに来た……!
選民思想の、彼女を遺物としてしか見ていない、
あなた達には分からないでしょうね」
その言葉には組織の論理を超えた純粋な献身が込められていた。
その言葉を聞いた瞬間。
アルジェンタの瞳に、キラリとほのかな光が灯った。
「ふんふん……悪くない、かも……。愛?そう、なんか愛があるよね?」
彼女はスカートをひるがえし、ヒルデガルドの目の前までステップを踏む。
「お姉さん。私、お姉さん達のこと見逃してあげてもいいよ?」
「……なんですって?」
「あはは!驚いた? そうだよねー」
アルジェンタは楽しそうに笑い、人差し指を立てた。
「んーと、私もね。リリアちゃんの扱いがひどすぎるって思ってたんだよ。
あんな狭い水槽に閉じ込めて、管だらけにしてさ……」
彼女の声が、ふと真剣なトーンに落ちる。
「だ・か・ら」
「リリアちゃんを大事にしてくれるなら、ここから逃がしてあげてもいいかも?
って思ってるってこと」
「……何が狙いなの?」
「狙いかあ……そりゃあ色々あるけど。今は言えないかな?
ただ、リリアちゃんをここに置いとくのは私も反対なのは本心だよ」
ヒルデガルドは息を呑む。
嘘をついているようには見えない。
現にウィスパーズは何も警告してこない。
だが、アッザリアの枢輝煌が、何の対価もなしに人質を返すはずがない。
「……条件は?」
「あ、さすがお姉さん! 話が早い!」
アルジェンタはパチンと手を叩いた。
「私も立場があるからさ、このまま逃がしちゃうと、
後々お仕置きされちゃうかもしれないんだよね」
「……組織の情報は売れないわよ。仲間の居場所も」
「えー、そんなのいらないよ」
アルジェンタは、ヒルデガルドの顔を覗き込み、にっこりと笑った。
「私が欲しいのは――お・ね・え・さ・ん☆」
「……私が残れば、釣り合いが取れるとでも?」
「うーん、流石にリリアちゃんとの釣り合いは取れないかな?
でも、お姉さんと交換なら、私が怒られてそれで済ませてあげる。
ドノヴァン様は私を殺したりしないから」
アルジェンタの瞳が妖しく輝く。
「……」
ヒルデガルドは、眠るリリアを見た。そして、
倒れているガレスとパーシヴァルを見た。
自分がこの条件を呑めば、リリアも、部下たちも助かる。
(私一人がいなくなったところで……セブンゲートは揺らがない。
オフィーリア様と、リリア様さえ無事なら、それで十分)
答えは、決まっていた。
「……分かった。その条件、呑むわ」
ヒルデガルドが言葉にした瞬間、アルジェンタは満面の笑みを浮かべた。
「わあ、やったあ! 交渉成立だね!
じゃあリリアちゃんの自由は約束するね!」
彼女はくるりと回ると、両手を広げる。
その指先から、ジャラジャラと重たい音が響いた。
「それじゃあ……これは、私からお姉さんへのプレゼント!」
アルジェンタの手から、三十枚の銀貨が零れ落ちる。
それらは床に落ちることなく、
不可視の糸に引かれるようにヒルデガルドの周囲を取り囲んだ。
――契約成立。
『30枚の銀貨』――
銀貨が妖しい光となり、ヒルデガルドの胸へと一斉に吸い込まれていく。
抵抗できない。
魂の深層に、直接『所有者のタグ』が焼き付けられていく。
ヒルデガルドの意思とは無関係に、彼女の視覚、聴覚、
そして未来予知の感覚までもが、
アルジェンタの精神回線へと強制的に接続される。
(へえ、すごい…… これがお姉さんの視てる『未来』かあ……。
まあまあ使えそうかな?)
脳髄に直接響くアルジェンタの歓喜の声は、
もはやヒルデガルドには届かない。
彼女の瞳から、静かに光が消えていく。
数分後。
地上へと向かうリフトには、気絶したガレスとパーシヴァル、
そしてリリアを抱き抱えたヒルデガルドの姿があった。
彼女は何も言わず、『所有者』の命令に従い、
リリアを送り届けるという任務を完遂するために上昇していく。
その背中を見送りながら、瓦礫の山となった最深部で。
アルジェンタは、くるくると楽しそうに踊り続けていた。
「いってらっしゃい、私の大切な…」
彼女の口元にふと、ひどく純粋な微笑みが浮かんだ。
「世界でたった一人の”家族”」




