第10話 偽善を引き裂く序幕
巨大な機械眼球が、スクリーンの中で狂ったように回転していた。
瞳孔の奥では、猩紅色のコードが絶え間なく明滅している。
けたたましい警報音が鳴り響くと同時に、円形実験室を満たしていた淡緑色の培養液が激しく沸騰し始めた。
培養槽の中では、半機械・半獣化した実験体たちが苦痛に身をよじり、耳を塞ぎたくなるような絶叫を上げている。
「物理接続を切断! ジャック、意識を死守して!」
混乱の渦中に、ヴィクトリアの冷ややかな声が響いた。
まるで、氷泉が硬い岩を打つような澄んだ声だった。
彼女は素早くジャックの前まで歩み寄ると、紙のように白い指先を少年の後頸部にある神経インターフェースへそっと当てた。
すると、冷たい薔薇の香りに、かすかな血の匂いが混じった特殊な情報素が、指先から静かに浸透していく。
ヴィクトリアが独自に調合した――『鎮静剤』。
暴走した脳波を、強制的に鎮める効果を持つ情報素だった。
ジャックの全身がびくりと震える。
焦点の合っていなかった両目が、徐々に正常な光を取り戻していく。
「は、はあ……はあ……。た、助かったよ、姐御……」
ジャックは荒い息を吐きながら、額の冷や汗を拭った。
「このファイアウォールの中に、精神汚染ウイルスが仕込まれてる。マジでヤバすぎる……!」
「本当の核心は、制御端末じゃないわ」
ヴィクトリアはわずかに顔を傾けた。
欧風レースの盲眼罩の下で、【盲眼心網】が周囲の熱画像と電磁波の変動を余すところなく捉えている。
彼女は手を上げ、円形空間の最奥を指差した。
そこには、一見すると何の異常もない合金製の壁がある。
「その向こうに生命反応がある。それに……エネルギー値が異常に高い」
レオンは何も言わなかった。
ただ、一歩踏み出す。
二メートル近い巨体が、一瞬にして爆発的な力を解き放った。
右半顔を覆う黒金のバイオニック鱗片の下で、岩石のように隆起した筋肉が脈打つ。
右拳を握り締める。
腕鎧の内部で、重力エンジンが耳をつんざくような轟音を上げた。
そして――
「ドゴォォンッ!」
拳が合金壁を正面から撃ち抜いた。
分厚い合金壁は、まるで紙切れのように砕け散る。
舞い上がった煙塵の向こうから、巨大な円柱形培養槽が姿を現した。
高さ、十メートル。
だが、その内部に培養液は存在しなかった。
そこにあったのは――
無数の太い光ケーブルと神経束によって宙吊りにされた、一人の人間の身体。
男は、日本の極道に伝わる伝統的な月代頭に剃り上げられていた。
頭皮に埋め込まれた神経インターフェースが、幽かな青い光を放っている。
左腕は異様なほど巨大な重装型機械義手。
その表面に刻まれた『サイバー般若』の面相が、男の呼吸に合わせるように、不気味に歪んでいた。
「ここまで辿り着くとはな……」
宙吊りになった男が、低く呟いた。
「お前ら下水道のネズミどもには、少しばかり驚かされたぜ」
次の瞬間――
男の両目が、カッと見開かれた。
バチィッ!
身体を拘束していた光ケーブルが一斉に弾け飛ぶ。
ヴィクター・黒川の巨体が金属床へ激突し、衝撃波が円を描いて広がった。
男は半分だけ残った電子タバコを口に咥えたまま、狂気じみた笑みを浮かべる。
左腕の機械関節が、耳障りな金属音を響かせた。
「ヴィクター!」
レオンの猩紅色の獣化義眼が、敵を睨み据える。
極限まで高まった怒りに呼応するように、体内のS級獣化遺伝子が沸騰し始めた。
背中の皮膚が裂ける。
その裂け目から――
二本のカーボンファイバー製骨刃が、血珠を飛び散らせながら勢いよく射出された。
「そう急いで死ぬなよ、混血の雑種」
ヴィクターは電子タバコを吐き捨てた。
すると、左腕に刻まれた般若の面が、幽かな青色から狂暴な血紅色へと一瞬で変化した。
「お前らに見せてやるよ」
口元が大きく吊り上がる。
「本当の『進化』ってやつをな!」
「義体オーバークロック――300%!」
その言葉が終わるより早く。
ヴィクターの姿が、その場から消えた。
残されたのは、空気を切り裂く紫紅色の残像。
そして――
濃密な神経毒の霧。
「気をつけろ!」
レオンが怒鳴った。
巨大な身体が瞬時に横へ滑り、ヴィクトリアの前に立ちはだかる。
背中のカーボンファイバー製骨刃を交差させた。
「ガギィィン!」
激しい金属音。
火花が四方へ飛び散った。
ヴィクターの機械重拳が、レオンの骨刃へ真正面から叩き込まれていた。
その凄まじい衝撃に、レオンの両足が合金床を削りながら後退する。
床には、二本の深い溝が刻まれた。
「遅ぇ!」
ヴィクターが狂ったように笑う。
「弱ぇんだよ!」
左腕の排気孔が一斉に開いた。
そこから、高濃度の紫紅色神経毒が猛烈な勢いで噴き出す。
この毒は金属さえ腐食させる。
そして何より恐ろしいのは――
生体の神経シナプスそのものを、直接溶解させることだった。
「ぐっ……!」
レオンが低く呻く。
毒が骨刃の隙間から侵入していく。
その瞬間から、彼の動きが目に見えて鈍り始めた。
猩紅色の義眼が、不規則に明滅する。
「レオン」
ヴィクトリアの声が響く。
「三歩下がって。左へ十五度」
その声には、微塵の動揺もなかった。
ヴィクトリアはその場に静かに立っていた。
ゴシック調のロングドレスの裾だけが、流れ込む気流に揺れている。
彼女は視力を失っている。
それでも――
【盲眼心網】は、すでにヴィクターの一挙手一投足、そのすべての軌道を捉えていた。
「ヴィクトリア、来るな!」
レオンが歯を食いしばる。
「こいつの毒は……!」
彼は必死に彼女を遠ざけようとする。
致命的な毒霧が、彼女の脆い身体に触れることだけは絶対に避けたかった。
「私を信じて」
ヴィクトリアは静かに言った。
そして両手を持ち上げる。
十本の指が、空中を優雅に舞った。
まるで、見えないピアノを奏でるかのように。
その指先の動きに呼応して――
無色透明。
無臭。
それでいて、極限まで冷たい気配を帯びた情報素が、ヴィクトリアを中心に轟然と広がった。
それは――
家族を皆殺しにされた痛みを触媒として、彼女自身が調合した特殊な情報素。
『逆転・遺伝子崩壊素』。
紫紅色の毒霧が、その情報素に触れた瞬間――
まるで雪が烈火に焼かれるように、瞬時に消滅していく。
だが、本当に恐ろしいのはそれだけではなかった。
情報素はヴィクターの呼吸器官から侵入し、さらに機械義体の隙間をすり抜け――
彼の神経回路へ直接侵入した。
「ぐ、あああああああ――!」
ヴィクターが絶叫する。
左腕の般若面の刺青が狂ったように明滅した。
機械義体と生身の肉体との接合部から、大量の火花が吹き上がる。
遺伝子拒絶反応が、情報素によって一気に限界まで増幅されたのだ。
ヴィクターの神経系は完全に混乱へと叩き込まれた。
「今よ!」
ヴィクトリアが鋭く叫ぶ。
レオンは意図を即座に理解した。
神経毒が全身を蝕む激痛に耐えながら、体内の重力エンジンを強制的にオーバーロードさせる。
ドンッ!
レオンを中心として、半径十メートルの空間が一瞬で異常な重力場へと変貌した。
――重力、十倍。
宙に浮いていた培養液の滴が、凄まじい勢いで床へ叩きつけられる。
ヴィクターの身体もまた、逃れることができなかった。
「ぐっ……!」
巨大な重圧に押し潰され、ヴィクターが片膝を金属床へつく。
「死ねぇぇぇ!」
レオンが咆哮した。
背中の骨刃が、二本の黒い稲妻へと変わる。
次の瞬間――
ズドンッ!
二本の骨刃が、ヴィクターの機械左腕にある神経ノードを正確に貫いた。
そのまま彼の身体ごと、背後の培養槽外殻へ縫い止める。
「ぐっ……!」
ヴィクターの機械左腕が完全に沈黙した。
般若面の刺青から放たれていた光も、ゆっくりと消えていく。
やがてヴィクターは、力を失った泥人形のように崩れ落ちた。
その瞳には――
ただ、信じられないという色だけが浮かんでいた。
戦闘は、あまりにも早く終わった。
レオンは荒い息を吐きながら、ゆっくりと骨刃を収納する。
そしてヴィクトリアへ振り返った。
先ほどまで殺意に燃えていた猩紅色の獣眼から、凶暴さが跡形もなく消えている。
そこに残っていたのは――
どこか不器用で、壊れ物に触れるような優しさだった。
レオンは無意識に、血で汚れていない手の甲で自分の顔を拭った。
こんな殺戮兵器のような姿を見て、彼女を怯えさせたくない。
それ以上に――
自分の身体から漂う血と毒の臭いで、彼女を不快にさせたくなかった。
「……怪我はないか?」
低く、掠れた声。
そこには、本人さえ気づいていない微かな緊張が滲んでいた。
ヴィクトリアは小さく首を横に振った。
そしてドレスの裾にある隠しポケットから、冷香の漂うハンカチを取り出す。
それをレオンへ差し出した。
「あなたの重力エンジン、オーバーロードしているわ」
ヴィクトリアは静かに告げる。
「左肋骨の拒絶反応用の縫合部も、裂けている」
レオンは一瞬、呆然とした。
それから素直にハンカチを受け取る。
その耳元が――
ほんのりと、怪しいほど赤く染まった。
底層深淵の住人たちから恐れられる狂獣。
そんな男が、盲眼の少女の前では――
まるで巨大な犬のように従順だった。
「姐御!」
ジャックが制御端末の前から飛び上がった。
ホログラフィック・ヘッドホンの青い光が、ようやく安定している。
「データのダウンロード、完了!」
ジャックは得意げに笑った。
「ヴィクターのパンツまで全部ひん剥いてやったぜ! このクソ爺の核心機密、ぜーんぶここに入ってる!」
そして周囲を見回す。
「さっさと撤退しよう! ここ、もうすぐ蜂の巣みたいになるぞ!」
「行くぞ」
レオンは受け取ったハンカチを大切そうにしまい、二人を護衛するため歩き出そうとした。
――その瞬間。
頭上から、異様に鋭い高周波の切断音が響き渡った。
「ジジジジ――ッ!」
「ドォォン!」
実験室のドーム天井。
厚さ五十センチにも及ぶ防爆合金層が――
何か極めて鋭利な力によって、まるで紙のように切り裂かれた。
裂け目から、目を焼くほどの強烈な光が降り注ぐ。
そして――
六枚の、純粋な硬光で構成された『天使』の機械翼。
その中心から、小柄な人影がゆっくりと降下してきた。
セシリア・九条。
彼女はロリータ調のサイバーパンクドレスを身にまとっていた。
ツインテールにはホログラム投影による青い光が瞬き、整った顔には、病的なまでに熱狂した赤みが浮かんでいる。
背後では六枚の硬光機械翼が、ゆっくりと羽ばたいていた。
一度翼が動くたび――
空気そのものに、致命的な切断軌跡が刻まれる。
「まあまあ……」
セシリアは小首を傾げた。
「なんて素敵なショーなのかしら」
その瞳には、背筋が凍るほどの執着と嫉妬が宿っている。
「龍馬様が怒っている姿……」
唇が恍惚に歪む。
「本当にセクシーすぎて、今すぐ壊れてしまいたくなるくらいですぅ」
「セシリア!」
レオンの眼差しが、一瞬で冷え切った。
同時に、重力エンジンが再び危険な唸り声を上げる。
「しぃ――っ」
セシリアは細い人差し指を唇に当てた。
次の瞬間――
背後の六枚の硬光翼が、爆発的に膨張した。
「シュッ!」
「シュッ!」
「シュッ!」
六本の青い光刃が、音速を超える勢いで実験室の周囲へ走った。
厚い合金壁。
隠された換気ダクト。
そして――
彼らが入ってきたときに通った隔壁ゲートまで。
すべてが、硬光翼の切断能力によって豆腐のように切り裂かれ、崩れ落ちていく。
一瞬にして――
実験室から逃げ道が消えた。
四方を完全に封鎖された空間は、鋼鉄の牢獄へと変貌する。
ジャックが思わず息を呑んだ。
「マジかよ……!」
指が仮想キーボードの上を猛烈な速度で走る。
「物理空間と仮想空間、両方ともロックされてる!」
顔から血の気が引いた。
「これ……完全に閉じ込められたぞ!」
セシリアは軽やかに床へ着地した。
六枚の硬光翼が背後でゆっくりと収束する。
その姿はまるで――
この世に舞い降りたサイバー天使。
だが、彼女は敵意をむき出しにするレオンにも、緊張したジャックにも目を向けなかった。
ただひたすらに――
レオンを見つめている。
傷だらけになりながらも、なお圧倒的な力を秘めたその肉体へ。
その瞳には、狂気じみた愛情が燃え上がっていた。
そして――
セシリアの視線が、ゆっくりと下へ落ちていく。
向かった先は、欧風レースの盲眼罩に覆われたヴィクトリアの白い顔。
セシリアの口元が、少しずつ、少しずつ吊り上がっていく。
その笑みは病的なほど甘く――
しかし、その声には骨まで凍りつくような冷気が宿っていた。
「龍馬様……」
「あなたの身体も――」
そして、ヴィクトリアへ視線を向ける。
「あなたの隣にいる、その盲目の女の『目』も――」
狂気に満ちた笑みが、さらに深くなる。
「全部、私のものです」




