第09話 毒舌ハッカーと機械蜂群
網膜に浮かんだ一行の真紅のコードは、幽霊のように数回明滅した。
やがて、それは無数の文字化けへと姿を変え、暗闇の中へと沈んでいった。
ヴィクトリアは静かに息を吸い込む。
指先に漂っていた淡い冷香が、ほんのわずかに震えた。
その微かな異変を、レオンは敏感に感じ取った。
大柄な身体をさりげなく半歩前へ出す。
まるで決して崩れない黒い壁のように、機械油と酸性雨の臭いが混じった底層深淵の濁った空気から、彼女を庇った。
「どうした?」
低い声。
その胸の奥から、獣特有の、相手を安心させるような小さな唸りが響いている。
「何でもないわ。ただ、『心網』が少し面白い雑音を拾っただけ」
ヴィクトリアは小さく首を振った。
レースの盲目バイザーに隠された瞳は見えない。
それでも、レオンには彼女の神経が張り詰めているのが伝わっていた。
「着いたわ」
下水処理場の最深部。
そこには巨大な錆びた金属製の隔壁ゲートが立ちはだかっていた。
表面には、サイバー般若の面を象った紋章が大きく描かれている。
霓虹極道総長、ヴィクター・黒川の個人紋章だった。
二人が近づくより早く――
周囲の闇から、数十本の真紅のレーザーが一斉に走った。
次の瞬間、地面が轟音とともに裂ける。
地下から、全高三メートルにも及ぶ重装『鬼武者』警備機甲が六体、次々と姿を現した。
左腕には高周波チェーンソー。
右腕には神経毒を噴射するガトリング砲。
分厚い装甲には、極道風の浮世絵模様が流れるように描かれている。
そして何より危険なのは――
空気中に、淡い紫色の霧が広がり始めたことだった。
「ナノ神経毒素よ」
ヴィクトリアが静かに告げる。
「一呼吸でも吸い込めば、大脳皮質が溶解するわ」
改良型ゴシックドレスの裾から、高周波振動刃がわずかに半寸だけ姿を現した。
小さな蜂の羽音のような唸りが響く。
レオンの目に、凶暴な光が宿った。
右半面の黒金の生体鱗片が逆立つ。
背中からカーボンファイバー製骨刃が瞬時に射出された。
体内の重力エンジンが低く唸り、周囲に転がっていた瓦礫が重力バランスを失って宙へ浮かび上がる。
「俺が引き裂く」
目の前にあるすべての脅威を叩き潰そうとする、怒れる狂獣そのものだった。
「待って、レオン」
ヴィクトリアが青白い手を伸ばし、彼の熱を帯びた前腕をそっと押さえる。
その指先の冷たさが、奇跡のようにレオンの内側に渦巻いていた狂暴性を鎮めていった。
「毒素と機甲は連動しているわ。力ずくで突破すれば、毒ガスが誘爆する」
「ここは正面突破できない」
レオンはすぐに攻撃態勢を解いた。
骨刃を従順に下ろす。
それでも赤い義眼だけは機甲から一瞬たりとも離れない。
いつでも命を懸けて彼女を守るつもりだった。
膠着状態が続いた、その時。
頭上の換気ダクトから、軽快で、どこか人を食ったような口笛が聞こえてきた。
「ヒュ~、ヒュ~♪」
「いやぁ、探した探した」
陽気な声が響く。
「天下のS級暴君と盲目の調香師お嬢様が、こんなポンコツ鉄クズ数台に門前払いされてるなんてなぁ」
「こんな話が広まったら、極道と雲上貴族の面子はどうなるんだよ?」
声とともに、一人の少年が換気ダクトから飛び降りてきた。
ゆったりとした和風フライトジャケット。
ぼさぼさのピンク色のショートヘア。
頭には巨大な猫耳型ホログラムヘッドホン。
指先では、二本の小型データプローブを器用に弄んでいる。
ジャック・星野だった。
華麗に着地すると、彼はパチンと指を鳴らした。
「お嬢様方、参上しましたぜ!」
その瞬間。
背中のジャケットが大きく裂けた。
中から数百機もの小型ドローンが一斉に飛び出してくる。
銀色の機械蜂群。
それは、まるで一つの巨大な生物のように空中を駆け巡った。
そして一瞬で隊列を組み替える。
無数のドローンが巨大な銀色の盾へと変形し、機甲から放たれた毒素弾を正確に受け止めた。
次の瞬間、蜂群が三つに分かれる。
第一群は小型ドリルへと変形。
幽青色のアーク光をまとい、機甲の関節の隙間へ正確に突き刺さっていく。
第二群は空中で複雑な物理ハッキング端末を形成した。
無数のプローブが雨のように降り注ぎ、隔壁ゲートの物理インターフェースへ次々と接続される。
そして第三群はジャックを中心に旋回し、高速回転するデータリングを形成した。
幾重にも重なる光の中に、サイバーパンク調の般若面が浮かび上がる。
「ワイヤレス・ディープダイブ、三秒で突破!」
ジャックは得意げに笑った。
「お嬢様、よ~く見ててよ!」
十本の指が虚空を猛烈な速度で叩く。
ホログラムキーボードの上を、コードが滝のような勢いで流れていった。
「ピッ、ピッ!」
短い電子音が二度響く。
六体の『鬼武者』機甲の赤い眼が、同時に消えた。
巨大な機体が次々と地面へ倒れ込む。
同時に、空気中に充満していた致命的な紫色の霧が、蜂群から放出された中和剤によって無害な水蒸気へと変わっていく。
重厚な金属製隔壁が、耳障りな機械音を響かせながら左右へゆっくりと開いていった。
「はい、完了!」
ジャックはホログラムキーボードを消す。
「今回の作業代は五万クレジットになります」
そしてヴィクトリアの前へと近づき、猫のような笑みを浮かべる。
「……お嬢様のご依頼ってことで、二割引きの四万でいいよ」
レオンが冷たい視線を向けた。
巨大な身体を一歩前へ出し、ジャックとヴィクトリアの間を完全に遮る。
赤い義眼には、隠す気すらない警告が浮かんでいた。
「彼女から離れろ、鼠」
「え~、そんな怖い顔するなよ、大男」
ジャックは唇を尖らせると、レオンの背後へ回り込み、顔を半分だけ覗かせた。
「俺は金をもらって仕事してるだけだって」
「それに、お嬢様を守ることは俺の信条だからな」
ニヤリと笑う。
「彼女が調合する『冷香』がなきゃ、俺だってこんな底層深淵で生き延びられないんだぜ?」
ヴィクトリアが小さく笑った。
そしてレオンの背後から細い手を伸ばし、一枚の暗号化チップを差し出す。
「これは十万クレジット。お釣りはいらないわ」
「ありがとう、ジャック」
穏やかな声。
そこには、逆らうことのできない冷たさと、不器用な優しさが同居していた。
ジャックはチップを受け取る。
その目が、まるで電気を通した電球のように一瞬で輝いた。
一方、耳元はほんのり赤くなっている。
「……ゴホン」
ジャックは照れ隠しのように咳払いした。
「お嬢様、太っ腹だね」
「またこういう汚れ仕事が必要になったら、いつでも呼んでくれよ!」
三人は隔壁をくぐり、ヴィクターの中枢実験室へと足を踏み入れた。
感応式の照明が一斉に点灯する。
その瞬間――
死線を幾度も潜り抜けてきたレオンでさえ、瞳孔を大きく縮めた。
そこは巨大な円形空間だった。
中央には、全高五メートルにも及ぶ円柱型培養槽が数十基、立ち並んでいる。
淡い緑色の培養液の中に、いくつものおぞましい『生体』が浮かんでいた。
彼らの身体には極道構成員の機械義体が組み込まれている。
だが、その肉体には雲上貴族の『獣化遺伝子』が強制的に移植されていた。
ある者は、顔の半分が精巧なヨーロッパ古典彫刻のように美しく整えられている。
しかし、残り半分には凶悪な獣化鱗片がびっしりと生えていた。
また別の者は背中を切り開かれ、脊椎へ太い光ファイバーを無理やり縫いつけられている。
ケーブルは天井に設置されたAI主脳へと直結していた。
培養液の中では絶えず気泡が浮かび上がっている。
実験体たちは意識を失っているはずなのに、その顔面の筋肉は激しく痙攣していた。
まるで、終わりのない苦痛に耐え続けているかのように。
古典的な優雅さ。
サイバー世界の血なまぐさい残酷さ。
その二つがこの場所で絡み合い、歪んだ絶望的な美を作り出していた。
「ヴィクター……あの狂人め……」
レオンは歯を食いしばった。
怒りによって、体内の重力エンジンが危険な唸りを上げる。
ヴィクトリアは静かに、この光景を『見つめて』いた。
【盲眼心網】を通して流れ込んでくる、実験体たちの絶望的な脳波。
それが針のように彼女の神経を刺した。
そして、ついに理解する。
ヴィクターは単に地下義体市場を独占しているだけではない。
底層極道の構成員を実験台にしていたのだ。
目的は――
『獣化遺伝子』と『AI神』の神経リンクを完全に融合させること。
これこそが、彼女の一族を滅ぼした血の復讐の裏側に隠されていた、吐き気を催す『進化』の真相だった。
「中枢データベースは、中央制御卓にあるわ」
ヴィクトリアは押し寄せる感情を必死に抑え込んだ。
それでも、その声は恐ろしいほど平静だった。
ジャックはすぐに軽口を封印した。
素早く制御卓へ駆け寄り、物理ポートへ指を接続する。
「さあて、ヴィクターの秘密を全部ひん剥いてやるか……」
だが――
「……待て」
ジャックの声が止まった。
「この暗号化レベル……」
ホログラムヘッドホンの青い光が激しく明滅する。
次の瞬間、それが目を刺すような真紅へと変わった。
ジャックの身体が、突然ぴたりと硬直した。
焦点の合わない目。
その脳裏の奥深くで、幾重ものファイアウォールによって封印されていた記憶の断片が、突然爆発した。
冷たい解剖台。
純白の燕尾服を身につけたアレクサンダー・神宮寺。
そして――
頭蓋内へ強制的に埋め込まれていく、青く明滅するAIコア。
「う、うあああああ――!」
ジャックが絶叫した。
両手で頭を激しく抱え込む。
指の隙間から鮮血が滲み、鼻血が制御卓へと滴り落ちた。
その瞬間。
中央の巨大スクリーンに流れていたデータが、一斉に歪み始めた。
文字列が崩壊する。
無数のコードが絡み合う。
そして、それらはやがて――
巨大な機械の眼球へと姿を変えた。
まるで目の前の三人を嘲笑うかのように。
機械の眼が、ゆっくりと開く。
そして、逃げ場などどこにもないというように、三人をじっと見つめていた。




