第73話 迫る黒い影、獣人国の絶望
リングが経営する高級レストランの一室で、ソウタたちは舌鼓を打っていた。美食に囲まれ、久々の平和を噛み締めていた矢先、リングが口にした言葉で空気が一変した。
「ええええええええ!? 獣人国に行かれるのですか!」
リングはフォークを止めて、信じられないものを見る目でソウタたちを見つめた。
「うん、まあ。ここから近いって聞いたし、なんとなく」
ソウタは膝の上で肉を啄むリャンゾウに手をやりながら、軽い調子で答えた。しかし、リングの表情は深刻だ。
「確かに距離は近いですが……今は無理ですよ。獣人国は完全なロックダウン状態ですから」
「「「ロックダウン!?」」」
ソウタ、ナナミ、モモカの声が重なった。隣でクロリスは「我関せず」とばかりに優雅にサラダを口へ運び、その横では新入りのブルがピィピィと可愛らしく餌を催促している。平和すぎる光景と、語られた言葉の温度差にソウタは戸惑った。
「流行り病ですよ。国境は閉鎖され、中に入ることも出ることもできない。噂では凄まじい勢いで人が倒れているとか」
「マジか……。おいおい、そんなの聞いてないぞ」
ソウタは頭を抱えた。無理に進んで全滅するような場所に行く必要はない。
「ソウタさん、行くのは止めましょう。わざわざ死にに行くようなものですよ」
モモカの言葉に、ソウタも深く頷く。
「そうだな。命あっての物種だ。……ところでリングさん、その流行り病ってどんな症状なんだ?」
「名前は定かではありませんが……高熱が出て、身体が黒く変色し、数日で死に至る。人々はそれを畏れを込めて『黒死病』と呼んでいます」
(……黒死病。ペストかよ! 冗談だろ、そんなの細菌感染症じゃないか。この世界に近代医学なんてないぞ……)
ソウタの背中に冷たい汗が伝った。異世界でペストが流行れば、それは国家単位の滅亡を意味する。
◇◇
それから数日、町に滞在しながら情報の収集を続けていた矢先だった。
「……頭が痛い。身体が、だるい……」
ベッドの中で苦しそうに身をよじるモモカの声が、宿の一室に響いた。モモカのおでこに乗せた濡れタオルは、あっという間に熱で乾いていく。
ソウタは直ちに鑑定用の魔導ゴーグルを装着した。視界の中に浮かび上がる「状態異常:ペスト」の文字を見て、心臓が止まるかと思った。
(ペスト……っ! ネズミのノミが媒体の細菌感染。治療には抗生物質が必要だけど、そんなものがこの世界にあるわけがない!)
ソウタは震える手を隠しながら、ナナミとクロリスを隣室に呼んだ。
「モモカの状態は……ペストだ。間違いなく、獣人国で流行しているあの病気だ」
「ええええっ!? 嘘よ……! どうすればいいのよソウタ!」
ナナミの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。治療法もわからず、ただ病魔に侵される仲間を見守るしかなかった。絶望が部屋を支配しかけたその時、クロリスが不思議そうな顔をして首を傾げた。
「……治せばいいんじゃないの?」
「治せるって……そんな簡単に言うな! ペストは呪いなんかじゃない、細菌感染症なんだぞ!」
「ソウタの話だと、その病気は身体に入り込んだ『小さな生物』が原因なんでしょ?」
「ああ、そうだけど……それがどうした?」
「だったら、その小さな生物を倒してしまえばいいのよ」
クロリスは悪びれもせず、花を摘むかのような軽い口調で言い放った。ソウタは呆気にとられ、そして次の瞬間、ある可能性に気づいて息を呑んだ。
「……倒す、方法があるのか?」
「ええ。この世界には、生物の生命力を直接操る術があるじゃない? あなたたちの知らないところで、精霊たちは常にそうやって均衡を保っているのよ」
クロリスの瞳が、深淵の緑色に光る。それは、モブとして生きてきたソウタが今まで一度も踏み入れたことのない、この世界の「理」そのものだった。




