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高望王流平氏における「嫡流」の変遷と平将門の乱の再考  作者: えいの
第三章:平良将の早世による権力の空白と暫定筆頭者平良兼の台頭

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第一節:平良将の急死と後継者将門の空間的かつ時間的不在

前章までに詳述したごとく、高望王流平氏の内部において、三男たる平良将が有していた権力と威光は、他の親族の追随を全く許さぬ圧倒的なものであった。長男の国香が常陸国の在地社会に埋没し、次男の良兼が一地方の行政官たる受領の地位に安住する中、良将のみが鎮守府将軍という国家公認の軍事権門としての地位を確立し、東国における最大の武力と豊かな経済基盤を手中にして一族の筆頭者として君臨していたのである。良将が健在である限り、高望王流平氏の秩序は盤石であり、その栄光は彼の正統なる後継者へと平穏に受け継がれるはずであった。しかしながら、歴史のうねりは時として個人の武威や精緻に構築された権力基盤を無情にも打ち砕く。東国において絶対的な権威を誇った平良将の生涯は、突如としてその幕を閉じることとなる。本節においては、この良将の早世という予期せぬ事態と、その折に正統な後継者たる嫡男の平将門が遠く離れた平安京に滞在していたという致命的な空間的および時間的な不在が、いかにして一族の秩序を崩壊の淵へと追いやっていったのかを考察する。

平良将がこの世を去った正確な年次について、明確に記録した同時代史料は残されていない。しかし、事後の経過から推測するに、それは延長年間から承平初年にかけての時期であったと考えられる。東国の武士たちから神のごとく畏敬され、鎮守府将軍として強大な軍団を統率していた良将の死は、高望王流平氏のみならず、坂東全域の軍事的な均衡を揺るがす大事件であった。本来であれば、このような一族の危機に際しては、亡き当主の正統な後継者が速やかに家督と遺領を継承し、揺らぐ家臣団を掌握して内外に自らの威を示さなければならない。

だが、この最も重要な時期において、良将の嫡男にして次代の高望王流平氏を背負うべき平将門は、自らの父が統治する東国の本拠地には居合わせなかった。若き日の将門は、父である良将の強固な政治的基盤と推挙を背景として上京し、当時の朝廷における最高権力者であった太政大臣藤原忠平の邸宅に出仕していたのである。この上京は、東国の軍事権門の御曹司として、中央政界における儀礼や作法を学び、あわよくば検非違使などの武官の地位を獲得して一族の箔付けを行うための、極めて重要な遊学であったと目される。

『将門記』においては、後に将門が自らの行動の正当性を忠平に訴え出た書状の記述の中に、彼の京における出仕の事実が記されている。

「昔よりの主従の契りを忘れず、遠き境にありといえども、常に尊き御恩を仰ぎ奉る」

この文面から、将門がかつて忠平の私的な従者として直接的な主従関係を結んでおり、その知遇を得ていたことが読み取れる。また、将門が「昔」と表現していることから、彼が京に滞在し忠平に仕えていた期間が、決して短期間の滞在ではなく、数年あるいはそれ以上に及ぶある程度まとまった期間であったことが示唆される。将門は都において、自らが武門の棟梁の正統な継承者であるという強烈な自負を育み、中央の貴族社会の論理を吸収しつつあったのである。

しかしながら、この京での出仕という輝かしい経歴作りの最中に、父良将の急死という一族の根幹を揺るがす悲報がもたらされた。十世紀前半における平安京と坂東の地理的隔たりは、現代の感覚からは想像を絶するほどに遠く、情報伝達にも多大な日数を要した。東国からの急使が幾日もかけて都に駆けつけ、将門に父の訃報を伝えたとしても、彼が直ちに武装を整え、険しい箱根の山を越えて下総国の本拠地へと急行し、事後処理の主導権を握ることは物理的に不可能であった。この空間的な隔たりと、それに伴う時間的な遅滞こそが、将門にとって取り返しのつかない致命傷となる。

東国に残された良将の強大な権力基盤は、指導者を失った瞬間に巨大な空白地帯へと転落した。前章で述べた通り、下総国の豊田郡および岡田郡は、水上交通の要衝にして莫大な農業生産力を誇る豊かな土地であり、そこには良将が長年かけて育成した精強な武装集団と膨大な軍事物資が蓄積されていた。確固たる指揮官と精神的支柱が存在すれば、これらは無敵の軍事要塞として機能するが、その主を欠いた状態においては、周辺の野心的な豪族たちや親族の目に、主のいない魅力的な宝の山として映ったことは想像に難くない。

将門が都で足止めを食らっている間、東国では「将軍の不在」という異常事態が継続していた。良将の麾下に集っていた坂東の勇猛な武者たちも、主君を失い、さらにその後継者も姿を見せない状況下において、動揺と不安を隠しきれなかったであろう。強固であったはずの主従の紐帯は次第に弛緩し、ある者は自らの保身のために去り、またある者は新たな権力者にすり寄る機会をうかがい始めた。豊田と岡田の両郡は、高望王流平氏の栄光の中心地から一転して、指導力を持たない無防備な富の集積地、すなわち「権力の空白地帯」と化してしまったのである。

この深刻な権力の空白は、一族内部に潜んでいた野心や対立を瞬時に顕在化させる引き金となった。良将が帯びていた圧倒的な威光によって押さえつけられていた兄の国香や良兼といった年長者たちは、この東国における権力の真空状態を奇貨として自らの影響力を拡大しようと蠢き始める。彼らにとって、強大すぎた弟の死は、一族内での自らの地位を向上させ、豊かな所領を手に入れる絶好の好機に他ならなかった。

将門が東国において父の遺産を速やかに引き継ぐことができなかったという、この空間的かつ時間的な不在の悲劇がなければ、歴史は全く異なる軌跡を描いていたであろう。将門がもし父の臨終に立ち会い、直ちに一族の長としての号令を発していれば、伯父たちが付け入る隙は生じず、彼は「第二の鎮守府将軍」として平穏裏に東国の覇者となっていた可能性が高い。しかし、歴史の歯車は冷酷にも、若き正統な後継者を都に留め置き、東国に莫大な権力の空白を現出させたのである。

かくして、良将の死と将門の不在という二つの要因が重なり合うことによって、高望王流平氏の序列と均衡は完全に崩壊した。この巨大な権力空白をいかにして埋めるのか、あるいは誰がその豊かな遺産を管理するのかという問題が、残された親族たちの目前に突きつけられたのである。次節においては、このような状況下において、なぜ年長者である伯父の平良兼が「暫定的な筆頭者」として台頭し、良将の遺領を蚕食することが当時の社会において正当化され得たのかを、十世紀における相続制度の未成熟という観点から解き明かしていくこととする。

【引用元・参考文献】

一、『将門記』

二、『貞信公記』

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