第6話「距離の形」
疎遠というのは、突然来るものじゃない。じわじわと気づかないうちに、空白が積み上がっていく。気づいたときには、もう埋め方がわからなくなっている。
九月に入っていた。プロジェクトは最終フェーズに差し掛かっていた。入稿まで三週間を切って、細かい修正と確認が続いていた。仕事の上では、彩花と話す機会はまだあった。ただそれだけだった。
打ち合わせで同じ部屋にいても、必要なことだけを話して、終わったら各自の作業に戻った。エレベーターで一緒になっても、お疲れ様ですで終わった。ランチを一緒に、という空気はもうなかった。彼女から距離を置きたいと言ったのだから当然だった。
わかっていた。ただ、わかっていることと、慣れることは別の話だった。
ある日の昼休み、林が給湯室に来た。
「涼太さん、最近ランチどうしてるんですか」
「適当にすましている」
「一人で食事、ですか」
「そうです」
林はコーヒーを淹れながら、少し間を置いた。
「藤原さん、最近高橋さんとランチ行ってるみたいですよ」
俺は手を止めなかった。
「そうですか」
「二回か三回、見かけました。近くのイタリアンで」
「仕事の話じゃないですか」
「かもしれないですけど」と林は言った。「なんか、楽しそうでしたよ。二人とも」
俺は何も言わなかった。コーヒーを持って給湯室を出た。自席に戻ってモニターを開いた。画面の文字が、しばらく頭に入ってこなかった。楽しそうだったという言葉が、頭の中で繰り返した。嫉妬だとわかっていた。後悔だともわかっていた。でも、どちらも今さら言葉にしても意味がなかった。あの夜、俺が彼女を傷つけた。それは変わらない事実だった。
木曜日の夕方、資料を届けるために彩花のデスクに寄った。彼女はモニターに向かって作業していた。スケッチブックが隣に開いていて、ペンが走った跡が残っていた。
「修正後のコピー案です」
「ありがとうございます」と彼女は言った。モニターから目を離さないまま。
俺はそのまま立っていた。一秒か、二秒か。何か言おうと思った。あの夜のこと、とか。説明できなかったこと、とか。本当は、とか。でも言葉が出てくる前に、彼女がページをめくった。作業を続けている。
「他に何かありますか」と彼女が言った。事務的な声だった。悪意はなかった。ただ、それだけだった。
「いや、以上です」
俺は自分のデスクに戻った。椅子に座って、モニターを開いてまた仕事を始めた。言えなかった言葉が、胃のあたりに沈んでいった。
翌週の月曜日。昼過ぎに高橋が来た。いつも通り田中と話して、途中から彩花を交えた確認になった。俺は別の作業をしながら、同じ部屋にいた。二人の会話が遠くで続いていた。高橋が何かを言うたびに、彩花が笑った。声は聞こえなかったが、表情でわかった。あの、口元が少し緩む感じ。俺が最初に見たとき、夏そのものみたいだと思った笑い方。俺はモニターを見ていた。画面の中のコピー案を三回読んで、三回とも頭に入らなかった。
高橋は帰り際に、彩花に何かを言った。彩花が頷いた。また食事でも誘ったのかもしれない。わからなかった。でも、たぶんそうだった。俺には確認する権利がなかった。
その日の帰り、俺はホームのベンチに座ってスマートフォンを開いた。彩花のトーク画面を開いた。最後のメッセージは、仕事の連絡だった。もう三週間前のことだ。何か打とうとした。
「あの夜のこと」と入力して、消した。
「説明させてほしい」と入力して、消した。
「少し話せますか」と入力して、また消した。
何を言っても、言い訳になる気がした。あの夜、彼女が必要としていたタイミングで、俺は何も言えなかった。今さら言葉を並べても、それは自分のためでしかない気がした。
画面を閉じた。電車が来た。乗り込んだ直後にドアが閉まった。窓の外に夜の街が流れていく。九月になってもまだ少し蒸し暑かった。夏がしぶとく残っていた。彩花の顔が、頭から離れなかった。笑っているときの顔も、あの夜傷ついたときの顔も、全部まだそこにあった。
踏み出したかった。でも踏み出す言葉が、まだ見つかっていなかった。
—続く—




