第5話「夏の夜の言葉」
あの夜のことは、何度も思い返した。どこで止められたか、とか。何を言うべきだったか、とか。でも結局、あの瞬間の俺には、止める言葉が見つからなかった。
八月の終わり、仕事が少し早く片付いた日だった。田中から「今日はもう上がっていい」と言われて、俺と彩花は同じタイミングで荷物をまとめた。エレベーターで一緒になって、ビルを出た。
外に出た瞬間、空気が違った。遠くから祭囃子が聞こえた。どこかの神社の夏祭りだろう。屋台の匂いが風に乗って流れてきた。焼きそばと、綿菓子と、夏の夜の匂いが混じった、あの感じ。
「祭りやってるんですね」と彩花が言った。
「そうみたいですね」
駅とは反対方向から人の流れが来ていた。浴衣姿の人間が何人も通り過ぎた。俺たちは駅の方向へ歩き始めた。並んで歩くのは、自然な流れだった。あの日以来少し距離があったけれど、今日はなんとなくそのまま歩いていた。
「最近、ちゃんと話せてなかったですよね」と彩花が言った。
「そうですね」
「あの作業の日のこと、気にしてました」
「俺も」と俺は言った。「変なこと言いました」
「変、というか」と彼女は少し考えた。「なんで、そう思ったのかなって」
俺は答えなかった。祭囃子が少し大きくなった。風向きが変わったのかもしれない。
「佐藤さんって、高橋さんと仲いいんですか」と彩花が言った。聞くというより、確認するような言い方だった。
「いえ、別に」
「別に、って」
「仕事の関係です。それ以上でも以下でもない」
「私が聞いてるのはそういうことじゃなくて」と彼女は言った。声が少し硬くなっていた。「高橋さんのことを、どう思ってるのかなって」
俺は歩きながら正面を見ていた。言葉が喉のあたりで詰まっていた。
「別に、どうも思ってないです」
「嘘じゃないですか」
彩花が立ち止まった。俺も止まった。振り返ると、彼女は真っすぐ俺を見ていた。夜の街灯の下で、表情がはっきり見えた。困惑と、それから——少しの怒り。
「佐藤さん、あの日から態度が変わってる。自分でわかってますよね」
「わかってます」
「じゃあなんで」
「……」
「なんで、そうなるんですか」
風が来た。遠くで花火が一発上がって、人の声が沸いた。俺は、言うつもりじゃなかった言葉を言った。
「高橋さんと、付き合ってるんですか」
沈黙が落ちた。彩花の表情が変わった。怒りじゃなくて、もっと別の何かに。
「……付き合ってないです」と彼女は言った。静かな声だった。「なんでそういうことを聞くんですか」
「気になったので」
「気になった」と彼女は繰り返した。「佐藤さんは、私のことを何だと思ってるんですか」
俺は答えられなかった。自分でもわからなかった。いや、わかっていた。ただ、言葉にする準備ができていなかった。
「私ね」と彩花は言った。声が少し震えていた。「近づいてくる人が怖いんです。仲良くなってきたと思ったら、急に態度が変わって——それが、一番怖い」
「藤原さん——」
「佐藤さんもそうじゃないですか」と彼女は言った。「最近、急に冷たくなった。理由も言わないで。それって」
彼女は言葉を止めた。夜の風が二人の間を通り過ぎた。
「それって、すごく怖かったです」
俺は、何も言えなかった。謝ろうと思った。説明しようとも思った。でも言葉が出てくる前に彼女は続けた。
「好きとか嫌いとか、そういう話じゃなくて。ただ、わからないのが一番つらいです」
「……俺は」
「もういいです」と彼女は言った。静かな声だった。怒鳴るわけでも、泣くわけでもなかった。ただ、決めたような声だった。
「少し、距離を置きませんか。仕事は仕事でちゃんとやります。でも、それ以外は」
俺は頷けなかった。彼女は一度だけ俺を見て、それから背を向けた。
夏祭りの雑踏が、俺たちの間を埋めていった。俺はその場に立ったまま、彼女の後ろ姿が人の流れに消えていくのを見ていた。謝ろうと思ったとき、彼女はもう背を向けていた。
駅のホームで俺は一人だった。電車を一本見送った。彩花が言った言葉が、頭の中で繰り返していた。近づいてくる人が怖い。急に態度が変わるのが怖い。わからないのが一番つらい。全部、俺がやったことだった。嫉妬で冷たくなって、理由も言わないで、彼女を怖がらせた。それだけじゃない。本当のことを言えば良かった。気になっている、と。高橋のことが頭から離れない、と。格好悪くても、不器用でも、それを言えば良かった。でも言えなかった。言葉にする前に、全部を抱え込んで、態度だけが変わっていた。
次の電車が来た。俺は乗り込みながら窓の外を見た。夜の街が流れていった。どこかでまだ、祭囃子が鳴っている気がした。夏はまだ終わっていなかった。
—続く—




