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夏色の君に  作者: 空野 翔


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9/9

第9話「夏の続き」

 夏が終わった、とはっきり感じたのは、十月に入ってからだった。朝の空気が変わって、駅のホームで半袖だと少し寒くなって、そういう細かいことが積み重なって、ああ終わったんだな、と思った。でもあの夏に起きたことは、終わっていなかった。

むしろ、始まっていた。



 花火の夜から、十日が経っていた。仕事は続いていた。クリスマスキャンペーンの入稿が終わって、プロジェクトは次のフェーズに移っていた。彩花との仕事上のやりとりも、以前と変わらず続いていた。ただ、変わったことがあった。

 エレベーターで一緒になったとき、お疲れ様ですだけで終わらなくなった。廊下で鉢合わせたとき、どちらかが何かを言うようになった。小さなことだった。でも小さなことが、確かに積み上がっていた。林は何も聞いてこなかった。ただ俺の顔を見て、「なんか最近顔が柔らかいですね」と言った。

「そうですか」

「三割増しで」と林は言った。「良い方向に」

俺は何も言わなかった。否定もしなかった。



 その週の土曜日、彩花と会った。特別な約束ではなかった。彼女が「この間話してた本屋、どこですか」と聞いてきて、じゃあ一緒に、という流れになった。デートとは言わなかった。でも、そういうものだと思っていた。たぶん、二人とも。

 待ち合わせは昼過ぎ、駅の改札前だった。彩花はジーンズに白いシャツだった。仕事のときと似ているようで、少し違った。肩の力が抜けている感じ、というか。

「久しぶりに私服で会いますね」と彼女が言った。

「そうですね」

「なんか、変な感じ」

「変ですか」

「変、というか」と彼女は少し考えた。「新鮮」

俺たちは並んで歩き始めた。



 本屋は駅から十分ほどのところにあった。広くはないが、棚の作り方が良い店だった。テーマごとに本が並んでいて、思わぬ本が隣り合っている。俺が以前から好きな店だった。彩花はすぐに棚に吸い込まれた。

 デザインの棚から始まって、写真集の棚に移って、気づいたら文芸の棚にいた。本の選び方が、スケッチブックへのメモの取り方に似ていた。気になったものを手に取って、少し読んで、また棚に戻す。その繰り返し。

「これ、読んだことありますか」と彩花が一冊を差し出した。装丁がシンプルな文庫本だった。タイトルを見た。読んだことがなかった。

「ないです」

「私も。でも、なんか気になって」

「買いますか」

「買います」と彼女は言った。「涼太さんも買ってください。読んだら感想を教えてほしいので」

「感想を聞くために買わせるんですか」

「そうです」と彼女はあっさり言った。俺は少し笑って、その本を手に取った。



 本屋を出て、近くの喫茶店に入った。古い店だった。木の椅子と、少し暗い照明と、コーヒーの匂い。窓の外に秋の街が見えた。コーヒーを頼んで、向かい合わせに座った。

「なんか、ゆっくりしてますね」と彩花が言った。

「そうですね」

「仕事のとき以外、こんな感じなんですか」

「こんな感じとは」

「なんか、穏やかというか」と彼女は言った。「仕事のときより、少し表情が多い気がして」

「仕事のときは少ないですか」

「少ない」と彼女は即答した。「でも、それが怖くなくなった」

「最初は怖かったんですか」

「最初は」と彼女は言った。「何を考えてるかわからなくて」

「今はわかりますか」

「少し」と彼女は言った。「わかるようになってきた、かな」

コーヒーが運ばれてきた。二人で少しの間、黙って飲んだ。沈黙が自然だった。埋めなくていい種類の静けさだった。

「あの夏、大変でしたね」と彩花が言った。

「大変でした」

「私も」と彼女は言った。「でも」

「でも?」

「悪くなかったです、結果的に」と彼女は言った。窓の外を見ながら。「いろいろあったけど、ちゃんと話せたし」

「俺も」と俺は言った。「悪くなかった」

彩花が俺を見た。少し笑った。俺も笑った。窓の外に、銀杏の葉が一枚落ちていった。秋が静かに来ていた。



 喫茶店を出たのは、夕方近かった。空が少しだけ赤くなっていた。駅まで並んで歩きながら、他愛ない話をした。好きな映画の話、仕事で失敗した話、子供の頃の話。特に意味のない話が続いた。それが良かった。駅の改札の前で彩花が言った。

「また」

「また」と俺は言った。

 彼女は改札を通って、ホームの方へ歩いていった。途中で一度だけ振り返って、小さく手を振った。俺も手を振った。彼女の姿が、人の流れに混じって消えた。



 帰り道、俺は一人で歩きながら、あの夏のことを思った。真夏のオフィスで、クリスマスを売っていた日のこと。エレベーターで初めて話した、あの夜のこと。ランチで彼女が「届いた気がするとき」と言った言葉のこと。嫉妬を抱え込んで、態度だけが変わっていったこと。夏祭りの雑踏の中で、彼女が背を向けたこと。

 全部あって、ここに来た。遠回りだったかもしれない。格好悪かったのは確かだ。でも、あの夜言葉にできなかった俺が、ちゃんと言えるようになった。それだけは、あの夏がくれたものだと思っていた。

 空がだいぶ暗くなっていた。電車が駅に着いて、ホームに降りた。近くのベンチに座り、スマートフォンを開いた。彩花からメッセージが来ていた。

 〈本、今夜から読みます〉

 俺は少し笑って、返した。

 〈俺も〉

 既読がついて、すぐにまたメッセージが来た。

 〈感想、楽しみにしてます〉


ホームのベンチに座ったまま、俺は空を見た。夜の街が流れていった。あの夏は終わった。でも、あの夏の続きはまだ始まったばかりだった。


―終わり―


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