EP 39
腐敗を蒸発させる浄化剤と、融合する死骸
中央の平原に押し込められたオークとワイルドボアの群れは、ガストン率いる重装歩兵大隊の密集槍陣と、左右に張り巡らされた『亜鉛メッキ有刺鉄線』の罠によって、完全にその足を止められていた。
矢が雨あられと降り注ぎ、槍衾が次々と魔獣の息の根を止めていく。平原には数百頭もの魔獣の死骸が小山のように積み上がり、勝敗は決したかに見えた。
「やった……! アズマ様、魔獣たちがバタバタと倒れていきますわ!」
後方で救護班の手伝いをしていたリーザが、泥だらけのジャージの袖で額の汗を拭いながら歓声を上げた。
だが、前線司令部で双眼鏡を覗いていたアズマの背筋には、言い知れぬ悪寒が走っていた。
(おかしい……。いくら暴走とはいえ、統率が取れなさすぎる。まるで何かに追われていたというより……最初からここで『死ぬため』に集められたような……)
その直感は、最悪の形で的中した。
突如、積み上がった数百頭の魔獣の死骸から、ボコボコと不気味な泡が吹き出し始めた。
プシューッ、ジュウウウッ……!
肉が腐り落ちるような強烈な悪臭と、どす黒い紫色の瘴気が立ち上る。倒れていたオークの死体がドロドロに融解し、隣り合うワイルドボアの骨や肉と混ざり合いながら、脈打つ巨大な肉塊へと変貌していったのだ。
「な、なんだこれは!? 死骸が……溶けてくっついていくぞ!?」
前線の兵士たちが恐怖に腰を抜かして後退する。
死骸の山の下から這い出てきたのは、禍々しい漆黒の粘液――『変異腐触粘菌』だった。
粘菌は大量の新鮮な死肉を取り込み、骨を芯にして強引に骨格を組み上げ、瞬く間に体長十五メートルを超えるおぞましい姿へと急成長を遂げた。
無数のオークの腕、巨大な猪の牙、引き裂かれた皮と肉がデタラメに繋ぎ合わされた、悪夢のようなアンデッド・キメラ――『屍肉の融合巨獣』の誕生だった。
「グロロロロロ……オォォォォォォォンッ!!」
数十の口から同時に放たれた咆哮が、大気を激しく震わせる。
巨獣が丸太のような腕を薙ぎ払うと、分厚い鉄の盾を持った重装歩兵たちが、木の葉のように十数人も吹き飛ばされた。
「ひるむな! 弓兵、一斉射撃! 魔導士隊、火炎球を撃ち込めぇぇッ!」
ガストンの怒号と共に、大量の火矢と炎の魔法が巨獣に着弾する。
ドゴォォン!と炎が巻き起こり、肉塊が焼け焦げる。
だが、傷口から吹き出た黒い粘液が瞬時に肉を再生させ、何事もなかったかのように傷が塞がってしまった。
「効いていない……!? 物理攻撃も火炎魔法も、あの腐触粘菌の再生力に飲み込まれているだと!?」
ガストンが歯噛みする。
そこへ、前線から戻ってきたキャルルが、息を切らしながらアズマの元へ駆け寄ってきた。
「アズマさん、ダメです! あの巨獣の核になっている粘菌は、死骸の『有機物』を喰らい続ける限り、無限に再生を繰り返します! 私が全力で殴り飛ばしても、拳が肉塊にめり込んで抜けなくなるだけです!」
その時、巨獣がアズマたちのいる司令部の高台へ向けて、巨大な足を踏み出した。
ズシィィィンッ!
崩れかけた土煙の中、巨大な岩石がアズマの頭上へと飛来する。
「アズマさん、危ないッ!」
キャルルが叫び、アズマの前に立ちはだかった。
――バキィィィィィッ!!
「ぐっ……ふぅっ!」
キャルルはダブルトンファーすら使わず、咄嗟に『素手の手刀』を真上に振り抜いた。
飛来した直径二メートルはある巨岩が、彼女の細腕の一撃によって、真っ二つに両断されて左右の地面へと激突した。衝撃波で周囲のテントが吹き飛ぶ。
「はぁっ、はぁっ……! なんとか、防ぎました……!」
ウサギ耳を逆立て、息を荒げるキャルル。
(……手刀で2トンの岩をカチ割るなよ! 相変わらず月兎族の筋力は物理法則を無視しすぎだろ!)
アズマは喉まで出かかったツッコミを必死に飲み込んだ。今はそんな非常識に感心している場合ではない。
(敵の正体は、有機物を喰らって増殖する粘菌と細菌の塊だ。剣で斬っても泥沼になるだけ……。なら、現場の衛生管理の基本――『根本からの滅菌・消毒』で、細胞そのものを破壊する!)
アズマは脳内の『生活改善カタログ』を開き、衛生・清掃薬品カテゴリーを呼び出した。
(消費は50CP。残高は50,145CPだ!)
虚空からドスン、ドスンと重い音を立てて現れたのは、巨大な青い業務用ポリタンク二十本だった。
表面には『業務用 次亜塩素酸ナトリウム溶液(濃度12%)』と危険物表示が刻まれている。
「アズマさん、それは……!?」
「『高濃度塩素系漂白・殺菌剤』だ! プールの消毒や、現場の汚物処理に使う究極の衛生薬品だ!」
アズマは胸ポケットから顔を出したポポ丸をそっと押し込み、背嚢から第30話で手に入れた手札を取り出した。
「キャルル、リーザ! 二人とも絶対に近づくな! この蒸気を吸ったら肺を焼かれるぞ!」
アズマは顔に『粉じん・有機溶剤用防毒マスク』を装着し、ゴム手袋をはめた。
活性炭フィルター越しに、スーッ、ハーッという機械的な呼吸音が響く。
「キャルル! このタンクの蓋を全部外して、あの巨獣の頭上へ向かって蹴り飛ばしてくれ!」
「了解です! 月影流・連撃蹴!」
キャルルが猛烈な連続蹴りを繰り出し、一本数十キロもあるポリタンクが、次々と唸りを上げて巨獣の頭上へと打ち上げられた。
空中で回転するタンクに向かって、アズマは手元のパチンコ(スリングショット)で鉄球を放ち、タンクの腹を正確に撃ち抜いた。
バシャァァァァァァッ!!
上空から、大量の透明な液体が巨獣の全身へと豪雨のように降り注いだ。
強烈なプールの消毒液の臭い――塩素の刺激臭が大気を満たす。
「グロ……ッ!? ギシャァァァァァァァァッ!?」
液体を浴びた瞬間、屍肉の融合巨獣が、これまでにない狂乱の絶叫を上げた。
ジュウウウウウウッ!!
降り注いだ箇所から、激しい白い煙が立ち上り、あれほど強靭だった肉塊と黒い粘菌が、まるで熱湯をかけられた氷のようにドロドロに溶け崩れていく。
「な、なんですかこれ!? あんなに頑丈だった肉塊が、触れた端から白く変色して崩壊していきます!」
風上で口元を覆っていたリーザが目を見張る。
「次亜塩素酸ナトリウムの持つ、圧倒的な『強酸化力』だ!」
防毒マスクの奥から、アズマの籠もった声が響く。
「こいつは、粘菌やウイルスの細胞膜を瞬時に破壊し、核となるタンパク質を酸化させて完全に分解・変性させる! いかに無限の再生力を誇る粘菌だろうと、細胞そのものを化学的に『無』に帰されれば、再生のしようがない! 腐敗を蒸発させる、科学の浄化だ!」
頭部と背中の粘菌を焼き尽くされ、巨獣の身体は急速に崩壊を始めた。
無数の腕が千切れ落ち、肉の塊が地面へと落下していく。
「やったか……!?」
ガストンが身を乗り出し、兵士たちからも歓声が上がりかけた。
だが――。
「グ……ルルルルルルルルッ……!」
崩れ落ちた肉塊の中心から、ドクン、ドクンと不気味な脈動音が平原に響き渡った。
液体が届かなかった巨獣の最深部。
千切れた無数の肉の隙間から現れたのは、真っ赤に輝く巨大な『核』――そして、その核を覆うようにして、地中から無数の黒い触手が噴き出してきたのだ。
「ギチギチギチギチッ!!」
触手は溶け残った死骸を強引に引き寄せ、今度は粘菌ではなく、純粋な『圧縮された骨と怨念の鎧』を形成し始めた。
次亜塩素酸ナトリウムの液体は、すべて地面の泥へと染み込んで蒸発してしまっている。
「嘘だろ……。外殻の肉を捨てて、内部の核が本体の形態を変異させただと……!?」
アズマの手元には、もう漂白剤のストックは残っていなかった。
防毒マスクの排気弁が、荒い息と共に激しく上下する。
再生を封じられた怪物が、真の殺戮形態へと変貌を遂げ、その凶悪な眼光をアズマへと定めた。
平原を覆い尽くす絶望の闇の中、退路を断たれたアズマたちの前に、未だかつてない最大の危機が口を開けていた。
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