第3話「晴れた日の影」
高橋翔太という人間に、最初から警戒していたわけじゃない。むしろ、最初の印象は悪くなかった。それが余計に始末が悪かった。
八月に入って、プロジェクトは次のフェーズに移っていた。クリスマスキャンペーンのビジュアル方針が固まり、今度は媒体ごとの展開を詰める段階だった。SNS、屋外広告、店頭POP。それぞれに微妙に違うサイズと文脈がある。彩花はその調整を一手に引き受けていて、打ち合わせのたびにスケッチブックのページが増えていた。
俺は俺で、コピーのバリエーションを十数本作っていた。そのうち使われるのは二、三本だとわかっていても、選択肢は多い方がいい。クライアントが「これじゃない」と言えるものがあってこそ、「これだ」が生きる。
「涼太さん、このキャッチ、三番と七番が似てませんか」
林がプリントアウトを持って来た。
「似てるけど、微妙に違います。三番は『待つ気持ち』で、七番は『迎える気持ち』です」
「……言われてみれば」
「クライアントがどっちの方向を好むか、確認してみてください」
林は頷いて戻っていった。俺はモニターに向き直った。廊下の方から、彩花の声が聞こえた気がした。打ち合わせから戻ってきたのかもしれない。振り返りはしなかった。
その日の午後、会議室に見慣れない人間がいた。三十代前半くらいだった。スーツが体に合っていて、無駄のない着こなしだった。彼は背が高く、部屋に入った瞬間に空間の重心が少し動く感じがした。クライアント企業の関連会社の代表だと、田中が紹介した。
「高橋翔太です。今回のキャンペーン、うちのスペースも一部使っていただくことになりまして」
声が落ち着いていた。大きくもなく、小さくもない。聞き取りやすい声というのは、意識して作れるものじゃない。たぶん地のものだった。
「佐藤です。コピー担当で」
「藤原です。デザインを」
彩花が隣で言った。高橋は二人を見て、軽く頷いた。品のある動作だった。
会議は一時間ほどで終わった。高橋の発言は多くなかった。でも、発言すべきタイミングで、すべき量だけ言った。余計なことを言わない人間というのは、たいてい余計なことを考えていない人間か、余計なことを言わないと決めている人間かのどちらかだ。高橋は明らかに後者だった。
会議が終わって、メンバーが動き始めた。俺は資料をまとめながら、さりげなく室内を見ていた。高橋が彩花に話しかけていた。
「デザインのスケッチ、先ほど少し見えたんですが、屋外広告の余白の使い方、面白いですね」
「あ、ありがとうございます」と彩花は言った。「まだ途中なんですけど」
「余白で語る、という感じがして。好きな方向性です」
彩花が少し笑った。俺は視線を資料に戻した。特に何も思わなかった。本当に、そのときは。
翌日も高橋は、プロジェクトの関係で顔を出した。確認事項があるとかで、午後から来た。田中と話して、途中で彩花を交えた打ち合わせになった。俺は別の作業をしながら、同じ部屋にいた。高橋と彩花が話しているのが、視界の端に入っていた。
彩花はいつものスケッチブックを開いて、何かを説明していた。高橋はそれを覗き込みながら時々頷いた。距離が近いとは言い切れないが、遠くもなかった。
仕事の話だ、と思った。それだけだ、と思った。でも、思った回数が多かった。
夕方、エレベーターホールで彩花と鉢合わせた。いつもと同じだった。でも彼女の表情が少し違った。悪い意味じゃない。ただ、なんというか——少し浮き立っているような。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
扉が開くのを待ちながら、彼女が言った。
「高橋さんって、すごいですね」
「そうですね」
「なんか、こちらの仕事をちゃんと見てくれてる感じがして。あの規模の会社の人なのに、細かいところまで」
「有能な人は、細部を見ますよね」
「佐藤さんもそうじゃないですか」と彼女は言った。俺は何も言わなかった。
「あ、褒めてます」と彼女は笑った。「一応」
「わかってます」
エレベーターが来た。乗り込んで、扉が閉まった。俺は鏡の中に映る、自分の顔を見た。特に何も変わっていない顔だった。
——でも、さっきから胸のどこかに、小さな引っかかりがあった。
言葉にできなかった。ただ、確かにあった。
ビルを出ると、高橋が外にいた。彩花と話していた。並んで立って、どちらも帰り支度を終えた格好だった。
「もしよかったら、このあと少し。近くに良い店があるので」高橋の声が、夕方の風の中に混じった。強引じゃなかった。誘うというより、提案するような言い方だった。彩花は少し迷うように、視線を動かした。
俺はそのまま、二人の横を通り過ぎた。振り返らなかった。駅までの道を、いつもより少し早く歩いた。胸の引っかかりが、さっきより少しだけ大きくなっていた。それが何なのか、まだわからないふりをしていた。
—続く—




