表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夏色の君に  作者: 空野 翔


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/9

第5話「夏の夜の言葉」

 あの夜のことは、何度も思い返した。どこで止められたか、とか。何を言うべきだったか、とか。でも結局、あの瞬間の俺には、止める言葉が見つからなかった。



 八月の終わり、仕事が少し早く片付いた日だった。田中から「今日はもう上がっていい」と言われて、俺と彩花は同じタイミングで荷物をまとめた。エレベーターで一緒になって、ビルを出た。


 外に出た瞬間、空気が違った。遠くから祭囃子が聞こえた。どこかの神社の夏祭りだろう。屋台の匂いが風に乗って流れてきた。焼きそばと、綿菓子と、夏の夜の匂いが混じった、あの感じ。

「祭りやってるんですね」と彩花が言った。

「そうみたいですね」

駅とは反対方向から人の流れが来ていた。浴衣姿の人間が何人も通り過ぎた。俺たちは駅の方向へ歩き始めた。並んで歩くのは、自然な流れだった。あの日以来少し距離があったけれど、今日はなんとなくそのまま歩いていた。

「最近、ちゃんと話せてなかったですよね」と彩花が言った。

「そうですね」

「あの作業の日のこと、気にしてました」

「俺も」と俺は言った。「変なこと言いました」

「変、というか」と彼女は少し考えた。「なんで、そう思ったのかなって」

俺は答えなかった。祭囃子が少し大きくなった。風向きが変わったのかもしれない。

「佐藤さんって、高橋さんと仲いいんですか」と彩花が言った。聞くというより、確認するような言い方だった。

「いえ、別に」

「別に、って」

「仕事の関係です。それ以上でも以下でもない」

「私が聞いてるのはそういうことじゃなくて」と彼女は言った。声が少し硬くなっていた。「高橋さんのことを、どう思ってるのかなって」

俺は歩きながら正面を見ていた。言葉が喉のあたりで詰まっていた。

「別に、どうも思ってないです」

「嘘じゃないですか」

彩花が立ち止まった。俺も止まった。振り返ると、彼女は真っすぐ俺を見ていた。夜の街灯の下で、表情がはっきり見えた。困惑と、それから——少しの怒り。

「佐藤さん、あの日から態度が変わってる。自分でわかってますよね」

「わかってます」

「じゃあなんで」

「……」

「なんで、そうなるんですか」

風が来た。遠くで花火が一発上がって、人の声が沸いた。俺は、言うつもりじゃなかった言葉を言った。

「高橋さんと、付き合ってるんですか」

沈黙が落ちた。彩花の表情が変わった。怒りじゃなくて、もっと別の何かに。

「……付き合ってないです」と彼女は言った。静かな声だった。「なんでそういうことを聞くんですか」

「気になったので」

「気になった」と彼女は繰り返した。「佐藤さんは、私のことを何だと思ってるんですか」

俺は答えられなかった。自分でもわからなかった。いや、わかっていた。ただ、言葉にする準備ができていなかった。

「私ね」と彩花は言った。声が少し震えていた。「近づいてくる人が怖いんです。仲良くなってきたと思ったら、急に態度が変わって——それが、一番怖い」

「藤原さん——」

「佐藤さんもそうじゃないですか」と彼女は言った。「最近、急に冷たくなった。理由も言わないで。それって」

彼女は言葉を止めた。夜の風が二人の間を通り過ぎた。

「それって、すごく怖かったです」

俺は、何も言えなかった。謝ろうと思った。説明しようとも思った。でも言葉が出てくる前に彼女は続けた。

「好きとか嫌いとか、そういう話じゃなくて。ただ、わからないのが一番つらいです」

「……俺は」

「もういいです」と彼女は言った。静かな声だった。怒鳴るわけでも、泣くわけでもなかった。ただ、決めたような声だった。

「少し、距離を置きませんか。仕事は仕事でちゃんとやります。でも、それ以外は」

俺は頷けなかった。彼女は一度だけ俺を見て、それから背を向けた。

夏祭りの雑踏が、俺たちの間を埋めていった。俺はその場に立ったまま、彼女の後ろ姿が人の流れに消えていくのを見ていた。謝ろうと思ったとき、彼女はもう背を向けていた。



 駅のホームで俺は一人だった。電車を一本見送った。彩花が言った言葉が、頭の中で繰り返していた。近づいてくる人が怖い。急に態度が変わるのが怖い。わからないのが一番つらい。全部、俺がやったことだった。嫉妬で冷たくなって、理由も言わないで、彼女を怖がらせた。それだけじゃない。本当のことを言えば良かった。気になっている、と。高橋のことが頭から離れない、と。格好悪くても、不器用でも、それを言えば良かった。でも言えなかった。言葉にする前に、全部を抱え込んで、態度だけが変わっていた。

 次の電車が来た。俺は乗り込みながら窓の外を見た。夜の街が流れていった。どこかでまだ、祭囃子が鳴っている気がした。夏はまだ終わっていなかった。


—続く—


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ