第13話 極道の掟
「あなたの目の中には……あの、高みにいる神と同じものがある」
リリスの抑揚のない電子合成音声が、人気のない防空壕に響き渡った。
背筋が凍るような、冷たい声だった。
その言葉が終わった瞬間、レオンの背骨から耳障りな機械の噛み合う音が鳴り響いた。
背中からカーボンファイバー製の骨刃が、黒い稲妻のごとく飛び出す。獣化した紅い義眼がリリスを鋭く睨みつけ、喉の奥から獲物を守る猛獣のような唸り声が漏れた。
巨体が一歩、横へ踏み出す。
ヴィクトリアを完全に背後へ庇ったのだ。
重力エンジンの唸りが強まり、周囲の金属床が耐えきれずに凹み始める。
しかし、ヴィクトリアは小さくため息をついただけだった。
白く細い指を伸ばし、レオンの振り回す骨刃の隙間を正確にすり抜ける。そして、熱を帯びた黒金の鱗に、なだめるようにそっと手を置いた。
「レオン、下がって。彼女は私を傷つけないわ」
月明かりに砕けた氷のように冷たい声。
それでいて、逆らうことを許さない不思議な力があった。
レオンの全身が硬直した。
紅い義眼に宿っていた殺意が、潮が引くように消えていく。
彼は不満そうに骨刃を収納した。叱られた大型犬のように、おとなしく半歩だけ後ろへ下がる。
それでも筋肉の緊張は解けていない。いつでも飛びかかれるよう、全身が警戒態勢を保っていた。
リリスの瞳の青い光が、二度明滅した。
機械関節が小さくカチリと鳴る。
彼女は首を傾げ、何らかの論理演算を行うように告げた。
「指令……確認。休眠モード……起動」
そう言うと、素直に部屋の隅にある充電ポッドへ歩いていき、目を閉じた。
ジャックは冷や汗を拭い、胸を叩きながらぼやいた。
「お嬢様、肝が据わりすぎですよ……。さっきなんて、レオンの兄貴がこの生きたメインフレームをバラバラにする寸前だったんですから……」
その言葉が終わらないうちに、防空壕の外から轟音が響いてきた。
重装エンジンの唸りと、重金属音楽の荒々しいビート。
眩いネオンのサーチライトが、アップグレードされたばかりの硬光防壁を突き抜け、防空壕の内部を昼間のように照らし出した。
「中にいるネズミども、よく聞け! 赤鬼組の掟を教えてやる! この縄張りに足を踏み入れた以上、龍だろうが這いつくばれ! 虎だろうが腹を見せろ!」
拡声器から、ざらついた男の哄笑が響く。
直後、重装義体が合金製の扉を叩きつける、凄まじい音が続いた。
ドォンッ!
分厚い合金扉が、暴力的な熱で溶かされていく。
そこから、重装義体を身につけ、サイバー般若の面を身体に刻み込んだ極道の暴徒たちが、次々と雪崩れ込んできた。
先頭に立つ男は、仕立てのよい黒いスーツを着ていた。だが、その生地には無数の血痕がこびりついている。
頭は伝統的な日本式の月代頭。しかし、剃り上げた頭皮には青白く光る神経接続端子が埋め込まれていた。
左腕は完全機械化された重装義体だ。動くたびに、前腕に刻まれた刺青が生き物のように蠢いている。
赤鬼組堂主――アーサー・源氏。
アーサーは青い電子タバコの煙を吐き出し、防空壕の内部を見回した。
豪奢な硬光装飾に目を細め、最後にヴィクトリアへ視線を向ける。
その眼差しには、下卑た欲望とあからさまな侮蔑が浮かんでいた。
「おやおや、雲上貴族のお嬢様か? それとも、どこぞの盲目の小娘か? 半獣の雑種を連れて、俺様の縄張りで好き勝手やろうってのか?」
レオンの瞳孔が、針の先ほどに縮んだ。
重力場が一気に収縮する。
近くにいた暴徒たちが、数人まとめて地面に膝をつかされた。
「お前……死にたいのか!」
「レオン」
ヴィクトリアが、彼のぼろぼろの羽織の裾をそっと引いた。
その瞬間、レオンは停止ボタンを押されたかのように動きを止めた。
暴走しかけた衝動を、無理やり押し殺す。
ただし、アーサーを睨みつける紅い眼差しだけは変わらない。鼻からは、熱い白い息が噴き出していた。
ヴィクトリアはわずかに首を傾けた。
ヨーロッパ風のレースの目隠しに覆われた顔は、今にも壊れそうなほど青白い。
だが、その声は驚くほど穏やかだった。
「アーサー堂主。私たちはここへ来たばかりで、底層の掟をよく知りません。いったい、私たちをどう『這いつくばらせる』おつもりですか?」
アーサーは鼻で笑い、機械化された左腕を軽く叩いた。
「掟は簡単だ。生死を懸けた決闘だよ。俺たち赤鬼組に勝てば、この堂口では好きに振る舞っていい。情報、物資、保護……望むものは何でも手に入る」
そこで一度言葉を切り、口元を歪めた。
「負けたら、男はミンチにして犬の餌。女は……へへっ、極道総長ヴィクター様の『極楽館』に送ってやる」
「いいわ」
ヴィクトリアは即答した。
「私たちが勝ったら、底層深淵にあるすべての闇市場取引網への最高権限をいただきます。それから……ヴィクター・黒川の最近の動向も」
アーサーは一瞬きょとんとした。
次の瞬間、腹を抱えて大笑いする。
「盲目の小娘が、ずいぶんと大きく出たもんだ! 泰造、出番だ! こいつに底層の掟ってやつを叩き込んでやれ!」
その声に応え、身長二メートル五十近い改造巨漢が、地響きを立てて前へ出た。
全身には栄養チューブと冷却液の配管が無数に突き刺さっている。一歩踏み出すたびに床が震えた。
右目には粗雑な軍用レーザー眼が埋め込まれ、口の端からは欲望にまみれた涎が垂れている。
防空壕の中央にある空き地が、あっという間に決闘場へと変わった。
レオンは一歩前へ出た。
ヴィクトリアの代わりに、あのゴミを引き裂いてやるつもりだった。
しかし、彼女はそっとレオンを押しとどめた。
「今度は私の番よ、レオン。そこで見ていて」
ヴィクトリアはゴシック調のロングドレスの裾を持ち上げ、軽やかな足取りで決闘場へ向かった。
あまりにも華奢だった。
泰造が指一本動かすだけで、粉々に押し潰されてしまいそうなほどに。
「このチビの盲目女が……あとでその皮、剥ぎ取ってやるよ!」
泰造は下卑た笑い声を上げ、右目のレーザー照準器を起動した。
赤い死光が、ヴィクトリアの眉間を正確に捉える。
ヴィクトリアは一歩も退かなかった。
彼女の【盲眼心網】の中では、世界は決して闇ではない。
泰造の巨大な身体は、眩しいほど赤いサーモグラフィーの輪郭となって脳裏に浮かび上がっていた。
過剰な改造によって狂ったように鼓動する心臓。その音さえ、破れかけた太鼓のようにはっきりと聞こえてくる。
「心拍数、毎分百六十回。左脚の油圧バルブに〇・二秒の遅延。右目のレーザー充填には三秒」
ヴィクトリアの冷ややかな声が、広い決闘場に響き渡った。
その平静さは、かえって不気味だった。
「わけのわからねえことを抜かすな!」
泰造が怒号を上げた。
重戦車のような巨体が突進する。
空気を引き裂く鋭い風切り音とともに、巨大な機械仕掛けの右拳がヴィクトリアの顔面へと叩きつけられた。
拳が彼女の鼻先に触れる、その寸前。
ヴィクトリアはわずかに身体を傾けた。
ゴシックドレスの裾が、花弁のように広がる。
そして、白い指先で虚空を軽く弾いた。
「パチン」
指先に仕込まれた小型噴霧器から、無色無臭の液体が一滴、霧となって放たれた。
それはヴィクトリアが独自に調合した情報素――『狂乱曼陀羅』。
義体の拒絶反応と神経シナプスの過負荷を狙い撃ちする、致死性の毒だった。
泰造の拳が、空中でぴたりと止まった。
粗雑な機械眼が、突然、狂ったように明滅し始める。
喉の奥から、ガラガラという異様な音が漏れた。
情報素は呼吸と皮膚の毛穴を通じて体内に侵入し、もともと崩壊寸前だった彼の神経系を、一瞬にして燃え上がらせた。
「うわあああっ! 虫だ! 俺の頭の中に虫がいる!」
泰造は突然、頭を抱えて絶叫した。
神経中枢が完全に制御を失う。
巨大な機械の右腕が、敵味方の区別もなく狂ったように振り回された。
そして――自分のすぐそばにあった支柱を、たった一撃で粉砕した。
その場にいた全員が息を呑んだ。
赤鬼組で最も残虐な殺戮兵器が、まるで狂人のように決闘場の上で自滅している。
ヴィクトリアは、ただ静かに立っていた。
ドレスの裾ひとつ、乱れていない。
彼女はわずかに首を傾け、三流の芝居でも眺めるように言った。
「これが極道の掟なの? 自分の神経ひとつ制御できない役立たずに、血を流させることが?」
「このクソ女! 兄貴に何をしやがった!」
数人の暴徒が怒鳴りながら、決闘場へ駆け上がろうとした。
「失せろ」
低く、しゃがれた声。
地獄の底から響いてきたような、たった一言だった。
いつの間にか、レオンが決闘場の縁に立っていた。
義体さえ展開していない。
ただ、重力場をほんのわずかに解放しただけだった。
轟音。
駆け寄ってきた暴徒たちは、一瞬にして十倍の重力に押し潰され、床に這いつくばった。
骨が砕ける、耳障りな音。
口や鼻、目や耳から血が噴き出す。
レオンは決闘場へ飛び上がり、いまだに狂乱している泰造の前まで歩いていった。
その眼差しには、あからさまな嫌悪が浮かんでいた。
どうやら、このゴミの喚き声がヴィクトリアの耳障りになっていることすら、気に入らないらしい。
レオンは黒金の鱗に覆われた巨大な手を持ち上げると、泰造の機械頭部に軽く置いた。
まるで、何でもないことのように。
バキッ。
背筋が凍るような金属の圧壊音が響いた。
泰造の頭蓋骨も、内部の神経チップも、一瞬にして握り潰された。
巨大な身体が、轟音とともに床へ倒れ込む。
完全な即死だった。
レオンは振り返ると、たちまち全身の凶暴さを引っ込めた。
ポケットから清潔な絹のハンカチを取り出し、不器用に手を拭く。
そして、ヴィクトリアへそっと差し出した。
紅い義眼には、褒めてほしいと訴えるような色が浮かんでいる。
「汚れた……拭け」
ヴィクトリアはハンカチを受け取り、ほんのかすかな笑みを浮かべた。
指先で、レオンの手の甲にそっと触れる。
「よくできたわ、レオン」
レオンの耳のあたりが、わずかに赤くなったように見えた。
彼は彼女の後ろへ戻り、守護神のように黙って立つ。
アーサー・源氏は、決闘場に立つ二人を見つめていた。
電子タバコを挟んだ指先が、小刻みに震えている。
極道が崇めるのは、絶対的な暴力と力を持つ者だ。
だが、目の前の盲目の女は、赤鬼組最強の用心棒を一滴の毒で無力化してしまった。
そのうえ、半獣の男は、あらゆるものを圧倒しかねない恐ろしい力を秘めている。
「す、すげえ……見事な手並みです」
アーサーは深く煙を吸い込み、目の奥に浮かんだ恐怖を押し殺した。
そして突然、深々と頭を下げた。
極道において最高級の敬意を示す、土下座だった。
「赤鬼組堂主、アーサー・源氏! お嬢様に、そして龍馬の兄貴にご挨拶申し上げます! 本日より、お二方は赤鬼組の大切なお客様です!」
周囲の暴徒たちも、彼に倣って一斉に膝をついた。
「姐御!」
「兄貴!」
声が防空壕にこだまする。
ヴィクトリアは、彼らの服従など意に介さなかった。
ただ淡々と告げる。
「案内して。あなたと取引の話をしたいわ」
***
赤鬼組の内堂。
薄暗い室内では、数個の幽緑色のサイバー提灯だけが、ゆらゆらと揺れていた。
アーサーは自らヴィクトリアのために、琥珀色の合成ウイスキーをグラスいっぱいに注いだ。
両手で恭しく差し出す。
レオンは鉄塔のような巨体で扉のそばを守り、紅い義眼で周囲を警戒していた。
「お嬢様。ご所望の情報は、包み隠さずお伝えします」
アーサーは声を落とした。
暗い照明の下、機械化された左腕に刻まれた般若の刺青が、いっそう凶悪な姿を浮かび上がらせている。
「最近、底層深淵はきな臭くなっています。極道総長のヴィクター・黒川が、『血祭り』と呼ばれる地下儀式を準備しているんです」
ヴィクトリアの手が、グラスを持ったままわずかに止まった。
目隠しの下の表情は、依然として穏やかだった。
しかし、指先だけが、誰にも気づかれないほどかすかに白くなっていた。
アーサーは身を乗り出した。
その声は、毒蛇が舌を出すように低く、ねっとりとしている。
「ヴィクターの狂人は、『究極義体』への昇華を完成させるため、極めて純度の高い遺伝子を中和剤として必要としている。そこで、雪絵一族の遺伝子配列が必要になるってわけです。あいつがずっと夢見てきた、究極の引き金ですよ」
アーサーは自分のグラスを、ヴィクトリアのグラスの縁へ軽く当てた。
澄んだ音が室内に響く。
口元には、残忍な笑みが広がっていた。
「お嬢様。ヴィクターの血祭りには、雪絵一族の血脈が必要なんです。そして、あいつはとっくに知っている……あなたがまだ生きていることを」
その言葉が落ちた瞬間、防空壕の温度が氷点下まで急降下したかのように感じられた。
レオンの喉から、再び危険な唸り声が漏れる。
重力エンジンの低い振動が伝わり、テーブルの上のグラスが小刻みに震え始めた。
ヴィクトリアは、酒を一口も飲まなかった。
ゆっくりとグラスを置く。
そして、凍てつくような笑みを浮かべた。
「そう……?」
囁くような声だった。
ドレスの裾の下で、指先に仕込まれた高周波振動刃が、かすかな唸りを立てる。
「それなら、今度は誰が誰の生贄になるのか……見せてもらいましょう」




