第一節:平将門の乱の初期衝動に対する再評価
第一章から第四章に至るまでの多角的な論証を通じて、本論文は十世紀前半の東国において高望王流平氏がいかなる内部構造を有し、いかなる力学によってその秩序が崩壊していったのかを解明してきた。長男たる平国香の在地豪族化と実質的な嫡流からの脱落、次男の平良兼ら受領階級との間にある決定的な官職の格差、そして鎮守府将軍として絶対的な権威と公的な武力保持権を有していた三男の平良将の圧倒的な優位性。これら初期の力学を前提とした時、良将の急死と正統後継者たる平将門の不在がもたらした巨大な権力の空白こそが、すべての悲劇の幕開けであった。年長者規範を盾にした良兼らによる遺領の蚕食と、政略結婚を通じた巧妙な囲い込み、そしてそれに反発する将門の武門としての矜持の衝突は、ついに妻の奪還という名誉の決定的な蹂躙を経て、修復不可能な全面私戦へと発展したのである。本章では、これらの考察を踏まえ、最終的な結論として「平将門の乱」と呼ばれる歴史的大動乱の真の淵源と構造的要因を総括する。本節においてはまず、乱の初期衝動に対する従来の史学的評価を覆し、その本質が「正当性回復の闘争」であったという再評価を行う。
従来、日本史学において「平将門の乱」あるいは「承平天慶の乱」と総称されてきた一連の軍事行動は、最終的に将門が常陸、下野、上野などの国府を次々と襲撃し、印司を奪取して自らを「新皇」と称し、東国に独立国家を樹立しようとした反逆の頂点から逆算して評価される傾向が強かった。そのため、乱の初期段階における親族間の紛争も、己の野心と武力に任せて暴走を始めた荒武者による、国家反逆への予行演習、あるいは無軌道な領土拡大の第一歩として位置付けられがちであった。しかしながら、本論文がこれまでに提示してきた高望王流平氏の内部力学の変容という視座から初期の動乱を再検討するならば、このような目的論的かつ結果論的な解釈は、将門という一個の武将が抱えていた切実な行動原理を著しく歪曲するものであると言わざるを得ない。
将門が東国において最初に武力を行使した対象は、決して朝廷や国家の出先機関である国衙ではなかった。彼の刃が最初に向かったのは、前常陸大掾の源護の陣営であり、それに加担して将門を討とうとした伯父の平国香や平良兼たちであった。この闘争の初期衝動の根底にあったのは、国家に対する叛逆の意志などではなく、亡き父平良将の早世によって不当に歪められた「一族の本来の秩序」を、自らの実力によって正そうとする、極めて切実で正当な自衛および権利回復の意志であった。
前章までにおいて繰り返し論じてきた通り、将門の認識において、高望王流平氏の真の筆頭者は鎮守府将軍たる父の良将であり、その莫大な遺領と軍事力を欠損なく受け継ぐべき正統な嫡流は自分自身であった。しかし、彼が平安京での出仕から帰国してみれば、東国の権力構造は年長者というだけの理由で居座る伯父たちと在地豪族の結託によって完全に簒奪され、自らの生存基盤すら脅かされる事態に陥っていたのである。将門にとっての初期の戦闘は、自らの正当な財産を横領し、婚姻関係を利用して自らを奴隷のごとく統制しようとし、あまつさえ武門の命とも言える正妻を奪い去るという言語に絶する侮辱を加えた不義なる親族たちに対する、当然の報復であり名誉回復の戦いであった。
この将門の切実な行動原理と、初期の闘争が国家への反逆を意図したものではなかったことは、同時代史料である『将門記』に収められた、将門が当時の最高権力者である太政大臣藤原忠平に対して送った弁明の書状の中に、痛切なまでの説得力をもって示されている。
「本より国香・良兼等と、謀を同じくし心を合せて、源護が非理の責を遁れむと欲す。而るに良兼等、反って護が教へに随ひて、遂に将門を伐たむとす。(中略)身の亡びむことを恐れて、同じく弓箭を帯して、少しき合戦を致す」
この書状において将門は、自らが好んで争いを起こしたのではなく、源護という他氏族と結託して不当な攻撃を仕掛けてきた良兼や国香らから、己の身と所領を守るために、やむを得ず「少しき合戦」に及んだのだと主張している。ここには、朝廷の権威を否定し、新たな国家を創設しようなどという大それた野心は微塵も読み取れない。将門が忠平に対して訴えかけようとしたのは、中央政界の権威に連なる武門の正統なる後継者として、自らの行為がいかに防衛的であり、かつ一族の歪んだ秩序を正すための「正義の戦い」であったかという一事のみであった。彼は自らの行動が、朝廷を擁護する藤原北家からも理解され、武門の正当な権利行使として承認されることを切に願っていたのである。
しかしながら、歴史の皮肉は、この「正当性回復の闘争」を、個人の意志を超えた巨大な反乱へと押し上げていく。なぜなら、将門が直面し、打倒しなければならなかった伯父の良兼らは、単なる一族の年長者であると同時に、下総守や上総介といった国家の地方行政を担う「受領」としての公的な顔を併せ持っていたからである。将門が自らの失われた遺領を取り戻し、伯父たちの不当な支配を打ち破るために軍事力を拡大し、東国の在地において覇権を確立していく過程は、必然的に良兼らが有する国衙の行政権力との正面衝突を引き起こすこととなった。
将門にとっては親族間の私戦であり、奪われた正当性の奪還であった軍事行動は、朝廷の側から見れば、国司の権威を軽視し、地方の行政秩序を武力によって破壊する許しがたい反乱へとすり替わって映ったのである。ここに、将門自身の内面における「正義」と、国家という枠組みから見た「反逆」という、決定的な評価の乖離が生じた。
結論として、平将門の乱の初期段階における闘争は、野心に駆られた反乱の序曲として評価されるべきものではない。それは、平良将という絶対的な筆頭者の死によってもたらされた権力の空白と、未成熟な相続制度を悪用した年長者たちによって完全に歪曲されてしまった高望王流平氏の内部秩序を、正統なる嫡流としての自負を持つ将門が、自らの命と武門の名誉を賭して本来の姿に引き戻そうとした、極めて正当防衛的な「権利回復のための軍事行動」であったと再評価されなければならない。
将門は狂気の反逆者として乱を起こしたのではなく、あまりにも強大であった父の影を追い求め、奪われた武門の誇りを取り戻そうともがく中で、結果として国家の枠組みそのものと衝突せざるを得なかった悲劇の英雄であったと言える。次節においては、もしこの歴史の歯車を狂わせた最大の要因である「平良将の死」が存在せず、彼が健在であったならば、高望王流平氏と東国社会の歴史はいかなる軌跡を描いていたかという歴史的仮説を検証し、良将という存在の歴史的重みをさらに浮き彫りにする。
【引用元・参考文献】
一、『将門記』
二、『貞信公記』




