第12話 白紙の少女の思い
「検……知……高純度……遺伝子キー……吸収……進行率……10%……」
リリスの感情の起伏を一切感じさせない電子合成音が、広大な防空壕の中へ不気味に響き渡った。
その冷たさは、人間の声とは思えないほどだった。
レオンは瞬時にヴィクトリアを背後へ庇った。
「ガキンッ!」
背中からカーボンファイバー製骨刃が飛び出す。
黒金のバイオニック鱗片の隙間から覗く猩紅色の獣眼が、手術台に座る少女を睨み据えた。
体内の重力エンジンが低い唸りを上げる。
周囲の空気が重力によって歪み、目に見えない波紋が空間へ広がっていく。
「動かないで」
しかし――
ヴィクトリアが静かにレオンの太い腕へ手を添えた。
指先から伝わる冷たさに、さっきまで殺気を漲らせていた狂獣が、瞬時に静まり返る。
欧風レースの戦術盲眼罩に覆われたヴィクトリアの顔は、相変わらず冷静だった。
だが、その【盲眼心網】はすでにリリスの身体構造を完全に解析していた。
ヴィクトリアの感覚の中で――
リリスの身体には、人間の内臓も骨格も存在していない。
そこにあるのは、ナノメートル単位まで精密に構築された無数の量子回路。
肉眼では見えない銀色の情報素粒子が、その量子回路を通りながら完璧に解析され、再構成されている。
「警報!」
ジャックの声が防空壕内に響いた。
指が仮想キーボードの上を残像のように走っている。
「外層の偽装ネットワークが破られた!」
額には冷や汗が浮かんでいた。
「セシリアの『猟犬』だ!」
「九条家の硬光兵装を搭載した重装殺戮機甲が三機!」
ジャックが顔を引きつらせる。
「くそっ! どうやってここを追跡したんだよ!?」
「ドォォン――!」
答えを待つ暇もなかった。
厚い鉛製の扉が、強引に溶断される。
眩い青い光が、耳障りな金属音とともに暗い防空壕へ流れ込んだ。
瓦礫を踏み砕きながら、三機の大型重装機甲が姿を現す。
装甲には九条家の家紋。
肩部に搭載された硬光砲が、すでにエネルギー充填を開始していた。
三人へ照準が向けられる。
「死にたいらしいな!」
レオンが怒鳴った。
重力圧壊を起動し、この三体の鉄屑を肉塊に変えようとする。
――だが。
レオンが踏み込むより早く、一つの白い小さな影が飛び出した。
リリスだった。
少女が動いた。
義体による強化はない。
遺伝子獣化による暴走もない。
それなのに――
その一歩は、先ほどレオンが排水管の上で敵を仕留めたときの踏み込みと、完全に同じだった。
極道の最深部に伝わる、最も核心的な歩法。
『逆鱗斬』。
それをリリスは、絶対的な精度を誇る生体力学演算によって最適化していた。
一切の無駄がない。
「シュッ!」
リリスの白い身体が、まるで幽鬼のように第一機甲の攻撃死角へ滑り込む。
細く、青白い指が揃えられる。
それは――
刀のような形になった。
次の瞬間。
指先から、レオンのカーボンファイバー製骨刃と同じ高周波振動が発生した。
重装義体のような力はない。
だが、彼女には――
『完全模倣』があった。
力を一点へ集中。
最小限の動きで、最大の破壊力を生み出す。
ズンッ!
リリスの指先が機甲の内部へ入り込み、神経伝達束を一瞬で切断した。
第一機甲の動きが完全に止まる。
だが、リリスは止まらない。
そのまま機甲を足場にして跳躍。
白い身体が宙へ舞う。
両脚が、レオンの必殺技――
『龍馬旋回蹴り』
とまったく同じ軌道を描いた。
ただし、そこにはさらに――
重力エンジンの振動原理まで組み込まれている。
「ドンッ!」
「ドゴォッ!」
二つの衝撃が同時に炸裂した。
残る二機の頭部コアが、内部から一気に破裂する。
爆発。
火花。
そして沈黙。
わずか三秒。
底層極道の住人たちすら恐れる重装殺戮機甲三機が――
あっという間に、火花を散らす鉄屑へと変わった。
ジャックは口をあんぐりと開けた。
猫耳ホログラム・ヘッドホンが激しく明滅し、意味不明な文字列を吐き出している。
「……は?」
「いや、待て待て待て!」
「これ、チートだろ!?」
ジャックは目の前の光景を理解できない。
「姐御の動きだけじゃない!」
「ボスの力の入れ方まで完全コピーしてやがる……!?」
しかし――
危機はまだ終わっていなかった。
破壊された機甲のコアが激しく明滅する。
セシリア特有の幽青色硬光エネルギーが、制御を失っていた。
次の瞬間――
大規模な誘爆が起きる。
「下がって!」
ヴィクトリアは高周波振動刃を握り締めた。
高濃度の情報素を放出し、エネルギーを中和しようとする。
だが――
リリスが動いた。
少女は、爆発の中心へまっすぐ歩いていく。
「おい、ちょっと待て!」
ジャックが叫ぶ。
リリスは止まらない。
少女が口を開く。
空洞の瞳に、暴走する青い光が映り込む。
そして――
次の瞬間。
防空壕そのものを吹き飛ばすほどの硬光エネルギーが、まるで巨大な鯨が海水を吸い込むように、リリスの身体へ流れ込んでいった。
「――!」
ヴィクトリアの【盲眼心網】が激しく警報を鳴らす。
リリスの白い肌の下。
幽かな光が浮かび上がる。
一瞬だけ――
六枚の硬光で形成された『天使』の機械翼。
その幻影が浮かび上がった。
だが、それもすぐに消えた。
すべてが、リリスの量子回路の中へ吸収されていく。
その瞬間。
ヴィクトリアは、ついに理解した。
リリスの本質を。
彼女は普通の少女ではない。
まして、通常のAIですらない。
彼女は――
『AI神』計画のために造られた、高次元の器。
あらゆるエネルギー。
あらゆる技術。
あらゆる戦闘パターン。
それらを完全に解析し、模倣し、そして吸収する――
生きたブラックボックス。
「吸収……完了」
リリスが淡々と呟いた。
「脅威……排除」
少女は振り返る。
そして、ミリ単位で正確な歩幅で歩き始めた。
まっすぐ向かった先は――
レオン。
少女は、彼の目の前で立ち止まった。
先ほど、レオンの格闘技を完璧に模倣したこと。
そして――
レオンの身体から漂う、S級実験体特有の濃密な情報素。
それらが、リリスの論理コアの中で一つの判定を生み出していた。
少女は、冷たい小さな手を伸ばす。
そして――
レオンの古びた羽織の裾を、そっと掴んだ。
まるで、孵化したばかりの雛鳥のように。
白い少女はレオンの傷だらけの脚へ頬を寄せた。
すり。
すり。
レオンの身体が――
完全に硬直した。
二メートル近い巨体が、わずかに震えている。
猩紅色の獣眼には、戦闘中とはまったく違う色が浮かんでいた。
困惑。
動揺。
そして――
どうしていいのか分からない、圧倒的な戸惑い。
レオンは助けを求めるようにヴィクトリアを見る。
まるで、悪いことをして叱られるのを待つ大型犬のようだった。
「ヴィ、ヴィクトリア……」
レオンが震える声で言う。
「こ、この子……俺を掴んでる……」
ヴィクトリアは、しばらくレオンを見つめた。
新バビロンの地下世界で恐れられる冷酷な暴君。
その男が――
何の感情も持たないはずの三無少女に掴まれただけで、どう動けばいいのか分からず固まっている。
ヴィクトリアの冷たい瞳の奥に――
ほんのわずかな笑みが浮かんだ。
彼女はゆっくり歩み寄る。
そして、リリスの前にしゃがみ込んだ。
冷たい少女の手を、そっと握る。
「リリス」
ヴィクトリアの声は、成層圏を静かに吹き抜ける風のように柔らかかった。
「これは『脅威』じゃないわ」
リリスがヴィクトリアを見る。
「これは――『仲間』」
ヴィクトリアは、少女の手を導く。
「仲間同士なら、距離を計算する必要はないの」
そして、リリスの手を自分の白い頬へそっと当てる。
ひんやりとした指先が、ヴィクトリアの肌に触れる。
それから、レオンを指差した。
「彼はレオン」
「私たちを守ってくれる人よ」
ヴィクトリアは静かに教える。
「あなたも、彼の情報素を分析するだけじゃなくて――」
「彼の温度を感じることを覚えて」
リリスの空洞だった瞳が、ほんのわずかに揺れた。
指先から伝わってくるヴィクトリアの頬。
冷たい。
柔らかい。
その感触を、少女は理解しようとしている。
リリスは小さく瞬きをした。
そして――
レオンへ顔を向けた。
ぎこちなく口角を動かす。
笑顔。
それは、とても不器用だった。
だが――
少女なりに、一生懸命に善意を伝えようとしていた。
「なか……ま……」
リリスは、電子音でゆっくりと繰り返した。
「……仲間……」
レオンの心臓が――
ドクン。
一瞬、大きく跳ねた。
彼はヴィクトリアを見る。
感情を持たないはずの器に、少しずつ何かを教えている彼女。
不器用なほど優しく。
決して急がず。
その指先には、淡い血の匂いと冷香が残っている。
薄暗い防空壕の中で、それらが静かに混ざり合っていた。
この世界は残酷だった。
階級は鉄のように固定されている。
上にいる者は、下にいる者を踏みつける。
底層深淵から這い上がってきたレオンは、ずっとそういう世界で生きてきた。
殺戮。
痛み。
血。
それだけが、自分が生きていることを証明してくれるものだった。
だが――
今、目の前にいるヴィクトリアの、不器用なほどの優しさは。
彼が何重にも纏ってきた硬い偽装を、いとも簡単に切り裂いていく。
そして――
その奥に隠していた、誰にも触れさせなかった孤独へ、まっすぐ突き刺さっていく。
レオンは無意識に、すべての骨刃を収納した。
重力場も解除する。
自分の荒い呼吸ですら、この静かな時間を壊してしまうのではないか。
そんなことを考えた。
彼はゆっくりと片膝をついた。
巨大な身体を、できるだけ低くする。
そして――
リリスの手の甲へ、自分の頬をそっと触れさせた。
だが、彼の視線はリリスではなく――
ヴィクトリアを深く見つめていた。
貪るように。
何かを確かめるように。
「お前がいる限り……」
レオンの声は低く、掠れていた。
だが、その言葉には揺るぎない誓約が込められていた。
「俺の命は――」
一拍。
「お前たちの盾だ」
ヴィクトリアは、わずかに息を呑んだ。
そして、そっと手を伸ばす。
指先がレオンの黒金のバイオニック鱗片を撫でた。
言葉はなかった。
だが――
二人の間には、すでに言葉など必要としない何かが流れていた。
「……コホン」
ジャックが横から、わざとらしく二度ほど咳払いした。
「いや、その……」
三人へ視線を向ける。
「できれば俺としては、『美女と野獣と機械少女』の感動ドラマを邪魔したくないんだけどさ」
ジャックは防空壕内を指差した。
「このお嬢様、硬光エネルギーを吸収したついでに――」
「俺たちのボロ防空壕まで改造しちゃったみたいだぞ」
三人が一斉に周囲を見回す。
先ほどまで薄暗く、古びていた防空壕。
その光景が――
完全に変わっていた。
欧州古典建築のような優雅な意匠。
そこへサイバーパンク特有の幽青色の光が融合している。
壁面には複雑なデータ回路が走り、天井には淡い光が規則正しく明滅していた。
いつの間にか、リリスは拠点中央の制御端末へ接続していた。
少女の指先から伸びたデータケーブルが、まるで生き物の蔓のように伸びている。
そして――
拠点全体の防御システムを、完全に掌握していた。
廃棄された防空壕の外。
地面の下から、次々と光の壁が立ち上がる。
硬光。
高周波力場。
それらが複雑に組み合わさり――
『絶対防壁』を形成していく。
防御レベルは一気に跳ね上がった。
その水準は――
雲上貴族の邸宅と同等。
「防御システム……」
リリスが振り返る。
「アップグレード……完了」
一拍。
「安全……係数……99.9%」
少女は指先から伸びていたケーブルを抜いた。
そして、何事もなかったかのようにヴィクトリアのもとへ戻ってくる。
ジャックは唾を飲み込んだ。
目の前の異常な光景を見つめながら、思わず呟く。
「これ……」
「安全な隠れ家を拾ったんじゃないだろ……」
苦笑い。
「生きた雲上主脳を拾ったんだよ……」
ヴィクトリアが立ち上がろうとした。
その瞬間――
リリスが足を止めた。
少女はゆっくりと振り返る。
白紙のように白く、生気のない顔。
そこにある空洞の瞳が――
今度は、ヴィクトリアの顔へ向けられていた。
いや。
正確には――
レースの盲眼罩に覆われた、その両目へ。
防空壕を満たす幽青色の光が――
その瞬間だけ、かすかに明滅した。
リリスが手を上げる。
細い指先が、正確にヴィクトリアの目を指し示す。
そして。
背筋が凍るような電子合成音で、少女はゆっくりと言った。
「あなたの目の中には……」
「……あの、高みにいる神と……」
「同じものが……ある」




