EP 52
清涼なる風(酸素缶)と、最深部の巨獣
古代迷宮の中層を抜けた先、空気が一変した。
肌を刺すような冷気と、澱んだ濃密な瘴気。
足元には何百年も前に息絶えた冒険者たちの錆びた武具が散乱し、天井からは鍾乳石が牙のように垂れ下がっている。
「……ここが、古代迷宮の最深部、『澱みの底宮』ですね」
キャルルが自慢のウサギ耳をぴんと張り詰めさせ、腰のダブルトンファーにそっと手を添えた。
その表情は、いつもの愛らしい笑顔から、歴戦の戦士のそれへと鋭く引き締まっている。
「アズマ様、なんだか空気がひどく重苦しいですわ……。呼吸をするたびに、胸の奥がキュッと締め付けられるようです」
リーザが胸元を押さえ、不安げにアズマの背後に寄り添う。
胸ポケットのポポ丸も、外の異様な気配を察知したのか、「きゅ……」と小さく震えて顔を引っ込めていた。
「ああ、ここは地下深すぎる上に通気口が塞がれているんだ。それに加えて、魔獣の吐き出す毒素で酸素濃度が著しく低下している」
アズマは額のヘッドライトで周囲の岩壁を照らしながら、現場監督としての冷静な目で分析した。
地下ピットやマンホール内での作業と同じ『酸欠・硫化水素中毒の危険区域』だ。
長居すれば、戦闘どころか意識を失ってそのまま命を落とす。
「二人とも、無理に深呼吸をするな。できるだけ浅く――」
アズマが注意を促した、その瞬間だった。
――ゴォォォォォォンッ……!
最深部の広間全体を揺るがすような、重低音の咆哮が地底から響き渡った。
広場の奥にある巨大な石扉が粉々に吹き飛び、闇の中から巨大な影が姿を現す。
体長十メートルを超える、漆黒の剛毛に覆われた四足の巨獣――『深淵のベヒーモス』。
その額には禍々しくねじれた三本の角が生え、赤く血走った複眼が侵入者であるアズマたちを捉えていた。
「グルァァァァァァッ!!」
巨獣が息を吸い込み、咆哮とともに口から黒紫色の瘴気のブレスを撒き散らした。
それは直接的な熱量や破壊力を持つ攻撃ではない。
だが、広間を満たしていたわずかな空気中の酸素を瞬時に食らい尽くし、致死性の酸欠空間へと塗り替える最悪の環境破壊攻撃だった。
「ッ……! 息が……っ!?」
キャルルの膝がガクンと折れた。
強靭な身体能力を誇る月兎族だからこそ、全身の筋肉が要求する酸素消費量は常人の倍以上。
それが突然ゼロ近くまで断たれたことで、脳への供給が追いつかず、視界が急速にブラックアウトしていく。
「ゲホッ……アズマ、様……視界が、真っ暗に……っ」
リーザもその場にへたり込み、胸をかきむしるようにして倒れ伏した。
(不味い……! 二酸化炭素濃度の上昇と、急激な酸素欠乏症だ! あと三十秒で二人とも不可逆の脳障害を起こすか、昏倒してあの巨獣に踏み潰される……!)
巨獣ベヒーモスが地響きを立て、倒れ伏す二人のヒロイン目掛けて巨大な前足を振り上げた。
猶予は一秒もない。
アズマは迷わず、脳内の『生活改善カタログ』をフルスピードで展開した。
(医療・衛生・スポーツコンディショニングカテゴリ! 消費は5CP! 残高は50,304から50,299CPへ!)
パッと虚空がまばゆく輝き、アズマの両腕の中に現れたのは、青と白のデザインが施された金属製のスプレー缶――『携帯用高濃度酸素缶(マスク一体型・純度95%)』。
「キャルル、リーザ! これを吸えっ!!」
アズマはまず倒れ込むキャルルの元へ滑り込み、缶のキャップを外してプラスチック製の吸入口を彼女の鼻と口へ一気に押し当てた。
――プシューーーッッ!!
レバーを押し込むと、澄み切った超高濃度の純粋な酸素が、激しい噴射音とともにキャルルの気道へと一気に送り込まれた。
「んんっ……!? ふーっ、はぁっ……!?」
瀕死の魚のように喘いでいたキャルルの肺が、劇的な勢いで膨らみ、酸素を一心不乱に取り込む。
血液中に高濃度の酸素が一瞬で駆け巡り、死に瀕していた脳細胞がパチパチと覚醒していく。
「ア、アズマさん……!? 冷たくて……澄んだ風が……!」
「喋るな、吸い続けろ! リーザ、お前もだ!」
アズマはもう一方の缶をリーザの口元へ当て、同様に高濃度酸素を肺腑へと叩き込んだ。
「ん、んっ……! はぁぁっ……! あ、頭の痛みが……消えていきますわ……!」
青白かった二人の肌に、みるみるうちに血色が戻っていく。
だが、危機が去ったわけではない。
頭上には、二人を肉塊へと変えんと振り下ろされる、ベヒーモスの巨大な蹄が迫っていた。
「グオォォォォォッ!!」
「キャルル! 動けるか!?」
「……はいッ!!」
キャルルのエメラルドグリーンの瞳に、鋭い闘志の光が完全に甦った。
ウサギ耳をピンと逆立たせ、床を蹴り上げる!
ドガァァァァァンッ!!
間一髪、ベヒーモスの蹄が床の石畳を粉々に打ち砕いた。
直前でアズマとリーザを抱えて横へ跳んだキャルルは、瓦礫の煙の中で着地し、荒い息を吐きながら巨獣を睨み据えた。
「アズマさんのくれた『清涼なる風』で、身体の奥の痺れは完全に消えました! ……でも、この広間の瘴気がある限り、長期戦になればまた息が持ちません……!」
広間を満たす黒紫色の毒気は、いまだ渦を巻き、彼らの生命力を削り取ろうと蠢いている。
そして目の前には、圧倒的な巨躯を誇る迷宮最深部の主。
絶体絶命の窮地の中、アズマは酸素缶を握り締め、鋭い眼光で巨獣の巨体を見据えた。
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