第1話「七月のクリスマス」
彼女と最後に話したのは、八月の夜だった。言ったことは覚えている。言い方も覚えている。彼女の顔がどう変わったかも。謝ろうと思ったとき、彼女はもう背を向けていた。夏祭りの雑踏が、俺たちの間を埋めていった。
話は、一ヶ月前に戻る。七月の終わり、俺たちは会議室でクリスマスの話をしていた。エアコンが効きすぎた部屋に、外の熱気はまったく届かない。窓の外では夏が本気を出しているのに、テーブルの上には赤と緑のカラーチップが並んでいた。十一月に間に合わせるためのスケジュール、ターゲット層の購買心理、サンタクロースの赤をどの彩度で打ち出すか。季節を先取りするのが仕事だとわかっていても、今日みたいに暑い日は少しだけ間抜けな気分になる。
「涼太さん、このコピーどう思います?」
隣に座った同僚の林がモニターを向けてくる。画面には試作のバナー広告。〈今年のクリスマスは、特別な夜に〉。
「悪くない。ただ、『特別』って言葉は使いすぎると空洞化する。もう少し具体的なシーンを想起させた方がいい」
「さすが」と林は笑った。「即答じゃないですか」
褒められ慣れているわけじゃない。ただこういう判断は感覚よりも、経験でやるものだと思っている。五年間この仕事をやっていれば、良いコピーと惜しいコピーの違いくらいは体で覚える。
午後三時。会議は続いていた。クライアントのプレゼンは来週だ。デザインの最終確認、印刷物の仕様調整、あとは——
ドアが開いた。
「遅くなってすみません」その声が部屋の空気を変えた。そんな大げさなことを思ったのは、後になってからだ。そのときの俺は、ただ顔を見上げたくらいだ。
スーツではなかった。白いシャツに、落ち着いた色のパンツ。手にはトートバッグと、丸めたスケッチブック。クライアント企業から来たデザイナーだと、会議の前に聞いていた。
「藤原です。デザイン担当で」
彼女は軽く頭を下げて、空いている席を探した。一瞬だけ俺と目が合って、また逸れた。それだけだった。
本当に、それだけのはずだった。
プレゼンが再開する。彼女はスケッチブックを開いて、会議の流れをメモしながら聞いていた。発言は少ない。でも資料のどこかを見るとき、目の動きが速い。情報の拾い方が、慣れている人間のそれだった。
「このビジュアルイメージ、もう少し暖色に寄せた方がいいと思うんですが」
彼女が口を開いたのは、議論が煮詰まり始めた頃だった。
「今の方向性だと、少し冷たい印象になります。クリスマスって、あたたかさを売る季節じゃないですか。寒い夜に、あたたかい場所がある、っていう」
静かな声だった。主張というより、確認するような言い方。でも会議室の空気が動いた。
「……たしかに」と上司の田中が言った。「そっちの方向で考えてみよう」
林が俺を見た。俺は少しだけ頷いた。彼女はスケッチブックに何かを書き足して、また黙った。窓の外に目をやると、ビルの隙間から入道雲が見えた。夏の真ん中で、俺たちはクリスマスを作っている。なんか変な仕事だな、と思った。
会議が終わったのは、五時を少し過ぎた頃だった。資料をまとめていると、林が隣でこっそり言った。
「藤原さん、良かったですね。あのひと言で流れ変わったじゃないですか」
「そうだな」
「涼太さんも同じこと思ってたんじゃないですか、暖色の件」
「思ってた」
「じゃあ言えばよかったのに」
俺は何も言わなかった。林はそういうやつだ。悪気はない。ただ、思ったことをそのまま口にする。俺が黙っていた理由は単純だ。会議の流れが煮詰まったとき、正解を持っている人間が他にいるなら、そちらに任せればいい。手柄より、仕事が前に進む方が大事だ。でもそれを説明するのも面倒だったので、ファイルを閉じて席を立った。
エレベーターホールに出ると、彼女が一人で立っていた。藤原彩花がスケッチブックをトートバッグに押し込みながら、下のボタンを押したところだった。俺が近づくと、彼女は少し驚いたように顔を上げた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
それだけでまた沈黙になった。エレベーターが来るまでの時間が、妙に長く感じた。数字が一つずつ上がっていくのを、二人で眺めていた。
「さっきのコピーの話」と彼女が言った。「『特別』って言葉の件、私もそう思ってたんですよね」
俺は少し驚いて彼女を見た。
「聞いてたんですか?」
「会議の最初から、一応」と彼女は言った。「あの指摘、正しいと思います。『特別な夜』って言われると、逆に特別じゃなくなる気がして」
「言語化するのが難しいんですよね、あの感覚」
「そうなんです」と彼女は頷いた。「なんか、嬉しかったです。同じこと思ってる人がいて」
エレベーターが開いた。二人で乗り込んで、扉が閉まった。鏡張りのドアに、俺たちが並んで映っていた。彼女は正面を向いたまま、スケッチブックの端を少し直した。横顔が蛍光灯の光の中でも妙に澄んで見えた。
「デザインって、言葉と似てるなって最近思うんですよ」と彼女は続けた。「言いすぎると伝わらなくて、削りすぎても伝わらない」
「そうですね」
「佐藤さんは、どっちのタイプですか。言いすぎる方と、削る方」
少し考えた。
「削る方だと思います。たぶん」
「私も」と彼女は言った。「だから余白が大事で、でも余白って怖くて」
そこで扉が開いた。一階のロビー。彼女は「じゃあ、また来週」と言って、先に出た。俺はワンテンポ遅れて後に続きながら、さっきの言葉を反芻した。
——余白って怖くて。
何気ない言葉だった。でも引っかかった。自動ドアの向こうで、夏の熱気が待っていた。夕方になっても気温は下がっていない。彼女はトートバッグを肩にかけ直して、駅の方向へ歩いていった。白いシャツの後ろ姿が、人の流れに混じって消えていく。俺はしばらくその場に立っていた。特に意味はない。ただ少しだけ——動き出すのが、惜しい気がした。
—続く—




