第二節:十世紀前半における家父長制の未成熟と年長者規範
前節において、平良将の早世と嫡男たる平将門の空間的かつ時間的な不在が、高望王流平氏の内部に深刻な権力の空白地帯を生み出した経緯を論じた。しかしながら、現代の法意識や後世の武家社会における確固たる家督相続の概念からすれば、いかに将門が京に滞在して不在であったとはいえ、父の遺領と権威は当然に嫡男である将門へと継承されるべきであり、伯父たる平良兼や平国香がそれに介入し、己の支配下に置くことなど言語道断の簒奪行為と映るであろう。だが、彼らの行動を単なる親族の財産を狙った強奪としてのみ解釈することは、十世紀前半という時代特有の社会規範と法意識を看過することに他ならない。本節においては、この権力空白期において、なぜ伯父の良兼が指導者として台頭し得たのか、そしてその介入が当時の社会においていかなる大義名分を持ち得たのかを、当時の相続制度の未成熟さと「年長者規範」という観点から解き明かす。
日本の武家社会において、嫡男が単独で家督と所領の一切を継承し、他の一族衆を絶対的な権限の下に統制するという、いわゆる単独相続制に基づく強固な家父長制が確立するのは、鎌倉時代後期から室町時代にかけてのことであり、十世紀の坂東においては未だそのような固定的な規範は存在していなかった。この時代の親族集団、わけても地方に土着して武力をもって在地を支配し始めた初期の武士団においては、財産や所領の相続は極めて流動的であり、分割相続が基本とされていた。一族の富は子息や女子に至るまで分け与えられることが通例であり、一人の明確な後継者が全てを独占するという法理は成立していなかったのである。
さらに重要なのは、当時の武士団がいかにして外敵から所領と一族を守るかという、軍事的な生存戦略の論理である。律令国家の公的な警察機構が衰退し、自力救済が原則となりつつあった東国において、一族の所領や郎党という軍事資産を維持・保護するためには、それを束ねる者に相応の武勇、官位、そして政治的交渉力が不可欠であった。もし亡き当主の息子が若年であったり、遠方に滞在して直ちに指揮を執ることができなかったりした場合、一族の財産は瞬く間に近隣の野心的な豪族によって奪い去られてしまう危険性があった。
このような過酷な環境下において、一族の生存を優先する防衛的本能から生み出されたのが、「年長者規範」に基づく当主代行の論理である。すなわち、血統上の嫡男であるか否かにかかわらず、一族の中で最も年齢を重ね、高い官位を有し、かつ実力を備えた年長者が、一族全体を統括する事実上の筆頭者、すなわち氏長者として振る舞い、亡き者の所領や遺児を自らの保護と管理の下に置くことが、当時の社会通念として正当化され得たのである。この実力主義的かつ年長者優位の家父長制は、一族の資産の散逸を防ぎ、他氏族に対する軍事的な抑止力を維持するための、極めて合理的かつ必要な処置であったと評価できる。
この十世紀特有の年長者規範と実力主義の論理に照らし合わせた時、良将の死によって生じた巨大な空白を埋めるべき最適任者として浮上したのが、他ならぬ次男の平良兼であった。良兼は、高望王流平氏の兄弟の中で、長男の国香とともに年齢的に上位にあり、一族の長老としての地位を占めていた。加えて、前章において詳述した通り、良兼は下総守や上総介といった受領階級の官職を歴任しており、一国の最高権力者としての行政権と徴税権を行使した経験を持っていた。良将が帯びていた鎮守府将軍という特権的な軍事職には及ばないものの、受領としての地位とそこで蓄積された莫大な富は、彼に一族を束ねるに十分な実力と権威を与えていたのである。
将門が京に滞在し、父の急死という一族の危機に直面してもなお帰国できない状況下において、良兼が消去法的に一族の「暫定的な筆頭者」として台頭したのは、単なる個人の野心の発露というよりは、むしろ当時の社会規範に則った自然な帰結であったと言える。良兼の主観からすれば、彼が良将の遺領である豊田郡や岡田郡に介入し、その郎党たちを自らの指揮下に組み込もうとした行動は、頼りなく、しかも不在である若輩の甥に代わり、一族の貴重な財産が他氏族の手に渡るのを防ぐための「保護」であり「管理」であった。
同時代史料である『将門記』においては、後に良兼が将門に対して激しい怒りを抱き、討伐の兵を挙げるに至るまでの経緯において、良兼が自らを「年長者」あるいは「舅」という優位な立場に置き、将門を己の指導に従うべき存在として見下している様子が繰り返し描写されている。
「良兼、将門が本意を背くを憤りて、忽ちに其の女を奪ひ取りて本国に帰る」
この記述は第四章において詳述する婚姻関係の破綻を示すものであるが、その根底には、年長者であり一族の長たる自らの意向に従わず、独自の行動をとる若き将門に対する、長老としての強烈な不快感と権威の失墜への恐れが伏在している。良兼にとって将門は、対等に領地を分け合う同格の武将ではなく、自らの保護と統制の下に置かれるべき一族の若輩に過ぎなかったのである。
さらに、この年長者による当主代行の論理を補強し、良兼の台頭を決定づけたのが、長男たる平国香の動向である。本来であれば、一族の長老として最も発言権を持つべきは長男の国香であったが、彼は前述の通り常陸国の在地社会に深く土着しており、一族全体を統率する意志も実力も欠如していた。しかし、良将の死という権力構造の激変を機に、国香もまた自らの影響力を回復すべく、実力者である良兼の行動に同調する道を選んだ。国香は常陸国における在地権力や、自らの舅である前常陸大掾の源護との縁戚関係を活用し、良兼と結託して良将の遺領への圧力を強めていったのである。
この良兼と国香という二人の年長者の結託は、「一族の長老たちが合議し、不在の良将に代わって一族の秩序を維持する」という強力な大義名分を作り出した。彼らは、下総や常陸の国衙における行政的な影響力や、周辺豪族との婚姻関係を駆使しながら、合法的な体裁を装って良将の遺領を自らの勢力圏へと組み込んでいった。この過程は、武力による暴力的な強奪というよりも、血縁と地縁の論理を用いた、真綿で首を絞めるような巧妙な「蚕食」であったと表現する方が実態に近い。
かくして、良将が独自の武勇と国家からの信用によって築き上げた特権的な軍事基盤は、十世紀における「年長者による所領の保護と管理」という社会通念を大義名分として掲げた伯父たちの手によって、次第に解体され、再分配されていくこととなった。将門が都での出仕を終え、ようやく故郷の土を踏んだ時、東国における高望王流平氏の序列は完全に塗り替えられていたのである。
以上のように、本節においては、良将の死後に生じた権力の空白を埋めたのが、単なる無法な簒奪ではなく、十世紀前半の相続制度の未成熟さと「年長者規範」に基づく、良兼による正当化された当主代行であったことを明らかにした。一族の財産を守り、秩序を維持するという名目のもとに行われた伯父たちの介入は、当時の法意識においては一定の合理性を有していた。しかしながら、この年長者の論理は、自らを「偉大なる鎮守府将軍の正統なる後継者」と自負して帰国した若き将門の論理とは、決して相容れないものであった。次節においては、暫定筆頭者として一族に君臨しようとする良兼の「保護」が、いかにして将門の遺領を実質的に奪う「横領」へと変貌していったのか、その蚕食の実態と、結託した権力層の動きについてさらに詳細に分析を進める。
【引用元・参考文献】
一、『将門記』




