第4話「モヤの正体」
嫉妬というのは、厄介な感情だ。怒りや悲しみは、少なくとも原因がわかる。でも嫉妬は、自分でも気づかないうちに積み上がっていて、気づいたときにはもう手がつけられなくなっている。
俺がそれを自覚したのは、ずいぶん遅かった。
八月も中旬になっていた。プロジェクトは順調に進んでいた。彩花の初稿は十二日に上がってきて、修正も一回で収まった。俺のコピーも三本が採用されて、全体の方向性が固まりつつあった。仕事の上では、何も問題なかった。
問題は、仕事の外側にあった。高橋が来る頻度が増えていた。
最初は週一回程度だったのが、いつの間にか週に二、三回になっていた。確認事項があるとか、追加の相談があるとか、理由はそのたびに違った。でも来るたびに、彩花と話す時間が生まれていた。俺はそれを、同じ部屋で見ていた。仕事の話だとわかっていた。それだけだとも、思っていた。でも、思う回数がまた増えていた。
ある日の午後、給湯室で林と鉢合わせた。
「涼太さん、最近ちょっと顔怖くないですか」
「そうですか」
「なんか、考えてるときの顔が、いつもより三割増しで険しい」
「仕事が詰まってるだけです」
「ふーん」と林は言った。「高橋さんがよく来るようになってからですよね、なんとなく」
俺はコーヒーを注ぎながら、答えなかった。
「藤原さんと仲良さそうですよね、高橋さんと」
「仕事の関係ですから」
「そうですけど」と林は言った。「なんか、仕事以上の感じもしません?」
「しません」
林は少し笑って、「そうですか」と言った。それ以上は追ってこなかった。賢いやつだと思った。そして、少し腹が立った。自分に。
その週の木曜日、彩花と二人で作業する時間があった。確認項目のフォーマットを最終調整する作業で、小会議室を使った。向かい合わせに座って、モニターを共有しながら進めた。
最初は普通だった。いつも通り、波長が合う感じで進んでいた。彼女が指摘して、俺が調整して、また彼女が確認する。言葉が少なくても、作業が進んだ。途中で、彼女のスマートフォンが鳴った。彼女は画面を一瞬見て、「すみません、少し待ってもらえますか」と言って、部屋を出た。俺は作業を続けた。
五分くらいして、彼女が戻ってきた。
「すみません、お待たせして」
「大丈夫です」
彼女は席に座って、モニターに目を戻した。でも、口元が少し緩んでいた。電話の前と、何かが違った。
「高橋さんですか」言葉が出ていた。彩花が顔を上げた。俺も少し驚いた。声に出すつもりじゃなかった。
「え?」
「いや」と俺は言った。「なんでもないです」
「……高橋さんでしたけど」と彼女はゆっくり言った。「なんで知ってるんですか」
「知ってるわけじゃないです。なんとなく、そう思っただけです」
沈黙が落ちた。さっきまでと違う種類の沈黙だった。
「佐藤さん」と彼女が言った。声が少し低くなっていた。「なんか最近、態度が違う気がするんですけど」
「そうですか」
「そうですか、じゃなくて」と彼女は言った。「なんか、冷たくなってる。気のせいですか」
俺は画面を見たまま、答えなかった。
「気のせいじゃないですよね」
彼女の声に困惑と、それから少しの傷ついた感じがあった。俺はそれに気づいた。気づいた上で、うまく言葉が出なかった。
「仕事が立て込んでるだけです」
「……そうですか」彼女はモニターに視線を戻した。
作業は再開したが、さっきまでの空気は戻らなかった。言葉は続いたが、波長が合う感じは消えていた。
俺は自分が言いたかったことを、ずっと探していた。でも見つからないまま、その日の作業は終わった。
帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、俺はさっきの自分を振り返った。なんであんなことを言ったのか。「高橋ですか」なんて。答えは、わかっていた。ただ、認めるのが面倒だった。嫉妬、という言葉が、頭の中に浮かんだ。浮かんで、沈んで、また浮かんできた。
電車が来た。人の流れに乗って乗り込みながら、俺は窓の外を見た。夜の線路が後ろに流れていった。彩花の顔が、頭から離れなかった。傷ついた、あの表情が。俺がそれを作ったという事実が。
—続く—




