表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
高望王流平氏における「嫡流」の変遷と平将門の乱の再考  作者: えいの
第三章:平良将の早世による権力の空白と暫定筆頭者平良兼の台頭

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/12

第三節:良兼の権力代行と国香の同調:遺領への介入と「保護」

前節において論証した通り、十世紀前半の東国社会に存在した年長者規範と実力主義に基づく相続の論理は、平良兼が亡き平良将に代わって高望王流平氏の暫定的な筆頭者として君臨するための大義名分を提供した。良兼は自らの年齢と受領として蓄えた経済力、ならびに行政経験を盾として、一族の秩序を維持するという名目のもとに権力を振るい始めたのである。本節においては、この良兼による「当主代行」の論理が、具体的にいかなる手法をもって良将の遺領への介入を招き、長男の平国香や常陸国の大豪族である源護ら既存の在地権力層との結託へと発展していったのか、その実態を詳らかにする。同時に、「保護」や「管理」という聞こえの良い名目のもとに進行した、実質的な所領と私兵の蚕食の過程を明らかにする。

良将が東国に遺した下総国の豊田郡および岡田郡は、前章でも触れた通り、水上交通の要衝であり、かつ莫大な農業生産力を誇る極めて豊かな在地基盤であった。ここには、東国全域の防衛を担う鎮守府将軍の権威を支えるための膨大な軍事物資が備蓄され、良将の恩沢に浴する数多の郎党たちが集住していた。良兼が暫定的な当主としてまず着手したのは、この豊田および岡田両郡に対する支配権の確立であった。良兼の主観、あるいは彼が周囲に対して公言したであろう名目に従えば、この介入は決して他人の領地を不法に奪うものではなかった。正統な後継者である将門が遠く平安京に滞在し、東国の情勢に暗い若輩である以上、他氏族による侵略や郎党たちの離散を防ぐために、一族の長老である自分が一時的にこれらの所領を「保護」し「管理」することは、親族としての責務であると主張したに相違ない。

しかしながら、権力と富というものは、一度その手に握り締めれば容易に手放せるものではない。良兼による「保護」は、事実上の支配体制の構築へと急速に変質していった。良兼は下総守などの国司を歴任した経験と、その過程で培った在庁官人たちとの人脈を駆使し、良将の遺領における境界線の再設定や、租税の徴収権の付け替えなどを巧妙に行っていったと推察される。在地社会において、武力行使を伴わないこのような法的手続きや行政的措置を介した領地の囲い込みは、最も効果的かつ反発を招きにくい「蚕食」の手法であった。良将の麾下にいた郎党たちに対しても、良兼は自らの豊富な財力を用いて恩賞を与え、あるいは一族の長老としての権威を用いて服従を強要し、徐々に自らの私兵として切り崩していったのである。

この良兼による遺領の蚕食をさらに加速させ、抜き差しならない構造的な対立へと押し上げたのが、長男たる平国香ならびに常陸国の有力者である源護の動向であった。源護は前常陸大掾という官職を持ち、常陸国西部から下総国に接する地域にかけて強大な私営田を領有する大豪族であった。重要なのは、源護が自らの娘たちを高望王流平氏の兄弟、すなわち国香、良兼、そして良正の三名にそれぞれ嫁がせていたという事実である。この婚姻関係は、源護を中心とした強固な政治的同盟、すなわち在地における一大閨閥を形成していた。

良将が鎮守府将軍として絶対的な威威を放っていた時代には、この源護を中心とする姻戚同盟も、良将の軍事力と権威の前には沈黙し、一定の従属を余儀なくされていた。良将という巨大な重石が存在する限り、彼らが公然と良将の所領に手を伸ばすことは不可能であった。しかし、良将の急死とその正統後継者の不在という権力の空白は、この抑圧されていた既存権力層を一気に活性化させる結果を招いた。国香は長男でありながら一族の筆頭者になり損ねた鬱屈を抱えており、源護もまた自らの勢力圏をさらに下総方面へと拡大する野心を秘めていた。

良将の死後、良兼が当主代行として豊田や岡田に介入を始めると、国香と源護は直ちにこれに同調し、結託の動きを見せた。彼らは婚姻関係という太い絆で結ばれており、利害を一致させることは容易であった。国香は常陸国における影響力を行使し、源護はその莫大な私兵と財力を提供することで、良兼の「保護」という名目による遺領の蚕食を後押ししたのである。この三者の結託は、単なる親族の協力関係という枠を超え、良将の遺した莫大な利権を山分けにするための在地権力層による野合の様相を呈していた。

同時代史料である『将門記』は、一連の動乱の発端について次のように記している。

「そもそも此の闘乱の起りは、源護等と将門と、各野営の所領を論ずるに依りてなり。然る間、良兼・国香等、源護に同意して将門を伐たむと為す」

従来の史学的解釈においては、この記述を文字通りに受け取り、将門と源護の間で生じた境界線を巡る局地的な争いに伯父たちが巻き込まれたと理解されてきた。しかし、本節において明らかにした権力空白と蚕食の構造を踏まえるならば、この記述は全く異なる意味を帯びてくる。すなわち、「野営の所領を論ずる」という事態は、単なる突発的な境界争いではなく、将門が不在の間に、良兼、国香、源護という結託した既存権力層が、良将の遺領であった豊田郡や岡田郡の周縁部からじわじわと侵食し、不当な介入を繰り返していたことの必然的な結果として生じた摩擦であったと解釈すべきなのである。

彼ら結託勢力は、良将の遺産を分割し、自らの所領に組み込むための既成事実を着々と積み上げていた。良将の館に出入りし、その権威の恩恵に与っていた在地の土豪たちも、主君を失った不安から、強大な力を誇示し始めた良兼や源護の傘下へと雪崩を打って鞍替えしていった。かつて東国において最も栄華を誇り、誰もが恐れ敬った鎮守府将軍の拠点は、保護という美名の下に、伯父たちと在地豪族の貪欲な牙によって無残に食い荒らされていたのである。

この時期、平安京にあって藤原忠平に仕えていた将門の耳にも、故郷における不穏な動きの断片は届いていたかもしれない。しかし、遠く離れた都にあっては事の真偽を確かめる術もなく、ただ焦燥感を募らせるのみであったと推察される。将門にとって、父の遺領は自らが受け継ぐべき神聖な武門の基盤であり、いかなる理由があろうとも他者に侵犯されるべきものではなかった。

やがて、京における遊学と出仕を終え、東国へと帰還する将門の胸中には、亡き父への追慕とともに、鎮守府将軍の正統なる後継者としての強烈な自負が宿っていた。しかし、彼が故郷の地で直面したのは、父が残した輝かしい軍事権門の遺産ではなく、年長者という権威を振りかざし、他氏族と結託して自らの所領を不当に占拠する伯父たちの醜悪な姿であった。「保護」と「管理」という名目で既成事実化された遺領の横領は、将門の目に武門の誇りを著しく汚す簒奪行為として映ったに違いない。

かくして、良将の死によって生じた権力の空白は、良兼による当主代行の正当化と、国香や源護ら在地権力層の結託という新たな支配構造を生み出した。しかし、この強引に再編された東国の秩序は、真の正統後継者たる将門の帰還によって、根底から覆される運命にあった。次節においては、帰国した将門が抱いていた「嫡流」としての絶対的な自負と、一族の秩序を維持しようとする良兼ら年長者の論理がいかにして正面から衝突し、修復不可能な認識の齟齬を生み出していったのかを論究する。


【引用元・参考文献】

一、『将門記』

二、『尊卑分脈』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ