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高望王流平氏における「嫡流」の変遷と平将門の乱の再考  作者: えいの
第五章:結論(おわりに)

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第二節:「もし平良将が存命であれば」という歴史的仮説の検証

歴史学において「もし」という仮定を設けることは、一見すると空想的であり、厳密な実証主義からは逸脱する行為のように思われるかもしれない。しかしながら、ある特定の歴史的事象が及ぼした影響の巨大さと、その事象が本質的に持っていた構造的な意味を逆照射して理解するためには、最も決定的な要因をあえて取り除いた歴史的仮説を設定し、論理的な検証を加える手法が極めて有効である。本論文はこれまで、高望王流平氏の内部崩壊と平将門の乱の勃発という未曾有の悲劇が、「本来の氏長者たる平良将の急死」という単一の、しかし決定的な事象に端を発していることを論証してきた。本節においては、この議論をさらに深く裏付けるため、「もし良将が早世することなく、将門が帰国するまで、あるいはそれ以降も健在であったならば」という仮説的状況を検証し、良将という存在が高望王流平氏の歴史的軌跡においていかに巨大な重みを持っていたかを浮き彫りにする。

第一に検証すべきは、高望王流平氏の内部における権力構造と親族間の秩序である。前章までに再三にわたり論じた通り、良将が帯びていた「鎮守府将軍」という国家公認の特権的な軍事司令官としての威威と、下総国豊田郡および岡田郡という水陸交通の要衝にして広大で肥沃な在地基盤は、東国において他のいかなる勢力も追随を許さない圧倒的なものであった。もし良将がこの地位に君臨し続けていたならば、彼を中心とする強固な軍事権門の体制は盤石のまま維持されたはずである。

この強力な重石が存在する状況下において、長男の平国香や次男の平良兼が、良将の権威に公然と挑戦することは到底不可能であった。国香は常陸国における源護ら在地豪族との婚姻関係を維持しつつも、あくまで一地方の土豪、あるいは下級の在庁官人としての分を弁え、良将の広大な軍事的な傘下、あるいは同盟勢力の一部として平穏に土着化の道を歩み続けていたであろう。良兼もまた、下総守や上総介といった受領としての富と権力は享受できたとしても、それはあくまで任期付きの地方行政官の枠内に留まり、恒久的な武威を誇る鎮守府将軍である良将の前では、一族の序列において次席の地位に甘んじざるを得なかった。

当然のことながら、良将の死によって生じた巨大な「権力の空白」は発生しないため、良兼が「一族の長老」や「当主代行」という名目を振りかざして良将の所領に介入する余地は全く存在しなかった。良将の麾下に集う数多の精強な郎党たちが動揺して離散することもなく、彼らは偉大なる将軍の下で強固な軍事共同体を維持し続けていたのである。源護のような既存の在地豪族も、自らの娘を国香や良兼に嫁がせて形成した閨閥を背景としつつも、最終的には東国最大の武門である良将の威光を恐れ、不用意な領地争いや摩擦を起こすことは極力避けたに違いない。

第二に、正統な後継者である将門の運命と、その政治的軌跡はいかなるものとなっていたかを考察する。史実において、将門は父の急死によって平安京での出仕を中絶し、失われた遺領を取り戻すために東国において血みどろの私戦へと身を投じざるを得なかった。しかし、父良将が健在であったならば、将門の京における遊学は全く異なる輝かしい成果をもたらしていた可能性が高い。

同時代史料である『将門記』において、将門が藤原忠平に対して「昔よりの主従の契りを忘れず、遠き境にありといえども、常に尊き御恩を仰ぎ奉る」と記したように、将門は時の最高権力者である太政大臣と極めて良好で強固な私的主従関係を結んでいた。東国に強大な軍事基盤を持ち、朝廷から鎮守府将軍として承認された父の存在は、京における将門の政治的価値を極限まで高める背景となったはずである。将門は忠平の身辺を警護する武官として重用され、検非違使などの公的な役職を授かるなど、中央政界において「東国を代表する武門の御曹司」として順調に出世の階段を登っていたと推測される。

十分に中央での人脈と官位を獲得した後に東国へ帰還した将門は、父良将から何ら欠損することなく、豊田および岡田の豊かな所領と、国家公認の軍事権力を円滑に継承したであろう。帰国した彼を待ち受けるのは、所領を蚕食する敵対的な伯父たちではなく、偉大なる将軍の後継者として彼を絶対的な主君と仰ぐ忠実な郎党たちであった。さらに、将門が良兼の娘を妻に迎えるという「いとこ婚」が成立していたとしても、父が健在の状況下であれば、それは良兼による不当な「囲い込み戦略」として機能することはなく、むしろ良兼の側が次期当主である将門に対して恭順と忠誠を誓うための、平和的な政治的結合、ある種の貢物として機能したと考えられる。妻を強引に奪還されるという武士としての名誉を根底から破壊される悲劇も起きず、将門は高望王流平氏の次代の氏長者として、名実ともに東国武士団の頂点に立っていたのである。

第三に、この仮説的状況が長期的に継続した場合の高望王流平氏全体の系譜的評価について言及しなければならない。史実において、武家平氏の「嫡流」とされたのは、将門の乱において最終的に勝者となった平貞盛、すなわち長男である平国香の系譜であった。『尊卑分脈』などの後世の系図類は、この結果論に基づいて国香流を本流として権威づけている。しかし、良将が存命であり、将門が平穏に家督を継承していたならば、この歴史的評価は根本から覆っていたはずである。

朝廷と直結し、鎮守府将軍という特権的な地位を世襲、あるいはそれに準ずる軍事的な権威を継承した良将と将門の系譜こそが、誰の目にも明らかな高望王流平氏の「正統なる嫡流」として歴史に刻まれていたことは疑いようがない。彼らは、十世紀後半以降に摂関家と結びついて武門の棟梁としての地位を確立していく清和源氏(源満仲や源頼信など)に先駆けて、中央の貴族政権を軍事的に支える最大の権門として、日本史の表舞台において確固たる地位を築き上げていた可能性が極めて高い。将門は「新皇」を称する国家の叛逆者として討伐されるのではなく、朝廷の意を受けて地方の反乱を鎮圧し、国家の治安を維持する「正義の官軍の将」として、全く逆の輝かしい歴史的役割を担っていたかもしれないのである。

以上のように、「もし平良将が存命であれば」という歴史的仮説を検証することによって、良将の死という事象が、いかに巨大な歴史の分岐点であったかが鮮明に理解される。良将が健在であれば、高望王流平氏の内部秩序は完全に維持され、長男や次男の分を越えた野心は抑え込まれ、将門の正当な権益と武門としての名誉が損なわれることは決してなかった。そして、東国を焦土と化し、国家の体制を揺るがしたあの未曾有の私戦も、歴史の闇に葬られたまま、決して現実のものとなることはなかったのである。

歴史の歩みは、時として一個人の死という極めて偶然的で予測不可能な出来事によって、その軌道を百八十度変えてしまう残酷さを孕んでいる。平良将という、高望王流平氏における最大の重石にして精神的支柱が、まさに最も不適切な時期に失われたという歴史の瑕疵こそが、すべての破局の始まりであった。鎮守府将軍という圧倒的な権威が残した莫大な遺産は、その正統な継承権の所在を曖昧にしたまま東国に放置され、親族間の尽きせぬ欲望と、誇り高き若者の激情という猛火に油を注ぐこととなった。

本論文は、この仮説の検証を通じて、平将門の乱が単なる個人の野心や領土欲から生じたものではなく、平良将の死という構造的な巨大な空白によって引き起こされた、起こるべくして起きた一族内部の権力闘争の必然的帰結であったことを改めて確認する。次節においては、この凄惨な闘争の最終的な結果として、生き残った平貞盛の系譜がいかにして事後的に「嫡流」としての地位を獲得し、勝者の論理が歴史をどのように上書きしていったのかを考察し、本論文の結びへと向かうこととする。


【引用元・参考文献】

一、『将門記』

二、『尊卑分脈』

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