EP 16
神気の霊薬と、ヒロインたちの修羅場
「はいっ! アズマさん、あと十セットいきますよ! 休んでいる暇はありません!」
「無理……マジで死ぬ……脚が、もう、棒を通り越してゼリーみたいになってる……」
都市ギルドの裏手にある基礎訓練場。
茜色に染まり始めた夕空の下で、アズマは大の字になって地面に倒れ伏していた。息は絶え絶えで、肺が焼けるように熱い。作業着は汗と泥でドロドロだった。
一方で、アズマを見下ろすキャルルは、額にほんのりと汗をかいている程度で、息一つ切らしていない。
アズマが『チョークライン』で提案した「射線と安全帯を区切る」という戦術眼は、確かにキャルルを驚かせた。だが、彼女は「それでも最低限の回避力とスタミナは必要です!」と、スパルタ訓練の手を一切緩めてくれなかったのだ。
「仕方ありませんね。今日の『反復横跳びからの前転回避』のメニューは、この辺りにしておきましょう」
キャルルが木剣を下ろし、ふう、と息をつく。
アズマは体を起こそうとしたが、筋肉が完全に悲鳴を上げてピクリとも動かなかった。大量の汗をかいたせいで、口の中はカラカラに渇き、軽い目眩すら覚える。
(ヤバいな、これは完全に脱水症状の入り口だ。ただの水じゃ、失われたミネラルが補給できない)
ホームセンターの真夏の屋外作業で、何度か熱中症の初期症状を味わったことのあるアズマは、すぐに脳内の『生活改善カタログ』を開いた。
(消費は1CP。残高は50,023CPだ)
虚空から取り出したのは、小さな銀色の小袋だった。
アズマは這うようにして、傍らに置いてあった『真空断熱ステンレスマグ』を引き寄せる。中にはまだ、冷たい水がたっぷりと残っていた。
小袋の封を切り、白い粉末をマグの中へサラサラと流し込む。数回揺すって粉を完全に溶かしきると、アズマはそれをキャルルへ差し出した。
「キャルル……お前も、これを飲んでくれ。俺はもう、腕を上げる気力もない」
「えっ? ただのお水じゃないんですか? 少し白く濁っているような……」
キャルルは不思議そうにウサギ耳を傾けながらマグを受け取り、ゴクリと一口飲んだ。
――ピタッ。
キャルルの動きが止まった。エメラルドグリーンの瞳が見開かれ、頭頂部のウサギ耳が、ピンッ! とアンテナのように真っ直ぐに逆立った。
「な、なんですかこれ……!?」
彼女は信じられないものを見たかのように、マグとアズマを交互に見つめた。
「甘くて、少し酸っぱくて、ほんのりと塩気がある……。ううん、味だけじゃありません! 口に含んだ瞬間、喉から胃の奥へ、まるで乾いた砂漠に水が染み込むような凄まじい速度で吸収されていきます! 筋肉の疲労が、嘘のように引いていく……!」
キャルルはゴクゴクと喉を鳴らし、あっという間に半分を飲み干してしまった。
「これは『スポーツドリンク』の粉末だよ」
アズマが苦笑しながら説明する。
「人間が汗をかくと、水分と一緒に塩分やミネラルも失われるんだ。この粉末を水に溶かすと、人間の体液とほぼ同じ『浸透圧』になるように調整されている。だから、ただの水を飲むよりも圧倒的に早く身体に吸収されて、疲労を回復させてくれるんだ」
「体液と同じ浸透圧……。失われた生体活力を、瞬時に細胞の隅々まで行き渡らせる魔法の配合……」
キャルルは空になったマグを握りしめ、ワナワナと震えだした。
「アズマさん! これはただの飲み物ではありません! 気脈と闘気を潤す『神気の霊薬』そのものです! これを戦場に持ち込めば、兵士たちの継戦能力は倍以上に跳ね上がりますよ!」
『ピンポンパンポーン♪ ヒロインの激しい疲労を瞬時に回復させた善行ボーナスで、5CPを獲得しました! なお、ルチアナ様は『開運!黄金のツボ』という露骨な詐欺広告に引っかかり、なけなしのヘソクリを溶かして現在虚無の表情で宙を見つめておりまーす♪』
(神様がとうとう悪徳商法に引っかかったぞ……!)
ツッコミ不在の神界事情にアズマが頭を抱えていると、キャルルが感極まった様子でアズマの手に自分の手を重ねてきた。
「アズマさん、本当にありがとうございます! あなたの知識と道具があれば、私はどこまででも戦えます! 私たち、最高のパートナーですね!」
「あ、ああ。俺もキャルルがいてくれて心強いよ」
距離の近いキャルルに、アズマが照れくさそうに笑い返した、その瞬間だった。
「アッ、アズマ様ァァァッ!?」
背後から、悲痛な叫び声が響き渡った。
振り返ると、両手に清潔なタオルを抱えた小豆色ジャージ姿のリーザが、ガクガクと震えながら立ち尽くしていた。彼女の足元には、ショックで取り落とされたタオルがバサリと落ちている。
「リ、リーザ? どうしたんだ?」
「ど、どうしたじゃありませんわ! 私という専属アイドルがいながら、どうしてそのウサギ耳の筋肉女と手を握り合って見つめ合っているんですの!?」
「えっ!?」
アズマが慌ててキャルルから手を離そうとしたが、キャルルの方が逆にアズマの腕をぎゅっと抱き込んでしまった。
「ちょっとリーザちゃん、筋肉女とは失礼ですね! アズマさんと私は、共に過酷な訓練の汗を流し、互いの命を預け合うパートナーとしての絆を深めていたところです!」
「パートナー!? ふざけないでくださいませ! アズマ様は私が路地裏で泥水を啜っていた時に、奇跡の甘露で救ってくださった、私のたった一人の神様……トップスポンサー兼プロデューサーですわ! 泥棒ウサギ!」
「誰が泥棒ウサギですか! だいたい、リーザちゃんはアズマさんの好意に甘えてタダ飯ばかり食べてるじゃないですか!」
バチバチバチッ!
二人の美少女の間に、目に見えない高圧電流の火花が散った。
そして次の瞬間、リーザが猛烈な勢いでアズマの左腕に飛びつき、キャルルは右腕をさらに強くホールドした。
「アズマ様は私のものですわ! 離しなさい!」
「アズマさんの護衛はこの私です! リーザちゃんこそ離れなさい!」
「ぎゃああああっ!? ちょっと待て、二人とも引っ張るな! 俺の腕がちぎれるぅぅッ!!」
アズマの悲鳴が訓練場にこだまする。
片や120馬力の打撃力を誇る月兎族の英傑。片や極貧生活で野良犬と互角の死闘を繰り広げてきた人魚族の王女(約80馬力)。
地球人レベルの脆弱な肉体しか持たないアズマにとって、二人の「軽い引っ張り合い」は、万力で両腕を引きちぎられる拷問に等しかった。
「ストップ! ストップゥゥ!! リーザ、お前にもこの霊薬を作るから! だから腕を離してくれぇ!」
「ほ、本当ですの!?」
リーザがパッと手を離し、アズマはその場に崩れ落ちた。
ゼェゼェと息を整えながら、アズマはもう一度カタログから粉末を取り出し、新しく水を入れたマグでスポーツドリンクを作ってリーザに手渡した。
「ゴクッ、ゴクッ……ぷはぁっ! なんて美味しい……! 疲れ切った喉の粘膜が潤って、声帯の細胞がピチピチと蘇るのが分かりますわ!」
エメラルドグリーンの瞳を星のように輝かせ、リーザがご機嫌でクルクルと回り始める。その様子を見て、キャルルも呆れたように、だがどこか嬉しそうにくすくすと笑い出した。
「もう……リーザちゃんは現金なんだから」
「ふふん、これでアズマ様の愛情は平等ですわね!」
「はいはい、そうですね」
やれやれと肩をすくめるアズマだったが、不思議と悪い気はしなかった。
賑やかで、少しだけ面倒くさくて、けれど決して裏切らない頼もしい仲間たち。
夕日に染まる訓練場の幾何学模様を見つめながら、アズマはそっと拳を握りしめた。
いよいよ明日は、ギルドで受注した「初心者向けの討伐依頼」へ向かう日だ。
過酷な異世界で、元便利屋の男が己の知識と日用品だけで生き抜くための、初めての戦いが始まろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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