第11話 深淵からの逃亡と硬光の翼
「私のものに手を出すなんて――誰にも許さないんだから!」
セシリアが可愛らしく笑った。
その瞬間、背後の六枚の硬光翼が、一斉に六本の青い死の光刃へと変貌する。
光刃は肉眼では捉えきれない速度で実験室を縦横無尽に駆け巡り、瞬く間に逃げ場のない切断網を形成した。
厚さ五十センチにも及ぶ防爆合金の壁が、熱したナイフでバターを切るように、音もなく滑り落ちていく。
切断面は恐ろしい暗赤色に溶融していた。
「くそっ! あの女、硬光出力が少なくとも軍用兵器クラスに達してるぞ!」
ジャックが叫びながら、猿のように身体をひねって転がる。
直後――
一筋の光刃が、頭皮すれすれを掠めて通過した。
頭頂部にあった数本のピンク色の短髪が、一瞬で気化する。
焦げ臭い匂いが、実験室いっぱいに広がった。
ヴィクトリアは、その場から一歩も動かなかった。
銀白色の長髪だけが、巻き起こる気流に揺れている。
彼女は視力を失っている。
それでも――
【盲眼心網】は、周囲で起きているすべてを正確に捉えていた。
ヴィクトリアの感覚の中で、セシリアの六枚の硬光翼は六つの極めて危険な高熱源として浮かび上がっている。
翼が振り抜かれるたび、周囲の空間にはごく微細な歪みが生じていた。
「左前方、三時方向。距離四メートル」
ヴィクトリアの冷静な声が、レオンの耳元へ届く。
「下段攻撃」
レオンに迷いはなかった。
左目の猩紅色の光が一気に強くなる。
右腕を瞬時に構えた。
「ガキィィン!」
耳をつんざくような金属音が炸裂した。
レオンの足元にあった高強度合金床が、蜘蛛の巣のようにひび割れる。
硬光翼が右前腕の黒金バイオニック鱗片へ叩き込まれ、眩い火花が一面に散った。
鱗片を貫いて、骨に届きそうなほど深い白い傷が刻まれる。
「あら……龍馬様」
セシリアは首を傾げた。
頬には病的な赤みが広がっている。
「こんな目の見えない女のために、身を挺して刃を受けるなんて……」
瞳に、歪んだ嫉妬が浮かぶ。
「私、胸が張り裂けそうなくらい悲しいです」
そして、甘ったるい笑みを浮かべた。
「この女の皮を剥いで標本にしてしまえば――」
「龍馬様は、私だけを見てくれるようになりますよね?」
「……死にたいらしいな」
レオンの声は、地獄の底から響く雷鳴のように低かった。
体内のS級獣化遺伝子が、完全に暴走を始める。
右半顔を覆っていた黒金の鱗片が、瞬く間に首筋へまで広がっていく。
「ガキンッ!」
背中からカーボンファイバー製骨刃が飛び出し、古びた羽織を一瞬で引き裂いた。
同時に、遺伝子拒絶反応による激痛が全身を襲う。
何千本もの鋼鉄の針を、一斉に骨髄へ突き刺されたような痛み。
筋肉が勝手に痙攣する。
それでも――
ヴィクトリアを見るレオンの目から、優しさだけは消えなかった。
「雪絵……」
低く唸るような声。
「俺にしっかり掴まれ」
レオンの体内で、重力エンジンが悲鳴を上げた。
安全限界など、完全に無視している。
エンジン負荷――
150%。
「ドォォォン!」
レオンを中心として、周囲の重力場が一瞬で収縮した。
次の瞬間――
爆発的に膨張する。
暴走した重力波が実験室全体を薙ぎ払った。
周囲にあった機器や装置が、次々と圧壊する。
金属製の機械も、制御端末も、培養設備も――
すべてが粉々の破片へと変わっていく。
セシリアの顔に浮かんでいた病的な笑みが、初めて凍りついた。
「……っ!」
彼女の身体へ、抗いようのない凄まじい斥力が襲いかかる。
「行くぞ!」
レオンはヴィクトリアの身体を片腕で抱き寄せた。
そして空いたもう一方の手で、ジャックの襟首をひっ掴む。
「うわっ、ちょ――!」
次の瞬間。
レオンの両脚が爆発的な力を解き放った。
その巨体が、まるで発射された大型砲弾のように飛び出す。
向かった先は――
実験室の奥に残された、唯一完全には切断されていなかった耐力壁。
「ドゴォォォン――!!」
150%まで引き上げられた重力エンジンの力を乗せた一撃によって、厚さ一メートルの鉄筋コンクリート壁が紙細工のように吹き飛んだ。
コンクリート片と鉄筋が空中へ舞い上がる。
三人の姿は、そのまま巨大な亀裂の向こうへ消えた。
底が見えない、深淵の裂け目へ。
「龍馬様ぁぁぁ!」
セシリアが激昂した声を上げる。
「逃げられると思わないでください!」
六枚の硬光翼が激しく羽ばたいた。
セシリアの身体が青い流星へと変わり、レオンたちが開けた穴へ向かって一気に急降下していく。
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### 新バビロン・深淵下水道
新バビロンの最も汚れた臓腑。
そこは、都市の底に広がる巨大な下水道網だった。
鼻を突く悪臭。
化学廃棄物特有の刺激臭。
天井の格子から漏れ込む幽かな緑色のネオンが、濁った汚水の水面に奇怪な光景を映し出している。
レオンはヴィクトリアを抱えたまま、複雑に入り組んだ巨大配管の上を高速で跳び移っていた。
しかし――
150%という無茶なオーバーロードの代償が、すでに身体を蝕み始めていた。
呼吸が荒い。
一歩踏み込むたび、金属製の配管が大きくへこむ。
「ゴホッ……!」
レオンが激しく咳き込んだ。
口元から吐き出されたのは――
内臓の破片が混じった血。
重力エンジンの過負荷によって、内臓そのものが深刻な圧迫を受けていた。
「レオン」
ヴィクトリアの声が響く。
「あなたの遺伝子鎖が崩壊している。止まって」
声はいつも通り冷静だった。
だが――
レオンの身体に触れている指先だけが、かすかに震えていた。
「……言っただろ」
レオンは歯を食いしばる。
左目の猩紅色の光が、不安定に明滅している。
「必ず……お前を外へ連れていく」
その言葉には、何があっても彼女だけは守るという意志が込められていた。
だが――
後方から迫る気配は、消えない。
セシリアの追撃。
硬光翼が下水道の配管を切り裂く耳障りな音が、暗闇の中で何度も反響する。
少しずつ。
少しずつ。
近づいてくる。
「前、行き止まりだ!」
ジャックが網膜ディスプレイに表示されたマップを確認し、絶望したように叫んだ。
「完全な袋小路だ!」
しかし、ヴィクトリアはジャックの声に反応しなかった。
彼女はわずかに顔を上げる。
レースの盲眼罩に覆われた顔が、右側へ向いた。
【盲眼心網】が捉えていた。
右側の壁の向こう。
そこには大量の化学廃棄物が溜まった処理槽が存在している。
しかも、その中には――
高濃度の硫化物。
そして、工業用強酸。
ヴィクトリアの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「ジャック」
「ん?」
「右側の排水バルブをハッキングして」
そして続ける。
「開けて」
ヴィクトリアはドレスの裾にある隠しポケットから、三本のガラス試験管を取り出した。
それぞれ、中に入っている液体の色が違う。
「おいおい、正気か?」
ジャックが顔を引きつらせる。
「そんな廃液を流したら、俺たちまで骨ごと溶けるぞ!」
そう文句を言いながらも――
すでに指は仮想キーボードの上を猛烈な速度で走っていた。
「……よし!」
ジャックが叫ぶ。
「開いた!」
「ゴゴゴゴゴ――!」
右側の壁が低く震える。
やがて隠されていた扉が開き――
粘り気のある、刺激臭を放つ化学廃液が、滝のように流れ落ちてきた。
ヴィクトリアは三本の試験管を指先で軽く弾いた。
三本は正確な軌道を描き、廃液の中へ落下する。
パリンッ!
試験管が割れた。
中に入っていたものは、通常の化学試薬ではない。
ヴィクトリアが独自に調合した――
『情報素触媒』。
「目を閉じて」
ヴィクトリアが静かに言う。
「息も止めて」
次の瞬間。
触媒が高濃度の工業廃液と接触した。
――反応開始。
極めて激しい連鎖反応が、一瞬にして引き起こされる。
暗緑色だった廃液が、猛烈な勢いで沸騰し始めた。
そして――
紫黒色の腐食性ガスへと変貌する。
濃密な毒霧が、爆発したかのような勢いで周囲へ膨張していった。
「なんだ、このクソみたいな霧は――!?」
追ってきたセシリアが、そのまま紫黒色の毒霧へ突っ込んだ。
「ジュルルルル――!」
耳障りな腐食音が響き渡る。
硬光翼は確かに鋭い。
だが、その発生器の外装まで完全な耐腐食仕様ではなかった。
高濃度の化学毒霧が情報素触媒によって異常反応を起こし――
恐るべき『消滅反応』を引き起こす。
「バチバチバチッ!」
セシリアの背後に展開されていた六枚の硬光翼が、一斉にショートした。
激しい電火花が弾ける。
青い光刃が急速に弱まっていく。
「いやぁぁぁぁ!」
セシリアが絶叫した。
「私の翼がぁぁぁ!」
「私の完璧な武装がぁぁぁ!」
毒霧が彼女の呼吸器へ侵入する。
同時に、仿生皮膚の表面が徐々に腐食されていく。
セシリアはやむを得ず硬光翼への出力を遮断した。
そのまま必死に上方へ逃げる。
一時的に、下水道から撤退するしかなかった。
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危機は、ひとまず去った。
だが――
「……っ」
レオンの膝から力が抜けた。
ドサッ。
片膝を配管の上につく。
背中のカーボンファイバー製骨刃が、力なく身体の内部へ戻っていく。
右半顔の鱗片の隙間から、細い血が流れ落ちる。
遺伝子拒絶反応による激痛が全身を貫き、身体が激しく震えていた。
その姿はまるで――
死を目前にした、一匹の孤独な狼。
ヴィクトリアは静かに彼の腕から抜け出した。
そして、その場にしゃがみ込む。
紙のように白い指先が伸びる。
その先には、淡い銀色の霧がまとわりついていた。
冷香を帯びた、銀色の情報素。
ヴィクトリア自身の情報素だった。
彼女は指先をそっとレオンの眉間へ触れさせる。
冷たい情報素が神経末梢を伝って、レオンの脳へと流れ込んでいく。
暴走していた遺伝子鎖を、強制的に鎮める。
魂そのものを引き裂くような激痛を、少しずつ和らげていく。
「……っ、はぁ……」
レオンの荒かった呼吸が、徐々に落ち着いていく。
やがて彼は顔を上げた。
猩紅色に輝く獣化義眼。
そこに宿っていた凶暴さと殺気は、ヴィクトリアを見た瞬間、跡形もなく消えていた。
代わりに浮かんだのは――
どこか不器用で、ひどく一途な優しさと依存。
まるで撫でられた大型獣のように、レオンは無意識に顔を動かした。
そして――
ヴィクトリアの冷たい手のひらへ、頬をそっと擦り寄せる。
「……怖がらなくていい」
ヴィクトリアは優しく囁いた。
「私がいるわ」
指先で、レオンの口元についた血をそっと拭う。
その光景を横で見ていたジャックは、思い切り白目を剥いた。
そして両手で目を覆う。
「見ちゃいけない! 見ちゃいけない!」
「俺、二十年間ずっと独身なんだけど!」
「こんなの見せられたら、俺の純粋な独身ハートが光で焼き尽くされるんだけど!」
ジャックは大げさに頭を抱えた。
「ほら、早く行こうぜ!」
「さっきの狂女、どうせまた追ってくるに決まってる!」
三人は再び歩き始めた。
複雑に入り組んだ排水管を抜け、何度も分岐を曲がる。
やがて――
極道残党が密かに確保していた隠れ拠点へと辿り着いた。
そこは、廃棄された地下防空壕だった。
重厚な鉛製の扉が、三人の背後でゆっくりと閉じる。
外の喧騒。
追跡者の気配。
そして新バビロンの危険な闇。
すべてが、厚い扉の向こうへ隔絶された。
防空壕内部は薄暗い。
古びた非常灯が、弱々しい黄色の光を点滅させている。
空気には、機械油とカビの臭いが混じっていた。
レオンが周囲を警戒しながら拳を握る。
「……ここが、お前の言っていた安全な隠れ家なのか?」
ジャックは胸を張った。
「もちろんだって!」
「これは俺がブラックマーケットから大金を払って買った、正真正銘の安全座標で――」
そこで、ジャックの言葉が途切れた。
防空壕の最奥。
そこに――
一台の古びた金属製手術台があった。
そして、その上に。
一人の少女が静かに座っていた。
年齢は十五、六歳ほどに見える。
身体には、大きすぎてサイズの合っていない白い病衣。
銀白色の短髪が顔の半分を覆っている。
露出している下半分の顔は、透き通るほど白かった。
少女の瞳には、何も映っていない。
空虚で、焦点が合っていない。
人間らしい感情が、一切存在しない。
まるで――
精巧に作られた球体関節人形。
三無少女――リリス。
彼女は、入ってきた三人を静かに見つめていた。
いや――
正確には。
その視線は、ヴィクトリアだけに固定されていた。
ヴィクトリアはわずかに眉を寄せた。
何かがおかしい。
彼女は、先ほどレオンを鎮めるために放出した情報素が、まだ空気中に残っていることを敏感に察知した。
肉眼では見ることのできない銀色の情報素粒子。
それがまるで、何か未知の力に引き寄せられるように――
次々とリリスの身体へ流れ込んでいる。
「……!」
ヴィクトリアの表情がわずかに変わった。
少女の白い肌。
その下に――
幽かな青いデータストリームの光が浮かび上がっている。
そして、何も宿していなかった瞳の奥で。
何かが――
ゆっくりと目を覚まそうとしていた。
「ジャック……」
ヴィクトリアの声は相変わらず冷静だった。
だが、その指先はすでにドレスの裾へ伸びている。
隠し持っていた高周波振動刃を、そっと握り締めた。
「あなたが買ったこの座標には……」
彼女はリリスから目を逸らさない。
「どうやら、とんでもない『おまけ』が付いていたみたいね」
リリスの唇が、ゆっくりと開いた。
そして――
少女の声とは思えない、背筋を凍らせる電子合成音が響いた。
「検……知……」
「高純度……」
「遺伝子……キー……」
一拍。
少女の瞳の奥で、幽青色のデータストリームが明滅する。
「吸収……」
「進行率……」
「……10%……」




