第85話 宰相の傲慢、王女の拳
「そこを退け!」
ブリュンヌの切迫した声が響く。しかし、門番たちの視線は冷ややかで、微動だにしない。そこへ、王城の奥から地響きのような低音が響いてきた。
「ブリュンヌ様!」
門の中から現れたのは、黒い毛並みに鮮やかな斑点を浮かべたジャガーの獣人、宰相だった。その顔は猛獣特有の巨大な顎と、知性と冷酷さが入り混じった眼光に覆われている。
「……よもや、ペストを治療できるという戯言を信じ、どこの馬の骨とも知れぬ輩を連れ帰るとは。ああ、嘆かわしい。黒死病は我が国の名医たちすら膝を屈した死の病。そこの見窄らしいペテン師のガキどもに、一体何ができるというのです」
宰相の言葉は、氷のようにソウタたちの心に突き刺さった。
(ペテン師……薄汚いガキ、か)
ソウタは鼻で笑った。慣れている。モブとして生きていれば、無知な権力者から罵られることなど日常茶飯事だ。だが、自分たちが救った町の光景が頭をよぎる。あの時、泣きながら手を合わせた人々の顔が。
「……ブリュンヌ様、騙されているのです。お下がりなさい」
「違う! この方たちは本物の聖者だ! 私がこの目で見たんだ、死にかけた村人が彼らの手で息を吹き返すのを! 父上を、母上を救える唯一の希望なんだ!」
ブリュンヌは泣き叫び、全身全霊で宰相に抗議する。しかし、宰相は成長途上の彼女の肩を、巨大な爪を立てた手で無慈悲に掴んだ。
「まだ戯言を……! おい、そこの薄汚いガキども! 今ならブリュンヌ様を騙した罪を不問に伏してやる。早々にこの国から消え失せろ!」
ソウタは、その言葉に一瞬の迷いも見せず踵を返した。
「はぁ……。そうですか。そこまで言われて残る義理もありません。帰ろうか」
「キュ……」
リャンゾウも肩の上で小さく鳴き、同意を示す。
「聖者様! お待ちください!」
ブリュンヌがソウタの袖を掴もうと伸ばした手を、宰相が強引に振り払った。
「それくらいになさい! 王と王妃はもう……。最後に顔を見せて、安心させて差し上げるのが臣下の務めだ!」
ブリュンヌの身体が震える。屈辱、悲しみ、そして何よりも「無力であること」への怒り。彼女は宰相の手を激しく払い除けると、獣の瞳を燃え上がらせて叫んだ。
「獣人国の習わしだ! ……宰相! 俺が勝ったら、この方たちに父上と母上の治療をさせろ!」
決意と共に放たれた彼女の拳は、鋭い風切り音を立てて宰相の顔面を狙った。
「ははは、面白い。……獣人国では強い者が正義。いいだろう、私が勝てばそのペテン師どもを即刻追放する!」
宰相は、紙一重でその拳を躱した。次の瞬間、巨大な顎を持つジャガーの獣人がその腕を掴み、ブリュンヌをまるでぬいぐるみのように軽々と宙へ放り投げた。
ドサリと砂埃を上げて転がるブリュンヌ。
力の差は明白だった。しかし、ソウタは逃げ出そうとした足を止めた。目の前の光景が、かつて自分たちが町を救うために流した血と重なったからだ。
(……あぁ、全く。なんて面倒な展開なんだ)
ソウタはゆっくりと、しかし確実に拳を握りしめ、宰相の前に立ちはだかった。救うべきは王か、それともこの無鉄砲な王女の誇りか。どちらにせよ、今この場所で「モブ」としての仮面を脱ぎ捨てる時が来たことを、彼は悟っていた。




