第7話「言葉の在り処」
プレゼンというのは、終わった瞬間に力が抜ける。うまくいっても、うまくいかなくても。張り詰めていたものが一気に溶けていく。その瞬間に残るのは、達成感でも安堵でもなくてただの静けさだ。あの日の静けさの中で、俺はようやく言葉を見つけた。
九月の最終週、クライアントへのプレゼンが行われた。会議室は先月より広い部屋だった。クライアント側が六人、こちら側が五人。田中が全体の進行を担って、俺がコピーの説明を、彩花がビジュアルの説明をした。
プレゼンは、一時間半で終わった。クライアントの反応は良かった。コピーの方向性、ビジュアルのトーン、媒体展開の整合性。どこにも大きな指摘は入らなかった。担当者が「イメージ通りです」と言ったとき、田中が小さく息を吐いた。俺も息を吐いた。隣で彩花がスケッチブックを静かに閉じた。
会議室を出てクライアントを見送った後、田中が言った。
「お疲れ。今日は早く上がっていい。打ち上げは来週やろう」
林が「やったー」と小声で言った。田中が苦笑して先に歩いていった。廊下に俺と彩花と林が残った。
「藤原さん、今日のビジュアル説明、完璧でしたよ」と林が言った。
「ありがとうございます」と彩花は言った。「林さんのフォローも助かりました」
「いやいや」と林は笑った。それから俺を見た。「涼太さんも、コピーの説明、さすがでした」
「ありがとう」
林は「じゃあ先に上がります」と言って、足早に消えた。
廊下に俺と彩花だけが残った。彼女は資料を抱えたまま、少し疲れたように壁に背を預けた。目を閉じて、一度だけ深く息を吸った。俺はその横に立って、同じように息を吐いた。廊下は静かだった。さっきまでの緊張が、嘘みたいに消えていた。それから少し経ってから、「お疲れ様でした」と彩花が言った。目を開けて、正面を向いたまま、こちらを見ずに。
「お疲れ様でした」
少しの間、沈黙が続いた。エレベーターがある方向に、彼女が動こうとした。
「藤原さん」俺は呼んでいた。彩花が振り返った。
「少し、いいですか」
彼女は少し迷うように、俺を見た。それから小さく頷いた。
非常階段の踊り場に出た。外の空気が入ってきた。九月の終わりで、夏の熱気はもう薄かった。少しだけ秋の匂いがした。彩花は手すりのそばに立って、俺を見ていた。俺は少し間を置いてから言った。
「あの夜のこと、謝らせてください」
彼女は何も言わなかった。
「態度が変わって、理由も言わなくて、怖い思いをさせた。それは俺が悪かったです」
「……」彩香は黙ったままだ。
「高橋さんのことが気になっていました。正確に言うと——藤原さんが、高橋さんと距離を縮めていくのが嫌だった」
言葉が、出ていた。あの日の駅のホームで、メッセージを三回打って消した言葉が、今度は消えなかった。
「嫉妬していました。それを認めたくなくて、態度だけが変わった。最悪でした」
彩花はまだ黙っていた。表情が少し動いた気がしたが、読めなかった。
「言い訳じゃないです。ただ…ちゃんと言わないままにしておくのがもう嫌で」
風が来た。彩花の髪が少し揺れた。
「怒っていいです」と俺は言った。「怖い思いをさせたのは事実なので」
お互い何も言わず、しばらく沈黙が続いた。遠くで車の音がした。空は夕方に差し掛かっていて、少しだけ赤みがかっていた。
「怒ってないです」と彩花は言った。静かな声だった。
「怒ってない、というか」と彼女は続けた。「怒る気力もなくなってました、正直」
「そうですよね」俺は少し、肩を落とす。
「ただ」と彼女は言った。視線が、少し動いた。「嫉妬してたって、今聞いて」
「はい」
「それって、つまり」
「好きです」と俺は言った。言ってから少し驚いた。自分でも、こんなにあっさり出るとは思っていなかった。
彩花が、俺を見た。表情が固まっていた。でも、怒りじゃなかった。
「……急ですね」と彼女は言った。
「急じゃないですよ」と俺は言った。「ずっと言えなかっただけで」
「それは」と彼女は言いかけて止まった。また風が来た。今度は少し冷たかった。
「私も」と彼女は言った。小さな声だった。「怖かったけど、それだけじゃなかったです」
「怖かったけど?」
「近づきたかった、とも思ってました。佐藤さんに」
俺は何も言わなかった。言葉より先に、何かが動いた気がした。胸のあたりで、ずっと引っかかっていたものが、少しだけほどけていく感じ。
「ただ」と彼女は続けた。「まだ、怖いです。正直に言うと」
「わかります」
「わかります、って」と彼女は少し苦笑した。「簡単に言いますね」
「簡単じゃないですよ」と俺は言った。「ただ、怖くて当然だと思っています。俺が怖い思いをさせてしまったので」
「……」彩香は黙ったまま、目線を逸らす。
「だから、急かさないです。答えも、今じゃなくていい」
彩花は少しの間、俺を見ていた。それから視線を空に向けた。夕空がじわじわと色を変えていた。少しの間沈黙が流れたが、それを破ったのは彩香だった。
「花火大会、来週ですよね」と彼女が言った。
「そうですね」
「会社の近くの」
「はい」
「来ますか」と彼女は言った。俺を見て。俺は少し間を置いた。
「行きます」
彼女は小さく頷いた。それだけだった。でも、それで十分だった。
非常階段から廊下に戻るとき、俺は少しだけ息をついた。言えた、という感覚があった。うまくいったかどうかは、まだわからなかった。でも、消さなかった。今度は。
エレベーターホールで彩花と並んだ。ボタンを押して、扉が開くのを待った。
「来週」と彼女が言った。
「来週」と俺は言った。
扉が開いた。二人で乗り込んで閉まった。鏡の中に俺たちが映っていた。いつもと同じエレベーター、あの時と同じ並び方。でも、沈黙の質がまた変わっていた。
今度は、何かが始まる前の静けさだった。
—続く—




