第79話 黒い医師の正体、そして届かぬ嘆願
「貴様ぁ……俺にこんな真似をして……ただで済むと思っているのか……!」
ペスト医師のリーダーが、泥に顔を押し付けたまま、呪詛のように吐き捨てる。ソウタは、その言葉を聞いて思わず鼻で笑ってしまった。
(はあ? 町を火の海にすると脅して拉致しようとしたのはどっちだよ。……つくづく、俺とは生きる世界の違う連中だ)
ソウタはリーダーの恫喝を完全に無視し、後ろで腰を抜かしている衛兵たちへ冷淡に背を向ける。
「衛兵さん、後の処理は任せます。みんな、行こう」
クロリスが蔦を揺らして微笑み、リャンゾウが肩に乗る。ソウタが歩き出せば、ナナミとモモカも迷いなく後に続く。ここにはもう用はない。
「ま、待て! 聖者! どこへ行く! 俺と一緒に獣人国へ来い! この蔦を外せと言っているだろうが! 俺に逆らってただで済むと思うなよおおお!」
背後でリーダーが発狂したように叫び続ける。その甲高い怒号に、宿の従業員が困り果てた表情で衛兵に目配せをした。
「……うるさいな」
衛兵が面倒くさそうに溜息をつき、拘束を確実にするためにリーダーのマスクへ手をかけた。
「おい、猿轡だ。大人しくさせ……」
ガサリとマスクが外れた瞬間、衛兵の手が止まった。周囲の空気が凍りつく。マスクの下から現れたのは、精悍な顔立ちの女獣人だった。赤褐色の髪と、獣耳。そして、何よりその琥珀色の瞳には、絶望と憤怒が入り混じっていた。
「……もしかして。ブリュンヌ王女殿下!?」
衛兵の叫びに、その場にいた全員が息を呑んだ。ブリュンヌ王女は、屈辱に涙を滲ませながら叫ぶ。
「そうだ! 俺は獣人国第二王女のブリュンヌだ! 聖者を呼び止めろ! 聖者よ……頼む、お願いだ! 俺の父上と母上が……ペストで死にかけているんだ。一緒に獣人国へ来てくれ、頼む……!」
泣き叫ぶ彼女の声に、ソウタたちの足が止まる。振り返ると、そこにはかつての「威圧的なペスト医師」ではなく、ただ親の死を恐れる一人の少女がいた。
(……え、王女? しかも獣人国の……)
ソウタは、自分の平手打ちが当たった場所が、他国の王女の頬だったことに気づき、背筋が凍るような思いをした。
「……猫の獣人か。耳が……」
動揺のあまり、つい口に出してしまったソウタの言葉に、ブリュンヌが顔を真っ赤にして叫ぶ。
「猫じゃない! ライオンだ! たてがみがないだけだ!」
(ああ、そうか……雌のライオンは、たてがみがないのか……)
妙なところで納得しているソウタをよそに、ナナミが切なそうな表情で肩を叩いてきた。
「ソウタ……獣人国に行ってあげようよ。王女様がそこまでして助けたいって言ってるんだよ」
ナナミの言葉は正論だ。しかし、ソウタの心は重く沈んでいた。
「冗談じゃないわ! 力尽くで拉致しようとして、上手くいかなくなったら泣き落とし? そんなの、あまりにも身勝手すぎるわ!」
モモカの怒声が、静まり返った街道に突き刺さる。モモカにとって、権力者が自分の都合で他人を道具のように扱うことは、決して許せない一線だった。
(モモカの言う通りだ。しかも、獣人国に行って王と王妃を助けたとして……ペストが蔓延する国全体を、一体どうやって俺が救うっていうんだ?)
ソウタは腕を組み、冷ややかな視線をブリュンヌに向ける。泣き叫ぶ王女と、オロオロと跪く衛兵たち。その光景はあまりにも救いようがなく、そしてソウタを巻き込む毒にも見えた。
平穏な日常を守るか。それとも、目の前の悲劇を無視できないという甘い情に溺れるか。ソウタの沈黙が、この町の時間を残酷なまでに引き延ばしていた。




