EP 53
雷撃の刺激臭と、意識の底の逆転劇
ドォォォォォンッ……!
地底深くに位置する迷宮最深部『澱みの底宮』の冷え切った大気が、巨獣の咆哮とともにビリビリと激しく震動していた。
体長十メートルを超える漆黒の巨獣『深淵のベヒーモス』。
その禍々しくねじれた三本の角の隙間から、紫煙を孕んだ致死性の毒気ブレスがとめどなく噴き出している。
広間を満たす空気はすでに絶対的な酸素欠乏状態へと叩き落とされ、立ち込める黒紫色の瘴気は、生物としての呼吸活動そのものを冷酷に拒絶していた。
「グルルルルァァァッ!!」
ベヒーモスが巨躯を沈め、太い四肢に力を込める。
狙いは、床に倒れ伏す二人の少女――リーザとキャルルだ。
直前にアズマが取り出した『携帯用濃縮酸素缶』によって、最悪の心肺停止と昏倒の危機は脱した。
しかし、急激な酸欠がもたらした脳と神経系へのダメージはあまりに深く、二人の手足には鉛のような倦怠感がまとわりついている。
「っ……く……! 身体が、いうことを……聞きません……!」
キャルルが歯を食いしばり、愛用の鋼鉄製ダブルトンファーを握り直そうとするが、指先がガタガタと震えて力が入らない。
普段ならば百二十馬力を誇る月兎族の跳躍力も、酸欠によって脳の運動野が麻痺した状態では、立ち上がることすらままならなかった。
「アズマ様……申し訳、ありません……わ……視界の靄が、晴れなくて……」
リーザもまた、青銀色の長髪を石畳に散らしたまま、胸元をかきむしるように喘いでいる。
その首元で揺れる婚約の水引飾りが、激しい呼吸に合わせて弱々しく上下していた。
(不味い……! 酸素缶で最低限の血中酸素濃度は引き上げたが、一度酸欠で弛緩しきった中枢神経と意識の覚醒が追いついていない! 脳が『休眠モード』に入りかけているんだ……!)
アズマは額のヘルメット越しに冷や汗を流しながら、猛スピードで思考を巡らせた。
魔獣が次に前足を振り下ろすまで、あと二秒。
キャルルの超人的な身体能力と格闘術、そしてリーザの支援がなければ、戦闘能力を持たないアズマ一人ではベヒーモスの踏みつけ一撃でミンチにされるのは明白だった。
二人を今すぐ、強制的に、何があっても完全覚醒させなければならない。
意識の奥底に沈みかけた神経系に、雷撃のような刺激を叩き込み、全身の交感神経を限界まで跳ね上げる手段――。
(気絶、意識混濁、酸欠による昏倒……現場の救急箱、あるいは極限の肉体競技で使われる究極の気付け薬は……!?)
閃きが、アズマの脳裏を貫いた。
「生活改善カタログ――開けっ!!」
意識を集中し、脳内の青いインターフェースを極限速度でスクロールする。
(医薬・救急・アスリートケアカテゴリ! 消費は3CP! 残高は50,299から50,296CPへ!)
パッと虚空が白く弾け、アズマの掌の中に小さな円筒形のプラスチック製カプセルが転がり出た。
掌に収まるほどの、白と赤のラベルが巻かれた無骨な小瓶――『気付け用アンモニアスメリングソルト(嗅ぎ薬)』。
「二人とも、すまん!! あとでいくらでも謝るから許してくれっ!!」
アズマは小瓶の安全キャップを親指で跳ね飛ばすと、二人の鼻先へ滑り込ませた。
そして、中の不織布に染み込んだ超高濃度の気化炭酸アンモニウムを、迷うことなくキャルルとリーザの鼻腔の真下で一気に開放した。
――ツゥゥゥゥゥゥゥンッッッッ!!!!
それは、もはや「匂い」という生ぬるい言葉で表現できる現象ではなかった。
鼻腔の奥にある三叉神経と嗅神経を、鋭利な氷の針の束で直接突き刺し、そのまま頭蓋骨の内部へ電流を流し込んだかのような、凶悪極まりない刺激臭。
人間の身体が本能的に「呼吸中枢を死に物狂いで動かせ!」と警報を鳴らす、生物学的な劇薬の刺激。
「――ッッッ!?!?!?」
まず跳ね上がったのは、嗅覚が常人の何十倍も鋭敏な月兎族・キャルルだった。
「ふぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!?」
瞳孔が極限まで見開かれ、背中の毛どころか、頭頂部の白いウサギ耳が直立不動を通り越してピンと真上に逆立つ!
意識の底に溜まっていた酸欠の霞など、その暴力的な刺激臭の前に跡形もなく吹き飛んでいた。
脳幹が強制的にフル覚醒し、全身の血流が狂ったような速度で循環を再開する。
「な、ななな何ですのこれぇぇぇぇっ!? 鼻の穴から頭蓋骨のてっぺんまで、雷が突き抜けましたわぁぁぁぁっ!!」
隣にいたリーザもまた、涙と鼻水を同時に噴き出しながらガバッと上半身を跳ね起した。
あまりの激痛と刺激にエメラルドグリーンの瞳を白黒させ、口元を両手で押さえて痙攣している。
「二人とも、息を吸い込んで後ろへ跳べっ!!」
アズマの怒声が重なった瞬間、頭上からベヒーモスの巨大な前足が隕石の如く叩き落とされた。
ズガァァァァァァァァンッッ!!
地底の石畳が粉々に砕け散り、巨大なクレーターが穿たれる。
だが、そこにはもう誰の姿もなかった。
「――いっ……く……ぞぉぉぉぉぉぉッッ!!」
轟音を突き破り、キャルルの気迫に満ちた叫びが洞窟内に轟いた。
強制覚醒した神経回路に、滾る闘気が限界を超えて注ぎ込まれている。
彼女はアズマとリーザを両脇に抱え、天井近くの鍾乳石を足場にして、三段跳びでベヒーモスの背後へと回り込んでいた。
着地と同時に、アズマとリーザを安全な岩陰へと滑り込ませる。
その手にはすでに、黒曜のモリブデングリースによって完全に摩擦を無効化された、鋼鉄のダブルトンファーが構えられていた。
「キャルル、あいつの首元だ! 瘴気のブレスを吐き出す直前、喉元の筋肉が大きく収縮して装甲が薄くなる!」
アズマは岩陰から顔を出し、鋭い眼光で指示を飛ばした。
前世で培った観察眼と、これまでの魔獣戦で得た現場知識が、敵の急所を瞬時に見極める。
「任せてください、アズマさん! ……さっきの鼻の奥の激痛、全部あいつに叩き返してやります!!」
キャルルが地を蹴った。
その足元から爆風が巻き起こり、音を置き去りにした超高密度の突撃が敢行される。
「グルルァッ!?」
獲物を見失っていたベヒーモスが巨体を反転させ、再び黒紫の毒ブレスを放とうと、巨大な顎をカッと開いた。
その首元、喉の付け根にある皮膚が、空気を吸い込むために僅かに露出し――。
「リーザ、今だ! 音波で奴のブレスの初速を乱せ!」
「はいっ! アズマ様のためなら、鼻の痛みなぞ耐えてみせますわーっ!!」
リーザが岩陰から飛び出し、両手を胸の前で組んだ。
深海王国の王女にして、過酷な地上で鍛え上げられた元アイドルの全力絶叫。
「『深海共鳴・ソナーバースト』ッッッ!!」
キィィィィィィィィンッ!
目に見えるほどの青白い音波の衝撃波が、ベヒーモスの鼻先へと直撃した。
毒気のブレスを吐き出そうとしていた巨獣の肺腑が激しい音波振動で乱され、ブレスの霧が喉元で咳き込むように詰まる。
その、わずか零コンマ数秒の隙――。
天高く跳躍していたキャルルが、彗星のような軌道を描いて急降下した。
「月影流・奥義――『天衝穿孔烈破』ッッッ!!」
二本のトンファーが、完全な同調を保って超高速回転する。
摩擦係数ゼロの軸受けが生み出す無限の回転力に、月兎族の怪力と落下速度の全エネルギーが凝縮され、ベヒーモスの無防備な喉元へと一点集中で叩き込まれた。
ギチチチチチチッ……ドガァァァァァァァァンッッッ!!
まるで硬質ゴムを突き破るドリルのように、トンファーの先端が巨獣の喉笛を貫通した。
巨獣ベヒーモスの体内から、圧縮されていた瘴気と鮮血が噴水のように吹き上がる。
「グ……オ……ォォォ……ッ……!」
断末魔の呻きとともに、体長十メートルの黒い巨躯がグラリと傾いた。
そして、地震のような地響きを立てて、迷宮最深部の石畳の上に完全に倒れ伏したのだった。
静寂が、洞窟を支配する。
立ち込めていた黒紫色の瘴気は、主を失ったことで急速に霧散し、天井の隙間から差し込む清浄な地下水脈の光が、荒れ果てた広間を白く照らし出していった。
「……ふぅ。……や、やりましたね、アズマさん」
トンファーを収めたキャルルが、肩で息をしながら振り返った。
その額には汗が光り、ウサギ耳はホッとしたようにパタパタと左右に揺れている。
「アズマ様ぁぁぁ〜〜っ! 勝ちました、勝ちましたわーっ!!」
リーザが涙を拭いながら駆け寄ってきて、アズマの腰に思い切り抱きついた。
「お、おいおい、二人とも無事か!? 怪我はないか!?」
「はい! 怪我はありません! ……ただ、鼻の奥がまだツーンとして、涙が止まりませんけど……!」
キャルルが恨めしそうに、だがどこか可笑しそうに笑いながら、アズマの胸元に顔を埋めてきた。
「みゅ〜〜〜ん……」
アズマの胸ポケットから、安全を確認したポポ丸がそろりそろりと顔を出し、主人の顎を安心させるようにペロリと舐める。
「悪かったって、二人とも。でも、あの状況であれ以上の気付け薬はなかったんだよ」
アズマは苦笑しながら、愛しい二人の妻の頭を優しく撫でた。
命懸けの現場を、知恵と道具、そして仲間の力で無傷で乗り切った。
その充実感が、胸いっぱいに広がっていく。
『ピンポンパンポーン♪ 極限の酸欠危機を機転と日用品で打破し、迷宮最深部の巨獣を完全討伐した英雄的善行ボーナスで、150CPを獲得しました!』
脳内に、もはや懐かしさすら覚える軽快なチャイムが鳴り響いた。
(よし……これで残高は50,446CPだな)
『なお、下界の掘っ立て小屋から連行されたルチアナ様は、自警団の取り調べにおいて「私は全知全能の神だからカツ丼を大盛りにしてくれたら許してあげる!」と意味不明の供述を繰り返した結果、精神鑑定送りとなり、現在は神界の保護施設で小豆色ジャージのまま粘土細工を捏ねさせられていまーす♪』
(神様、ついに下界の警察からも匙を投げられて施設送りになってるじゃねえか……!!)
脳内で響く相変わらずの転落実況に盛大なツッコミを入れつつ、アズマは横たわる巨大なベヒーモスの巨骸へと視線を向けた。
その巨体からは、並の魔獣とは比べ物にならないほど濃密な魔力を放つ、漆黒の角と素材が鈍い光を放っている。
「さて……大仕事は終わった。このお宝をしっかり回収して、地上へ帰るとするか!」
「はいっ、旦那様!」
「今夜は美味しいご馳走をたらふく作ってくださいましね、アズマ様!」
二人の笑顔とポポ丸の鳴き声に包まれながら、便利屋一行の迷宮最深部での激闘は、完全なる勝利によって幕を閉じたのだった。
読んでいただきありがとうございます。
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