1話 偽りの居場所に知らない答え
――エレはもう、誰も愛さないの。
それだけが、少女の覚えている転生前の唯一の言葉。
少女が集中するのに適した、一つの窓からの自然光だけの部屋。物置部屋のように狭く、大量の本が積まれている。扉の奥にある椅子と机。それに中央あたりのソファ。この部屋の家具はその三点。
「……」
カシカシと小さな音を奏でるペンと本。
机の上に置かれた新古二冊の本。少女は後天的に赤い模様がついたペンで古い本を見て新しい本に書き写している。
「……ふぁぁ……お散歩忘れてた」
誰に向けた言葉でもない。眠たげな声の少女。
ペンを置き立ち上がった少女は、まず部屋を見渡した。移動を考えていない置き方をされた本。わずかに見える木色の床。
少女はつま先を器用に使いながら、本を避けて扉に手を当てる。
扉を押すと隙間から見える景色は別世界だ。銀色の柱。薄紫色の壁。天井には富を象徴するようなシャンデリア。
廊下とは思えない広さの廊下。だが、どことなく寂しげな雰囲気がある。
少女は扉からそっと廊下に出る。少女の目に映る世界には人が一人もいない。
少女は決められた道を歩んでいく。
廊下の突き当たりにある貧相な扉。少女は扉を両手で開けた。
周囲は高い壁で囲われている。石畳の道の脇にある花壇は多くの花々が力強く咲いている。少女は誰の手も加わっていない花々を眺めながら道を歩く。
「……また」
めまいでよろける少女。立ち止まり、ポケットの中を探る。ポケットに入っているのは空気だけ。持ってくるべき薬を持ってき忘れている。
少女はポケットの中から手を出し、何もせずただ茫然と立っている。
「……」
症状が悪化すると、立つ事すら出来なくなる。その場で座りこんだ少女はどこか遠くを見つめていた。
発作で倒れても治っても、どちらでもいい。少女はただ、その時が来るのを待っているだけ。
何も期待せず。なんの希望も抱かず。
「……っ⁉︎ 」
少女の身体が影で覆われる。誰かの温もりが少女を包み込む。この牢獄のように閉ざされた場所で。
「……何やってんだろ」
少女に温もりを与えるのは特殊な紺色のヴェールで顔を隠した少年。その温もりが、少女に一つの奇跡を読んだ。
少女の中でぽたぽたと流れ落ちる雨と薄っすらと光る虹。
「……そんなの、わかんないよ」
どこからか転生前の記憶の大部分が少女に贈られる。少女の身体を蝕む発作が和らぐ。
「……ねぇ、お姫様。僕と一緒にこのどうしようもない運命の中踊ってくれる? 」
温もりが離れてゆく。ヴェールの奥は――少年は何を思ってその言葉を選んだのか。それは少女の記憶の中にあるのだろう。
少女は袖で涙を拭った。
「踊るのはきらい。だからね、ずっと足掻き続けるの。それが、エレシェフィール・ノーヴァルディア・エンシェルト……偽りの愛姫としての生き方なの」
本物に恥じないために。その一言は飲み込む。
凛とした瞳を向ける少女は、彼にどう映っているんだろうか。偽物の戯言か、本物を垣間見ているのか。表情が見えない以上、少女には分かり得ない事だ。
「そっか。うん。いいよ。付き合ってあげる。いつかは終わりを迎える偽りの世界の中で」
少年が紺色のヴェールを外す。青緑色の前髪から覗かせる翡翠のような瞳。穏やかな笑顔は記憶と変わらない。
何か言おうと口を開く少女。その口からは何も発する事なく固く閉ざされる。
いつもは強く美しく視界に映る花々が、今だけは弱く儚さを帯びている。
「……とりあえずここから離れるか。転移魔法使うけど大丈夫? 」
穏やかな笑顔を見せる青緑髪の少年。少女は視線を落として頷いた。
青緑髪の少年がこの世界のものではない言葉を呟く。全てから断絶するかのように淡い光が少女と青緑髪の少年を包み込む。
淡い光が散らばって消えてゆく。景色が変わる。今回の転生後、一度も見た事ない景色。懐かしくもあり、新鮮さもある。
青緑髪の少年に抱き上げられる少女。そのままベッドの上で寝かさられる。
あそこの硬く寝た気がしないほど寝心地の悪いソファとは違う。まるで雲の上にいるような柔らかさが身体を包み込む。気にした事がなかった疲れがどっと少女を襲う。
「今日はゆっくり休んで。発作の方は落ち着いているみたいだけど、あんな環境にいたんだ。ろくに休めず疲れてるでしょ? 」
青緑髪の少年がそう言って踵を返す。扉に向かって歩く青緑髪の少年の姿を見ないように、少女は扉に背を向けて布団を握る。
扉が閉まる音が聞こえた。静まり返った部屋を見た少女。布団を握る手に力が入る。
全てを遮断するかのように瞼を閉じる。溜まった涙がつぅっと頬を伝う。
「……」
カタッ
扉の音だ。だが、それは少女の求める人物ではない。見ていなくとも、それは理解している。
「……だぁれ? 」
細々とした声で扉を開けた人物に問う。
「……そんなにいやなら素直に引き留めればよかっただろ。それで俺らはいやがらねぇよ」
少女に向けられる呆れ混じりの声。少女の行動を理解しているかのような言葉。
少女はゆったりとした動きで扉の方に身体を向ける。
そこにいたのは、やはり少女の望んだ人物ではない。冷気を纏った先端だけ銀髪の青黒髪の少年。
「……エレにそんな事できるわけないの。偽物の……たかだか代わりの存在なだけで……そんな事……できるわけない」
少女は涙が溜まった瞳で青黒髪の少年を睨む。
「まだそんな事言ってんのか? 少しは自分がもらってきたものを見たらどうなんだ? 本当にそうとしか思ってねぇんなら、与えられてねぇものだってあるだろ」
「……しゃぁー」
少女は拾われたばかりの猫のような目を青黒髪の少年に向けている。
青黒髪の少年がそれに物おじする様子はない。
「……まぁ、すぐにそうしろって言われてもできるわけねぇよな。できるようになるまでいくらでも待っててやる」
青黒髪の少年がベッドの隅に座る。不器用なその言葉に応えるように少女は左手で青黒髪の少年の右手に触れる。
「……そば、いて……ゼロは……ゼロはエレのそばにいるべきだと思うの。ゼロは寂しがり屋さんだから、エレがおそばにいてあげるの」
不安で怯えながら、口にした言葉。その答えのように青黒髪の少年が触れていた手を握った。
「……エレは簡単には信じられないよ」
「だろうな。だから、絶対に信じられる事をしてやるよ」
突然部屋の温度が下がる。少女は布団を被って暖をとる。顔だけはひょこっと出して。
全てが凍りそうな温度の中、青黒髪の少年は平然と少女の隣にいる。
「俺、ゼーシェリオンジェロー・ミュード・アロジェーシンティードは神聖の名にかけて汝を守ると誓う」
古くから少女を守る存在の一人、ゼーシェリオン。ゼーシェリオンの周囲が凍り始める。
「なんで……それはたった一人にだけする誓いでしょ! 本来なら結婚相手か忠誠を誓う相手にするって。そんな貴重なものをどうしてエレに使うの! 」
「俺は自分の大切を自分で選ぶ。お前が大切だから誓いを交わして、大切なお前に信じてもらう。守れるようにする。エレ、お前はどうしたいんだ? お前を縛る全ての事情を捨てて、お前の感情だけで答えろ。たまには自分の想いに目を向けてやれ」
少女が無意識に避けていた事。貴重な誓いを言い訳にゼーシェリオンがそこに踏み込んでいる。だというのに、それに応えようと思えるのは相手が彼だからだろう。
想いはどこを目指すか。どうしたいのか。そんな問いかけに答えをくれない。だが、ただ一つ、答えをくれるものがある。
もし、いつかがあるのなら――いつかは、誰の隣がいい?
「……エレシェフィール・ノーヴァルディア・エンシェルトは汝の誓いを受け入れるの」
偽りの姫エレシェフィール。そう呼ばれる彼女は、ここを選ぶ。
「……エレ、きれい? 美しい? 」
「当然だろ。お前はいつだって、俺らの大切な花だ。だから堂々と、醜く足掻いてやれ。お前を嫌う世界で誰よりも笑えるように」
そう言って屈託のない笑顔を見せるゼーシェリオンは、エレシェフィールの記憶と変わらぬ姿だ。
「うん。ありがと。もう少しだけ信じてみる。いつかを生きる事を。みんなもきっとそれを望んでいるんだから」
自分のために。それは出来なくとも、大切な人のためにであれば、少しだけ前を向ける。
エレシェフィールは両手を胸に当てる。
「……ねぇ、世界は残酷? まだ、答え聞いていない気がする。だから、いつか聞かせて」
窓の外を見る。今もどこかで一人で何かを守っているであろう、記憶にはない大切な人に向けて。わずかに残る記憶の言葉を。




