EP 36
色褪せぬ契約認証印(朱肉)と、王宮からの苦労人使者
極上のうどん鍋でAランク昇格を祝った翌朝。
路地裏にある『便利屋アズマ』の店舗兼住居の前に、けたたましい馬蹄の音と、物々しい金属鎧の擦れ合う音が響き渡った。
「な、なんですの!? また暗殺者ですの!?」
昨夜の鍋の残りを温め直して朝食にしていたリーザが、スプーンを咥えたままビクッと肩を跳ねらせる。
「違いますね……これは、帝都の近衛騎士団の行進音です」
キャルルがウサギ耳をピンと立て、警戒を露わにしながらダブルトンファーを手に取った。
やがて、店の木製の扉が控えめに、だが規則正しく三回ノックされた。
「失礼する。ルナミス帝国中央行政府・特務監察局の者だ。東 吾妻殿、並びにキャルル殿はおられるか」
入ってきたのは、豪奢な白銀の甲冑を身にまとった騎士たちを従える、濃紺の官吏服を着た一人の痩身の男だった。
三十路手前ほどに見えるその男は、いかにも高級官僚といった整った顔立ちをしているものの、目の下には消えない濃い隈が刻まれ、その背中は激務に押し潰されそうな疲労感を色濃く滲ませていた。
「俺がアズマですが……帝都の役人さんが、何の用です?」
アズマがカウンター越しに応対すると、男は胸元に手を当てて深く一礼した。
「初めまして、アズマ殿。私は帝国行政府第三書記官のオルソンと申します。……単刀直入に申し上げます。先の飛竜単独討伐、並びにマッドトロール群の瞬時殲滅の報は、帝都の皇帝陛下、ならびに元老院の耳にも届きました」
オルソンは深いため息を一つ零し、懐から分厚い羊皮紙の親書を取り出した。
「つきましては、アズマ殿。貴方をルナミス帝国の中央特務技術官として正式に登用し、帝都の宮廷工房へお招きしたいとの『勅命親書』をお持ちいたしました」
「帝都への招致……?」
アズマが眉をひそめると、背後のキャルルが一歩前に出てオルソンを鋭く睨みつけた。
「お断りします! アズマさんはこの城塞都市のガストン司令官から『特任通信技術顧問』の任を受けています。中央の貴族たちに道具を奪われ、軍事兵器の研究施設に幽閉されるような場所へ、アズマさんを行かせるわけにはいきません!」
「キャルル殿……お気持ちは重々承知しております」
オルソンは困り果てたように眉尻を下げ、胃のあたりを押さえた。
「ですが、こちらも皇帝陛下の直命なのです。断られれば私の首が物理的に飛びます……。すでに帝都の上層部では、貴方の道具を『古代超文明の失われた遺産』と認定し、独占しようとする貴族派閥と、辺境軍閥の間で激しい権力闘争が始まっておりまして……」
いかにも中間管理職の苦労人といった様子のオルソンに、前世の激務時代を思い出したアズマは、思わず同情の念を禁じ得なかった。
「オルソンさん、大変なのは分かりますが、俺は帝都へ行く気はありませんよ。俺はどこかの国に仕える兵器開発者じゃなく、困った人を助けるただの便利屋ですから。ガストン司令官にもそう伝えてあります」
「ぐっ……やはりガストン閣下のお知恵ですか。手強い……」
オルソンは苦悶の表情を浮かべたが、やがて諦めたように肩を落とした。
「分かりました。無理強いして貴方との関係を破綻させれば、それこそ私の首が飛びます。……では、妥協案として『帝国政府との優先技術協力契約』の締結だけはお願いできませんでしょうか。これさえ持ち帰れば、元老院の連中にも『技術協力の約定を取り付けた』と言い訳が立ちますので……!」
オルソンは机の上に、金糸で縁取られた豪奢な契約書を広げた。
そこには『便利屋アズマは帝国の危機において優先的に物資の相談に応じるものとし、帝国政府はアズマの自由な商業活動と身の安全を最高位で保証する』という、アズマ側にとっても極めて有利な条項が並んでいた。中央貴族による勝手な身柄拘束を封じるための、強力な公的盾になり得る内容だ。
「これに、貴方の血による『血判』、もしくは魔力を込めた『魔導印』を押していただきたいのです」
オルソンが小さな針と、魔力に反応する青いインク壺を差し出した。
指先を針で刺して血を流すか、魔導士にしか扱えない魔力印を押す。それが、この世界における最も厳格な契約の証明形式だった。
「血を流すのは痛いし、衛生上よろしくないな。……それに、そのインク、水に濡れたら滲んで消えちまうんじゃないですか?」
「え? ええ、羊皮紙用の魔導インクは水気には弱く、数十年も経てば魔力が抜けて色褪せてしまいますが……それ以外の捺印法など存在しませんよ?」
不思議そうに首を傾げるオルソンに対し、アズマは脳内の『生活改善カタログ』を開いた。
(事務・文具カテゴリー。消費は2CP。残高は50,226CPだ)
虚空から取り出したのは、黒い丸型のプラスチック容器と、弾力のある長方形の黒いゴムマットだった。
「アズマさん、それは……?」
「『速乾性朱肉』と、『捺印用ソフトマット』だ」
アズマは契約書の下に、弾力性のある黒いマットを敷いた。
「まず、このマット。下地が硬い机だと、印鑑を押した時に圧力が偏って文字がかすれたり欠けたりする。この適度な弾力を持つマットを敷くことで、均一に圧力を分散させ、鮮明な印影を残せるんだ」
続いて、アズマは朱肉の蓋を開けた。中には、鮮やかな深紅色の繊維質のパッドが収まっている。
「そしてこの朱肉は、超微粒子の油性顔料インクを使用している。紙の繊維の奥深くまで瞬時に浸透して乾燥するから、手で擦っても絶対に擦れない。さらに耐水性・耐光性にも極めて優れていて、水に浸けようが、日光に百年晒されようが、決して色褪せることも消えることもない『不滅の認証印』になる」
アズマは親指の腹を朱肉に軽く押し当て、赤い顔料を均一につけると、契約書の署名欄にグッと体重をかけて押し当てた。
ポンッ。
マットの反発力により、羊皮紙の上には、アズマの指紋の渦巻き模様までが一筋のブレもなく、鮮明極まりない真紅の印影として焼き付けられた。
「なっ……!?」
オルソンが身を乗り出し、その印影を凝視した。
「指先を切ることもなく、魔力も込めず、たった一瞬でこれほど極小の皮膚の紋様(指紋)までを克明に写し取っただと……!? しかも、もう乾いている……!?」
オルソンが恐る恐る指で擦ってみるが、真紅の印影は一ミリも滲まず、紙の繊維と完全に一体化していた。
「水に濡れても、日光に晒されても色褪せない、永遠の契約認証印……。魔導士の契約魔法すら凌駕する、絶対の法具ではないですか……!」
オルソンは感動のあまりワナワナと震え、契約書を胸に抱きしめた。
「ありがとうございます、アズマ殿! これほどの完璧な契約書を持ち帰れば、元老院の連中もぐうの音も出ません! 私の首も繋がりました……!」
涙ぐみながら深々と頭を下げる苦労人官僚に、アズマは苦笑しながら手を振った。
「お役に立てたなら何よりです。帝都の激務、体に気をつけて頑張ってくださいね」
オルソン率いる近衛騎士団は、至宝を手に入れたかのような厳重さで契約書を木箱に納め、去っていった。
嵐のような使者の訪問が去り、店内には再び静けさが戻る。
「ふぅ……なんとか丸く収まりましたわね。アズマ様、さすがですわ!」
リーザがホッと胸を撫で下ろす。
「ええ。ですがアズマさん、これで中央の権力者たちにも、あなたの存在が公的に知れ渡ってしまいました。これからは、より一層の警戒が必要です」
キャルルが引き締まった表情で告げた。
便利屋としてのささやかな日常を守るために結んだ、帝国政府との契約。
だが、それは同時に、アズマという存在がマンルシア大陸全土を揺るがす巨大な歴史のうねりへと、後戻りできない一歩を踏み出した瞬間でもあった。
やがて訪れる国家規模の動乱の足音が、遠く帝都の空から、静かに忍び寄ろうとしていた。
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