EP 17
夢見のヴェールと、女性陣の深夜の熱狂
都市の片隅にある冒険者向けの安宿。
ガストンの手配で借りたその部屋は、質素な木造ながらも掃除が行き届いており、三つのベッドが並んでいた。
明日はついに、ギルドで受注した初心者向けの討伐依頼――アズマにとっての初陣の日である。窓の外には二つの月が浮かび、静かな夜の空気が漂っていた。
「はぁ……アイドルたるもの、いついかなる時も清廉潔白でなければならないのに……頭皮がベタベタしますわ……」
ベッドの端に座ったリーザが、自慢の青銀色の長髪を梳きながら、この世の終わりのようなため息をついた。
「仕方ありませんよ、リーザちゃん。この都市の安宿では、お湯を使うのは別料金ですし、魔導具で温めたお湯をたっぷり浴びられるのは貴族の屋敷くらいですから」
キャルルもタオルで首筋を拭きながら、苦笑交じりに慰めている。だが、スパルタ訓練で大量の汗をかいた彼女自身も、髪のベタつきが気になってウサギ耳がしんなりと垂れ下がっていた。
異世界アナステシアにおける衛生事情は、現代日本とは大きく異なる。
水魔法や火魔法を日常的に使える魔導士がいれば別だが、一般の宿屋では、水桶の冷たい水で身体を拭くのがせいぜいだ。シャワーで毎日髪を洗うという習慣自体が、極めて贅沢な行為なのである。
(……女の子だし、やっぱりお風呂に入れないのはストレスだよな)
ホームセンターの店員として、防災グッズやキャンプ用品の品出しをしていた頃の知識が、アズマの脳裏をよぎった。水が使えない災害時や、野外での長期キャンプにおいて、衛生面を保つための必須アイテムがある。
アズマは脳内の『生活改善カタログ』を開き、2CPを消費した。
(残高は50,025CPだ)
虚空から取り出したのは、スプレー缶のような形状のボトルだった。
「二人とも、ちょっとこっちに来てくれないか。髪の汚れなら、水がなくても落とせるよ」
「えっ? 水を使わずにですか?」
「アズマ様! また奇跡の魔法を見せてくださるんですの!?」
キャルルとリーザが、期待に目を輝かせてアズマの前にちょこんと正座した。
「魔法じゃないよ。これは『水のいらないドライシャンプー』だ」
アズマはまず、キャルルの髪の根元に向けてスプレーを吹きかけた。シューッという音とともに、爽やかなシトラスの香りが部屋に広がる。
「ひゃんっ! 冷たくて、スースーします!」
「そのまま少し待って。次に、指の腹で頭皮をマッサージするように揉み込むんだ」
アズマが見本を見せながらキャルルの頭皮を優しく揉んでやると、彼女は顔を真っ赤にしてウサギ耳をピンと立てた。
「あ、あのっ、アズマさんに直接髪を触られるのは、その、すごく……恥ずかしいというか……」
「おっと、ごめん。自分でやってみてくれ。リーザも」
ボトルを手渡された二人は、言われた通りにスプレーを吹きかけ、自分の髪を揉み込んだ。
そして、タオルで軽く拭き取った直後。
「なっ……!? 汗のベタつきが完全に消えて、髪がサラサラになりましたわ!?」
リーザが信じられないというように、自分の青銀色の髪をファサッとなびかせる。重たかった毛先が風を含み、まるで清流で洗い立てたかのような輝きを取り戻していた。
「すごい……頭皮の痒みも不快感も、一瞬で吹き飛びました。清めをもたらす聖水スプレーですね……!」
キャルルも、フワフワに戻ったウサギ耳を揺らしながら感嘆の声を上げる。
「仕組みは簡単なんだ。スプレーの中には、皮脂や汚れを吸着する微細なパウダーと、すぐに蒸発するアルコール成分が含まれている。パウダーが汚れを絡め取り、アルコールが揮発する時に清涼感を与えてくれるから、水で洗い流さなくてもスッキリするってわけさ」
アズマの解説に、二人の美少女は「アズマさんはやっぱり神様ですわ!」「最高のパートナーです!」と大興奮でアズマの両腕にしがみついてきた。
ひとしきりはしゃいだ後、二人はベッドに入った。
だが、部屋の明かりとなる魔石のランプを消しても、二人の寝息は聞こえてこなかった。
「……リーザちゃん、眠れないんですか?」
「ええ……。ずっと路地裏のダンボールで寝る生活だったので、こんなに柔らかいベッドだと、逆に落ち着かなくて……。それに、明日の討伐依頼、もし魔獣がたくさん出たらどうしようかと……」
「大丈夫ですよ。私がしっかり護衛しますから。でも……実は私も、少し目が冴えてしまって」
キャルルの声にも、かすかな緊張が混じっていた。村長として、そして護衛として、アズマたちを無事に守り抜かなければならないという責任感が、彼女の神経を張り詰めさせているのだ。
(……明日が初陣だってのに、これじゃ二人とも睡眠不足で倒れちまう)
アズマは暗闇の中でそっと身を起こし、再びカタログを開いた。
(消費は2CP。残高50,023CP)
取り出したのは、薄い袋に入った二つの布状のアイテムだ。
「リーザ、キャルル。ちょっといいか」
「アズマさん?」
アズマはそれぞれのベッドに歩み寄り、袋を開封して、中身を二人の目の上にそっと乗せた。耳にかける紐を引き、目元をすっぽりと覆うように固定する。
「なんだか、目の上に布を乗せられましたわ……?」
「これは『蒸気で温まるアイマスク』だ。そのまま、目を閉じてリラックスしててくれ」
数十秒後。
「あ……っ」
キャルルの口から、とろけるような吐息が漏れた。
「目が……じんわりと温かくなってきました。それに、この素晴らしい香りは……?」
「ラベンダーの香りだよ。気持ちを落ち着かせて、深い眠りに誘う効果があるんだ」
「ふぁぁ……。まぶたの裏側から、温かいお湯に浸かっているような……極上の癒やし魔法ですわ……。もう、身体の力が抜けて……」
リーザの声も、すでに半分夢の中へと沈みかけている。
「これには鉄粉と水分が含まれていてね。袋を開けて空気に触れると、酸化反応という化学反応を起こして、心地よい熱と目に見えない細かい蒸気を発生させるんだ。眼精疲労を和らげて、緊張を解きほぐしてくれる」
アズマが静かな声で説明すると、アイマスクの下でキャルルがクスッと笑った。
「……また、難しい理屈ですね。でも、アズマさんのその優しさが、どんな魔法よりも一番……温かいです……」
すう、すう、と。
やがて、部屋の中には二人の穏やかな寝息だけが響くようになった。
どんなに強気な村長も、意地っ張りなアイドルも、今はただの年相応の少女だ。アイマスクの夢見のヴェールに包まれ、その表情は心底安らかだった。
『ピンポンパンポーン♪ 乙女たちの心身の緊張を解きほぐした極上のケアによる善行ボーナスで、10CPを獲得しました! なお、ルチアナ様は課金ガチャの爆死のショックから立ち直れず、現在コタツの中でミノムシのように丸まって現実逃避中でーす♪』
(神様、少しは自分の生活も改善してくれよ……)
脳内に響いた間抜けなシステム音声に、アズマは小さく息を吐いて苦笑した。
残高は50,033CPに回復している。手札の力は、戦うためだけにあるのではない。こうして仲間を癒やし、万全の状態で翌日を迎えさせることも、現場監督たるアズマの重要な仕事なのだ。
「さて、俺も明日に備えて寝るとするか」
アズマは自分のベッドに潜り込み、窓から差し込む二つの月の光を見つめた。
明日はついに、異世界での初めての戦いとなる。
だが、不思議と恐怖はなかった。頼もしい仲間たちと、自分の知識を具現化する『生活改善カタログ』がある。
静かな安宿の夜は、決意を固めたアズマを優しく包み込み、ゆっくりと更けていくのだった。
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