第8話「花火」
花火というのは、始まる前が一番静かだ。空がまだ明るくて、人がざわざわしていて、でもまだ何も起きていない。その静けさの中に、これから何かが始まるという予感だけがある。あの夜の俺は、そういう気持ちで彼女を待っていた。
待ち合わせは、川沿いの橋のたもとだった。七時に、と言っていた。俺は六時五十分に着いた。人がすでに多かった。浴衣姿の人間があちこちにいた。屋台が並んで、焼きそばと綿菓子の匂いが混じっていた。川の向こうに、打ち上げ場所があるらしかった。空はまだ明るかったが、少しずつ色が落ちてきていた。夕方と夜の境目の、あの曖昧な時間。俺はスマートフォンを見た。メッセージはなかった。
七時ちょうどに、彼女が来た。白いワンピースだった。浴衣じゃなくて、でも夏の夜に合っていた。髪が少しだけ巻いてあって、いつもと違う印象だった。
「お待たせしました」と彩花は言った。
「いや、今来たところです」
「嘘っぽい」と彼女は言って、少し笑った。その笑い方が久しぶりだった。あの口元が緩む感じ。夏そのものみたいだと思った、最初の頃の笑い方。俺は少しだけ、息をついた。
川沿いを歩いた。人が多くて、自然と距離が近くなった。肩がぶつかりそうになって、少し避けて、また近くなった。
「プレゼン、終わってから気持ち楽になりました」と彩花が言った。
「そうですね。あれだけ詰めてたので」
「涼太さんのコピー、クライアントに刺さってましたよね。あの三番のやつ」
「見てたんですか」
「ちゃんと見てました」と彼女は言った。「ずっと」
俺は正面を向いたまま、答えなかった。ずっと、という言葉が、思ったより重く届いた。仕事の話として言ったのかもしれない。でも、それだけじゃない気もした。
「高橋さんのこと」と彩花が言った。俺は少し身構えた。
「食事、二回行きました」と彼女は続けた。「仕事の話もしたし、そうじゃない話もした」
「そうですか」
「でも」と彼女は言った。「なんか、違うなって思ってました」
「違う?」
「高橋さんは良い人です。有能で、紳士的で、一緒にいて楽だった」と彼女は言った。「でも、楽すぎて」
「楽すぎる?」
「なんか、緊張しないんです」と彼女は言った。「ドキドキしない、というか。居心地が良すぎて、それ以上にならない感じ」
俺は少し考えてから言った。
「俺といると、緊張するんですか」
「します」と彼女はあっさり言った。「最初から」
「それは」
「良い意味です」と彼女は言った。「たぶん」
たぶん、という言葉が少し可笑しかった。俺は笑いそうになって堪えた。
川沿いのベンチが空いていて、二人で座った。空がだいぶ暗くなっていた。人の流れがだんだん増えて、川の向こうに視線が集まり始めていた。
「怖い、って言いましたよね」と彩花が言った。「先週」
「言いました」
「まだ怖いです」と彼女は言った。正直な声だった。「近づいたら、また何かが変わるんじゃないかって」
「変わりますよ」と俺は言った。彩花が俺を見た。
「変わらない、とは言えないです。俺も完璧じゃないし、また何かやらかすかもしれない」
「……正直ですね」
「ただ」と俺は言った。「言えなかったことは、ちゃんと言うようにします。抱え込んで態度だけ変わる、というのは、もうやりたくないので」
彩花は正面を向いたまま、少しの間黙っていた。川の向こうで、何かが動いた気がした。
次の瞬間、最初の花火が上がった。音が、腹に響いた。光が夜空に広がって、川面に反射した。人の声が沸いた。彩花が空を見上げた。光の中で、横顔が浮かんだ。俺は空を見ながら、彼女のことを見ていた。花火が続いた。赤、青、金。色が変わるたびに、彼女の横顔が違う色に染まった。
「きれい」と彩花が言った。
「そうですね」と俺は言った。空じゃなくて、彼女を見ながら。
しばらくして、彩花が言った。
「私ね、前付き合ってた人に、急に連絡が来なくなったことがあって」
俺は黙って、続きを待った。
「理由も言わないで、ある日突然。問いただしたら、なんとなく気持ちが冷めたって。それだけで」
「……」
「それから近づくのが怖くなった。仲良くなりかけると、また同じことが起きるんじゃないかって」
花火が上がった。大きな音だった。
「佐藤さんが急に冷たくなったとき」と彩花は続けた。「また同じだって思いました」
「そうですよね」と俺は言った。「ごめんなさい」
「謝罪はもう受け取りました」と彼女は言った。少し笑った声で。
「そうでした」
「ただ」と彼女は言った。「先週、ちゃんと話してくれて。理由を言ってくれて」
「はい」
「それが、思ったより嬉しかったです」と彼女は言った。「ちゃんと言葉にしてくれる人なんだって」
俺は何も言わなかった。花火が続いた。音と光が、交互に来た。
「答え、出てもいいですか」と彩花が言った。俺は彼女を見た。彼女は正面を向いたまま、空を見ていた。でも口元が、少し緩んでいた。
「私も」と彼女は言った。「好きです。たぶん、ずっと前から」
花火が上がった。今夜一番大きい光が、夜空に広がった。川面が揺れて、人の声が沸いた。俺はしばらく、何も言えなかった。言葉より先に、何かがほどけた。ずっと引っかかっていたものが、全部。
「たぶん、って何ですか」と俺はようやく言った。
「たぶんは、たぶんです」と彼女は笑った。「でも、たぶんじゃないかもしれない」
「どっちですか」
「どっちでしょう」
俺は少し笑った。彼女も笑った。花火が続いた。音が夜に溶けていった。俺は隣に座ったまま、少しだけ彼女の方に近づいた。彼女は避けなかった。それだけで、十分だった。
—続く—




