EP 32
風属性の杖と、空から来る脅威
突如として上空を覆い隠した巨大な影に、ラト村の時間は凍りついたように止まった。
先ほどまでマッドトロールの群れを打ち倒したアズマたちへ向けられていた歓声は、深い絶望の悲鳴へと裏返る。
「飛竜……! なぜ、山脈のヌシがこんな人里に!?」
キャルルが鋼鉄のダブルトンファーを構え直すが、そのエメラルドグリーンの瞳にも明確な焦りが浮かんでいた。
四枚の巨大な被膜の翼を羽ばたかせ、空中で静止するその姿は、全長十メートルを優に超えている。大気を震わせる唸り声だけで、村のあちこちにある木造の小屋がミシミシと悲鳴を上げていた。
(……マズい。上空からの広範囲攻撃。漫画やアニメの演出なら、この急降下ブレスは陣形を完全に崩される『負けイベント』のフラグだ)
アズマは額に冷たい汗を滲ませながら、必死に思考を回転させた。
前世でやり込んでいたオンラインRPGの記憶が、アズマの脳裏をよぎる。空からの一方的な広範囲攻撃(AoE)に対し、後衛の市民を守るための鉄則。それは、強固な防御力を持つ盾役がヘイト(敵視)を集め、敵の攻撃の矛先を安全な方向へと誘導することだ。
「キャルル! あいつの注意を俺たちに引きつけろ! 村人からヘイトを剥がすんだ!」
「分かりました! 月影流・飛石弾ッ!」
キャルルが足元の岩盤をトンファーで砕き、ボウリングの玉ほどもある岩の破片を上空へ向けて蹴り飛ばした。
ドゴォッ!
岩は弾丸のような速度で飛竜の顎に直撃し、硬い鱗に弾かれて粉々に砕け散った。
ダメージこそないものの、明確な『敵意』を受け取った飛竜は、眼下の村人たちからアズマとキャルルへとその凶悪な赤い複眼を向けた。
「グルルルルルッ……ギャァァァァァァァァッ!!」
飛竜が大きく顎を外し、喉の奥で膨大な大気のマナを圧縮し始めた。
周囲の空気が一気に竜の口内へと吸い込まれ、突風が巻き起こる。
「来ます! 風のブレスです!」
「ダメだキャルル、前に出るな! いくらお前でも、形のない『風』は殴り飛ばせない!」
飛竜の口から放たれたのは、極限まで圧縮された『真空の刃』の嵐だった。
目に見えない無数の風の刃が、大気を切り裂く甲高い音を立ててアズマたちへと降り注ぐ。直撃すれば、人体など一瞬で細切れにされる凶悪な魔法攻撃だ。
アズマは脳内の『生活改善カタログ』を開き、5CPを消費した。(残高は50,107CP)
虚空から取り出したのは、赤い極細のノズルが取り付けられた、スプレー缶のような形状のボトルだった。
側面には『逆さ噴射対応・強力エアダスター』と書かれている。
「アズマさん、それは!?」
「風属性の杖だ! 俺の後ろに隠れろ!」
アズマはエアダスターのノズルを、真上の空から迫り来る『真空の刃』へと真っ直ぐに向けた。
本来、液化ガスを封入したスプレー缶は、大きく傾けたり逆さまにして噴射すると、中の液体がそのまま噴き出して急激な凍傷を引き起こす危険がある。だが、この『逆さ噴射対応』のダスターは、内部に特殊な吸収体やバルブ構造を備えているため、真上に向けても安全に『気化した高圧ガス』だけを放つことができるのだ。
「真空の刃の正体は、マナで強制的に生み出された『極端な気圧差』の渦だ。なら、その渦の中心に高圧のガスを叩き込んで、気圧のバランスを崩してやる!」
アズマはトリガーを限界まで押し込んだ。
プシュゥゥゥゥゥゥッ!!!
エアダスターのノズルから、圧縮されたジメチルエーテルと炭酸ガスの混合気体が、凄まじい勢いで上空へ向けて噴射された。
精密機械の奥に入り込んだ微細な埃をも吹き飛ばす、極細にして超高圧のガスの束。それが、飛竜の放った広範囲の真空の刃の『核』となる部分にピンポイントで衝突した。
バチンッ!!
弾けるような破裂音が響いた。
気圧のバランスを人為的に破壊された真空の刃は、アズマたちの頭上数メートルの位置で霧散し、ただの強風となって周囲の泥沼を波立たせるだけで終わった。
「す、すごいですアズマさん! あんな小さな鉄の筒から放たれた一陣の風が、飛竜の魔法を完全に打ち消しました!」
キャルルが驚愕にウサギ耳を揺らし、後方の村人たちからも「おおおっ!」と歓声が上がる。
だが、アズマの顔に安堵の色は微塵もなかった。
(……ダメだ。これじゃ、根本的な解決にならない)
アズマの手の中にあるエアダスターの缶は、急激なガスの気化熱によって急激に温度を奪われ、表面に真っ白な霜が張り付いていた。連続使用による圧力低下が起きており、二発目を同じ威力で放つことはもうできない。
上空の飛竜は、自分の魔法がちっぽけな人間に防がれたことに、激しい怒りを覚えていた。
「ギシャァァァァァァァァァァッ!!」
空気を震わせる咆哮と共に、飛竜は魔法を使うのをやめ、巨大な翼を折りたたんで自らの『肉体』を弾丸のように落下させた。
狙いは、アズマとキャルル。
全長十メートル、体重数トンにも及ぶであろう鋼の鱗に覆われた巨体。それが、重力と風の魔力を纏い、逃げ場のない速度で急降下してくる。
大気を引き裂く轟音が、死のカウントダウンのように響き渡った。
「私が、防ぎます……ッ!」
キャルルがアズマの前に立ち塞がり、ダブルトンファーを交差させて防御の姿勢をとった。彼女の全身から、これまで見たこともないほど濃密な闘気のオーラが立ち昇る。
だが、アズマには分かっていた。
ゲームの盾役であれば、無敵の魔法や防御スキルで巨大ボスの突進を耐え凌ぐこともできるだろう。しかし、現実はゲームではない。
120馬力の筋力を持っていようと、キャルルの体重は五十キロそこそこの少女なのだ。数トンの質量が音速に近い速度で激突すれば、彼女の身体はトンファーごと跡形もなくミンチにされてしまう。
「やめろキャルル! 避けろォォッ!!」
アズマが絶叫して手を伸ばした、その瞬間。
ドゴォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!
飛竜の巨体が地面に激突し、爆弾が落ちたかのような凄まじい衝撃波と土煙が、ラト村の入り口を完全に呑み込んだ。
吹き荒れる暴風の中、アズマの意識は、圧倒的な『力の差』という絶望の淵へと突き落とされていくのだった。




