第三節:事後的な嫡流としての平貞盛の確立と勝者の論理
前節までの議論を通じて、高望王流平氏における本来の筆頭者が平良将であり、その早世という歴史の空隙が平将門の乱という未曾有の悲劇を引き起こした真の淵源であることを立証してきた。良将が健在であれば、あるいは将門が平穏に遺領を継承していれば、武家平氏の嫡流は疑いようもなく良将から将門へと連なる系譜に定まっていたはずである。しかしながら、現実の歴史は全く異なる軌跡を描き、後世において武家平氏の本流、すなわち嫡流として歴史の表舞台に君臨したのは、将門の刃に倒れた長男平国香の系譜であり、乱の最終的な鎮圧者となった国香の嫡男、平貞盛であった。本節においては、将門の乱という巨大な私戦の終結と、その後の歴史的評価の変遷を辿り、貞盛がいかにして事後的に嫡流としての地位を獲得したのか、そしてそれが勝者の論理によって作り上げられた歴史の偶然の産物に過ぎないことを論証する。
平将門が自らを新皇と称し、東国に独立国家の樹立を宣言するに至ったことは、朝廷にとって国家の根幹を揺るがす最大の危機であった。この前代未聞の反逆を鎮圧すべく、朝廷は東国の諸将に将門討伐の追討符を下す。この歴史的転換点において、将門の最大の対抗馬として浮上したのが平貞盛である。貞盛は、承平五年の野本の合戦において将門によって父の国香を討たれ、自らも所領を追われるという塗炭の苦しみを味わっていた。彼は一族の長老たち、すなわち平良兼らが次々と将門の軍門に降るか病に倒れていく中で、京へ上り朝廷に将門の暴挙を訴え出るなど、血の滲むような復権の努力を重ねていた。父の仇を討ち、一族の生き残りとしての矜持を保つために、執念深く将門への復讐の機会を窺っていたのである。
貞盛の最大の転機は、下野国の有力な押領使であった藤原秀郷と同盟を結んだことにあった。秀郷は東国において強大な武力と広大な在地基盤を有する歴戦の勇将であり、貞盛は彼と結託することによって、単なる親族間の私怨を超えた、国家の公的な討伐軍としての威容を整えることに成功したのである。天慶三年の二月、下総国猿島郡における最終決戦において、貞盛と秀郷の連合軍は、風向きの急変という天の配剤も味方につけ、ついに無敵を誇った将門を討ち取ることに成功する。同時代史料である『将門記』は、この凄惨な決着を次のように記している。
「貞盛・秀郷等、神の鏑矢を放ちて、陣の頭に懸け来たる。将門、自ら陣頭に立ちて戦ふといへども、遂に貞軍の放つ所の矢に中りて、馬より落ちて死にけり」
将門の死は、東国を席巻した新皇の夢が儚く潰えた瞬間であると同時に、高望王流平氏の内部において長らく繰り広げられてきた血塗られた権力闘争が、ついに貞盛という一人の勝者を残して終結したことを意味していた。朝廷は、国家の最大の危機を救った貞盛と秀郷の多大な武功を高く評価し、彼らに破格の恩賞と官位を授与する。貞盛は従五位上の位階を賜り、鎮守府将軍や丹波守などの要職を歴任することとなる。奇しくも彼が任じられた鎮守府将軍とは、かつて「本来の嫡流」であった叔父の平良将が帯びていた、あの特権的な軍事司令官の称号であった。貞盛は将門を討ち滅ぼすことによって、結果的に良将が有していた東国における絶対的な武威と、中央政界からの公的な信用という二つの権威をそっくりそのまま自らの手中に収めることに成功したのである。
この劇的な武功と恩賞の獲得により、貞盛とその子孫たち、すなわち国香流の系譜は、国家公認の武芸の家としての揺るぎない地位を確立した。そして、この歴史的勝利という決定的な事実が、その後の高望王流平氏に対する系譜的評価を根本から上書きしていくこととなる。後世の武家社会において編纂された『尊卑分脈』などの系図類において、高望王流平氏の正統な系譜は、高望王から長男の国香へ、そして国香から貞盛へと一直線に連なるものとして疑いなく記述されている。将門の乱という悲劇を引き起こした張本人として、将門の系譜は反逆者の汚名とともに傍流へと貶められ、良将がかつて有していた圧倒的な優位性も、貞盛の輝かしい武功の陰に完全に隠蔽されてしまったのである。
しかしながら、この国香から貞盛へと至る系譜を、歴史の初めから定まっていた絶対的な嫡流として見なすことは、事後的な勝者の論理に完全に幻惑された歴史観であると言わざるを得ない。第二章において詳述した通り、国香自身は常陸国の在地社会に深く埋没した一介の地方豪族に過ぎず、大掾という下級の在庁官人に甘んじていた。彼が一族全体を統率する絶対的な権威を持っていなかったことは明白であり、彼自身が嫡流として振る舞った痕跡は史料上のどこにも存在しない。貞盛が乱の勃発以前に有していた地位もまた、一族の筆頭者と呼ぶには程遠いものであった。
貞盛が最終的に手にした嫡流という座は、決して彼が長男の血を引いていたから自動的に与えられたものではない。それは、本来一族を統率すべきであった平良将が突如として早世し、残された巨大な権力の空白を巡って良兼や国香ら年長者が醜い蚕食を繰り広げ、それに反発した正統後継者の将門が過激な武力行使によって既存の権力層を次々と自滅させていったという、歴史の凄惨な玉突き事故の果てに転がり込んできた、極めて偶然の産物すなわち歴史の瑕疵がもたらした結果に他ならない。
さらに言えば、将門が伯父たちとの闘争において一時的に勝利を収め、東国に独立勢力を築き上げることさえなければ、貞盛が国家の危機を救う公的な討伐軍の将として朝廷から特権的な地位を与えられる機会も永遠に訪れなかったはずである。貞盛の歴史的栄光は、逆説的にも、彼が最も憎悪した将門が国家に対する前代未聞の反逆者へと昇華してくれたからこそ成立し得たものなのである。将門という巨大な標的が存在しなければ、貞盛が正義の英雄として歴史の表舞台に立ち、これほどの栄誉を独占することは決してなかった。
このように歴史を冷徹に俯瞰するならば、後代に平清盛という未曾有の覇者を輩出し、武家政権の頂点を極めることとなる伊勢平氏の栄華もまた、その起源においては、平良将の死という歴史の歪みが生み出した偶然の連鎖の上に辛うじて成立していることが理解できる。歴史は常に勝者によって記述され、勝者の系譜には事後的にあらゆる正当性の装飾が施される。国香流が武家平氏の嫡流であるという歴史的常識は、まさにこの勝者の論理が作り上げた最大の虚構であり、後付けの思想的構築物に過ぎないのである。
本論文が平良将という存在に強烈な光を当て、彼を本来の嫡流として再評価した最大の意義は、この勝者の論理によって覆い隠されてしまった歴史の真の力学を白日の下に晒すことにあった。歴史とは、あらかじめ定められた一本の太い道筋を歩むものではなく、無数の可能性と偶然が交錯する中で、時に理不尽な死や愛憎の衝突によってその軌道を大きく狂わせるものである。平将門の乱という歴史的大動乱もまた、一人の偉大な武将の死と、その残像を追い求めた若者の悲劇的な闘争の果てに、意図せざる勝者を生み出した巨大な歴史の迷宮であった。
貞盛が最終的に手にした嫡流という称号は、血塗られた親族間闘争を生き延びた者への歴史からの冷酷な報酬であった。しかし、その輝かしい系譜の始まりの地層には、本来その地位にあるべきであった良将の無念と、武門の矜持を守り抜こうとして朝敵の汚名を着せられた将門の深い絶望が、永遠に埋め込まれていることを忘れてはならない。次節においては、これまでのすべての論証を統括し、制度の未発達と人間の愛憎が織りなす中世武士団草創期の実像としての結論を導き出し、本論文の結びとする。
【引用元・参考文献】
一、『将門記』
二、『尊卑分脈』




