EP 8
氷結の呪詛液と、突進魔獣の足止め
地鳴りのような足音が、森の木々を揺らしていた。
全身を岩のような甲殻で覆った巨大な猪の魔獣『ロックボア』の大群が、真っ赤に血走った目で荷馬車へと突進してくる。その時速はおそらく六十キロ近い。軽トラックが二十台、ブレーキを壊して突っ込んでくるような絶望的な光景だった。
「ひ、ひぃぃっ! あんな数、まともに相手したらミンチにされるぞ!」
「逃げろ! 命があっての金だ!」
商隊を護衛していた傭兵たちは、剣や槍を放り出し、我先にと森の奥へ逃げ去ってしまった。残されたのは、荷台の上で身を寄せ合うアズマとリーザ、そして御者台に立つニャングルだけだ。
「アホか貴様らァッ! 契約不履行で違約金請求したるからな!!」
ニャングルが逃げる背中に向かって怒声を浴びせる。だが、ロックボアの群れはもう目の前まで迫っていた。
アズマは「荷台から飛び降りて逃げましょう!」と叫んだが、ニャングルは逃げるどころか、御者台から飛び降りて馬車の前に立ちはだかった。
「冗談抜かせ! この馬車の中身は、帝都の貴族連中に納品する予定の最高級ポポロシガーと月光薬や! 総額で金貨数万枚は下らん! 商人が己の商品を見捨てて逃げたら、それはもう死んだも同然や!」
彼は金ピカの算盤を盾のように構え、ガタガタと膝を震わせながらも、一歩も引こうとしなかった。
(……嫌な奴だと思ったが、商人としての筋は通す意地があるのか)
ホームセンター時代、台風の接近でも店を守ろうと土嚢を積み続けた店長や同僚の姿が、アズマの脳裏をよぎった。現場で体を張っている人間を見捨てて逃げることなど、彼にはできない。
「リーザ、荷台の奥に引っ込んでてくれ!」
「アズマ様!? ダメですわ、死んでしまいます!」
リーザの制止を振り切り、アズマは荷台から飛び降りてニャングルの前に出た。脳内の『生活改善カタログ』を猛スピードでスクロールし、該当のアイテムを選択する。
(消費は10CP! 頼む、間に合ってくれ!)
アズマの手に、赤いノズルが付いた銀色のスプレー缶が実体化した。
彼は迷わずノズルを地面に向け、ロックボアの群れが突進してくる進路上の土と草に向けて、シューーーッ! と勢いよく内容物を噴射し続けた。
「なんやそれ!? 毒ガスか何かか!?」
「『シリコンオイルスプレー』です。建具の滑りを良くしたり、錆を防いだりする潤滑剤ですが……摩擦係数を極限までゼロに近づける効果があります」
突進してくる巨大な猪の武器は、その圧倒的な「重量」と「速度」だ。
しかし、どれほど馬力があろうとも、地面を蹴る『摩擦』がなければ前に進むことはできない。
ズドドドドドッ!!
先頭を走っていたロックボアが、シリコンスプレーでコーティングされた範囲に足を踏み入れた瞬間だった。
「グギュッ!?」
急激に地面の摩擦を失った魔獣の足元が、ツルンと滑った。
時速六十キロの慣性の法則に従い、急ブレーキを踏むこともできず、ロックボアは無様にバランスを崩して大転倒した。ズザーーッ! と土煙を上げながら、スケートリンクの上を滑るように横倒しのまま猛スピードで滑っていく。
そして、後続のロックボアたちも次々とスプレーの餌食になり、折り重なるように玉突き事故を起こし始めた。
ドゴォォォンッ! メキメキッ!
摩擦を失った岩の猪たちは互いに激突し、あるいはコースを外れて大木に激突し、次々と気絶していく。
「な、なんやて!? ただの透明な霧を吹きかけただけで、地面が氷の結界みたいにツルツルに……! おのれ、氷結の呪詛液か!」
ニャングルが算盤を取り落として驚愕する。
「まだだ! 起き上がられる前に縛るぞ!」
アズマはカタログからさらに5CPを消費し、分厚いラップの束のような『業務用ストレッチフィルム』を取り出した。ホームセンターで、巨大なパレットの荷崩れを防ぐために巻きつける強靭な梱包材だ。
アズマは滑って転倒し、もがいているロックボアたちの脚に向かって走り寄り、手早くストレッチフィルムをぐるぐると巻き付けていく。
「グギィィィッ!」
魔獣が力任せに暴れるが、何重にも巻かれたポリエチレンの薄い膜は、引っ張れば引っ張るほど密着し、見えない蜘蛛の糸のように魔獣の四肢を完璧に拘束してしまった。
「よし、動きは止めた! ニャングルさん、あとは――!」
「よっしゃアアア! ワシの商品に傷つけようとした落とし前、キッチリ払わせたるわ! 踏み潰せェ!!」
ニャングルが指笛を吹くと、荷馬車を牽引していた体長四メートルの魔獣『ロックバイソン』が、ブルルルッと鼻息を荒くした。
次の瞬間、アズマの目を疑う光景が広がった。
なんと、総重量数トンはあるはずの巨大な装甲馬車を牽引したまま、ロックバイソンがその場で垂直に五メートル近く跳躍したのだ。
(いやおかしいだろ!? なんで馬車引っ張ったままそんなジャンプ力出せるんだよ!!)
異世界の魔獣のデタラメな身体能力にアズマが白目を剥いている間に、空から降り注いだロックバイソンの超重量の蹄が、縛られて身動きの取れないロックボアの頭部を、次々とスイカのように粉砕していった。
――数分後。
街道には、完全に沈黙したロックボアの群れが転がっていた。
逃げ出した傭兵たちがいなくても、アズマの手札とロックバイソンの異常なパワーにより、被害ゼロで事態を収拾してしまったのだ。
『ピンポンパンポーン♪ 強欲商人の命と商品を守り抜いた善行ボーナスで、15CPを獲得しました! なお、ルチアナ様は神界の消費者金融『エンジェル・ローン』の審査に落ち、現在ダンボール箱を組み立てて寝床を作成中でーす♪』
(神様がホームレスに片足突っ込んでる……!)
そんなアズマの脳内ツッコミをよそに、ニャングルが算盤をチャキチャキと鳴らしながら小走りで近寄ってきた。
そして、アズマの目の前で、見事な土下座を決めた。
「アズマはん!! ワシの目が完全に節穴やった! あんた、ただの難民やのうて、とんでもない高位の錬金術師か呪術師やないか!」
「いや、ただのホームセンターの便利屋で……」
「命の恩人や! 本当にすんまへん、助かったで!」
平伏しながら、ニャングルの猫耳がピクピクと忙しく動いている。
(……こいつのこの氷結魔法と見えない捕縛糸、原価タダみたいなもんやろ? こいつをウチの商会で囲い込んだら、魔獣の討伐と捕獲でボロ儲けやないか……!)
口では最大限の感謝を述べながらも、頭の中ではアズマをどう金儲けに利用するか、算盤を猛スピードで弾きまくっている関西弁商人。
彼の下心が手に取るように分かりつつも、アズマはため息をついてストレッチフィルムの芯を片付けるのだった。
読んでいただきありがとうございます。
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