第2話「波長」
藤原彩花と仕事をするようになって最初に気づいたのは、彼女が「待てる人間」だということだった。打ち合わせの場で、すぐに意見を出す人間がいる。とにかく何かを言わなければという焦りで、まだ熟していない言葉を並べる。悪気はないし、熱量があるのはわかる。ただそういう言葉は大抵、あとで修正が必要になる。
彼女は違った。考えている間、黙っていられる。その沈黙が焦りじゃなくて、思考から来ているのがなんとなくわかった。
翌週の打ち合わせは、午前中から始まった。プレゼンを終えたクライアント側との顔合わせで、今後の制作フローを確認する場だった。俺は進行役として出て、彩花はデザイン側の窓口として同席した。会議室は先週と同じ部屋だったが、メンバーが増えていた。クライアント側が三人、こちら側が四人。テーブルが少し狭く感じた。
「スケジュールについてですが」と俺は言った。「ビジュアル案の初稿を八月十日までにいただけると、修正の余裕が生まれます」
「十日は少し厳しいですね」とクライアントの担当が言った。「十五日ではどうでしょう」
「十五日だと、印刷入稿まで三日しかありません。修正が一回でも入ると、間に合わなくなります」
担当が渋い顔をした。俺は資料のページをめくった。
「十二日ではどうでしょう。初稿の段階では細部より方向性の確認に絞れば、修正も一回で収められます。確認項目をこちらで整理しておきます」
少し間があった。
「……それなら」と担当が言った。「十二日で調整してみます」
会議が次の議題に移った。
テーブルの向かい側で、彩花がスケッチブックに何かを書いていた。顔は下を向いていたが、口元が少しだけ動いた気がした。何を言ったのかは聞こえなかった。
昼前に会議が終わって、クライアント側が帰っていった。残ったメンバーで簡単に確認をして、解散になった。林はそのまま別の打ち合わせに向かった。上司の田中は、電話が入って廊下に出た。会議室に、俺と彩花だけが残った。彼女は、資料を鞄に入れながら言った。
「十二日って、結構ギリギリですよね」
「そうですね」
「でも十五日だと、本当に無理でしたよね」
「ええ、無理です」
「交渉、うまいですね」と彼女は言った。「押してるわけじゃないのに、気づいたら相手が動いてる」
「落とし所を先に決めてあっただけです」
「それが難しいんですよ」
俺は少し考えてから言った。
「デザインの初稿、方向性の確認に絞るって言いましたけど、実際に整理できますか。確認項目として」
「やってみます」と彼女は言った。「やった方が私も楽なので」
「じゃあ、フォーマットだけもこちらで作ります。中身は相談しながら」
「ありがとうございます」彼女はトートバッグを肩にかけた。それから少し迷うように、こう言った。
「あの、お昼ってもう決まってますか」
近くのビルの地下に、サンドイッチの店があった。彩花が「たまに来る」と言っていた店で、カウンター席が窓に向いていた。地下なのに窓があって、外からの光が少しだけ入ってくる。俺はツナとアボカドのサンドイッチを頼んで、彼女はBLTを頼んだ。
「佐藤さんって、広告の仕事長いんですか」と彼女が言った。
「五年です」
「ずっとコピー系ですか」
「最初の二年は営業寄りでした。途中からこっちに」
「なんで変わったんですか」
俺は少し考えた。
「言葉で何かを動かす方が、向いてる気がしたので」
「動かすって、人を?」
「人…というか。判断とか、気持ちとか」
彼女は少しの間、サンドイッチを持ったまま考えていた。
「デザインも似てるかもしれない」と彼女は言った。「色とか形で、何かを決めさせる仕事だから」
「無意識に働きかける、という意味では」
「そうそう」と彼女は頷いた。「お客さんが気づかないうちに、手が伸びてるみたいな」
「それが成功してる状態ですよね」
「でも成功してるかどうか。そういうのって、なかなかわからないじゃないですか。数字で出るときもあるけど、出ないときもあるし」
「出ないときの方が多いですよね」
「多い」と彼女は言って、少し笑った。「だからなんか、虚しくなることもあって」
虚しい、という言葉が、思ったより重く聞こえた。俺は何も言わなかった。ただ続きを待った。
「でも」と彼女は続けた。「たまに、ちゃんと届いたなって思える瞬間があって。そのためにやってる感じがします」
「届いた、ってどういうとき?」
「うーん」と彼女は窓の方を見た。「言葉にするのが難しいんですけど。誰かが何かを選ぶ瞬間に、自分の仕事が少し混じってる気がするとき、かな」
俺はその言葉を、静かに受け取った。うまい言い方だと思った。でもそれを口にするのは、なんとなく違う気がして黙っていた。
地下の窓から足元だけが見えた。サンダル、スニーカー、革靴。夏の人たちが、次々に通り過ぎていく。
店を出ると、外の熱気が一気に来た。「暑い」と彩花が言った。それだけだったけど、思わず少し笑ってしまった。
「何ですか」と彼女が言った。
「いや」
「笑いましたよね、今」
「暑い、って言い方が正直だったので」
彼女は少し考えてから、「そうですか」と言って、また歩き出した。並んでビルに戻る道、二人分の影が地面に伸びていた。真昼の太陽が高くて、影は短かった。
エレベーターのボタンを押しながら、彼女が言った。
「また打ち合わせのとき、確認項目の件、相談させてください」
「もちろん」
「よろしくお願いします」と彼女は言った。
扉が開いて、二人で乗り込んだ。先週と同じエレベーターだった。でも今日は、沈黙が違う気がした。何もない沈黙じゃなくて、何かが少しだけ積み上がった後の、静かさだった。彼女は正面を向いたまま、トートバッグの持ち手を直した。俺も正面を向いたまま、特に何も言わなかった。
それで十分だった。
—続く—




