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第14話 血祭り前夜、渦巻く暗流

「それなら、今度は誰が誰の生贄になるのか……見せてもらいましょう」


 ヴィクトリアの冷ややかな声が、薄暗い内堂に響き渡った。氷と玉石が触れ合うような、澄み切った響きだった。


 彼女は手にしていたグラスをゆっくりと置いた。底がテーブルに触れ、澄んだ音が鳴る。しかし、その音でさえ、周囲にいる暴徒たちの荒い息遣いをかき消すことはできなかった。


「お嬢様、正気ですか!?」


 アーサー・源氏の機械化された左腕。その般若の刺青が、彼の動揺に呼応するかのように、乱れた赤い光を放っていた。


「ヴィクター・黒川は、すでに義体を限界までオーバークロックさせている狂人です! あいつの神経毒は、最も硬い合金さえ溶かす! あなたが囮になるなんて、自分から虎の檻に飛び込むようなものですよ!」


「羊、ですって?」


 ヴィクトリアはわずかに首を傾けた。


 ヨーロッパ風のレースをあしらった戦術用アイマスクの下で、紙のように白い顔に皮肉な笑みが浮かぶ。


 指先がドレスの裾をそっと撫でた。


 その下で、高周波振動刃が、彼女にしか聞こえない死の羽音を立てている。


「極道の野良犬が人を噛むというのなら、牙を抜いてしまえばいいだけよ。ジャック、データの解析はどうなったの?」


 部屋の隅の陰では、ぼさぼさのピンク髪をしたジャック・星野が、廃棄された弾薬箱の上にあぐらをかいていた。


 猫耳型の巨大なホログラムヘッドホンを装着し、細長い指を目にも留まらぬ速さで動かしている。指先では、小型データプローブが青白い光を放っていた。


「姐御、ヴィクターの老いぼれ亀が張ってる財務ファイアウォール、サイバーゴミにもほどがありますよ!」


 ジャックは口から仮想の煙輪を吐き出し、悪態をつきながら、画面にびっしりと並ぶ赤いコードを呼び出した。


「三層構造のディープダイブ・ハッキングを仕掛けて、ようやく表層の帳簿をこじ開けたんです。でも、資金の本流には最高レベルの軍用ロジックロックがかかってる! このポンコツノートじゃ演算能力が足りません。無理やり突破したら警報が鳴ります!」


「どけ」


 扉のそばから、低くしゃがれた声が響いた。


 金属を紙やすりで擦ったような、荒々しい声だった。


 レオン・龍馬が重い足取りで内堂に入ってくる。


 二メートル近い巨体は、動く黒鉄の塔そのものだった。使い古された日本式の極道羽織の下では、黒金の重装生体鱗が、幽緑色の灯りを受けて冷たい光を放っている。


 レオンはジャックの隣まで歩み寄ると、天才ハッカーの襟首を乱暴につかみ、そのまま脇へ放り投げた。


 そして、右腕の太い神経接続端子を、端末の物理ポートへ直接ねじ込んだ。


「おい! 大男、もっと丁寧に扱えよ! 俺のマザーボードが焼き切れ――」


 抗議の言葉は、最後まで続かなかった。


 レオンの体内から放たれた、恐ろしいほど低い振動音が、ジャックの声をかき消したのだ。


 レオンの左目――猩紅の光を放つ獣化義眼が、猛烈な勢いでデータを処理し始めた。


 雲上貴族とネオン深淵の極道、その両方の血を引くS級実験体。


 彼の体内には、極限まで研ぎ澄まされた殺戮遺伝子だけでなく、雲上メインフレームの最下層に組み込まれたシステムプロトコルまでもが残されていた。


 彼にはハッキング技術など必要ない。


 S級実験体としての生体演算能力を使い、資金の流れを力ずくで逆解析しているのだ。


「ぐっ……あああっ!」


 レオンの喉から、押し殺した唸り声が漏れた。


 演算負荷が限界を超え、右半顔を覆う鱗が逆立つ。


 背中の羽織の下では、カーボンファイバー製の骨刃が制御を失い、数センチほど飛び出して布地を切り裂いた。


「レオン!」


 ヴィクトリアの眉がわずかに寄る。


【盲眼心網(ブラインド・マインドネット)】が、彼の乱れた心拍と急上昇する体温を瞬時に捉えていた。


「問題ない」


 レオンは神経接続端子を乱暴に引き抜いた。


 直後、端末から黒煙が噴き上がる。


 荒い息を吐きながら、彼は猩紅の片目でヴィクトリアを睨み据えた。その声には、抑え込まれた怒りと冷気が滲んでいる。


「見つけた。ヴィクターの口座は、ただの偽装だ。雪絵一族の遺伝子配列を購入するために動かされた巨額の資金は、底層深淵で十七もの中継ノードを経由したあと、最終的に……成層圏の雲上都市にある匿名口座へ流れ込んでいた」


 内堂の空気が、一瞬にして凍りついた。


「雲上だと……?」


 アーサーが息を呑む。


「そうだ」


 レオンは大股でヴィクトリアの前まで歩み寄った。


 その巨大な影が、彼女の全身を覆い尽くす。


「資金の出どころは、雲上貴族の中枢金庫だ。お前の一族を滅ぼしたのは極道だけじゃない。上から俺たちを見下ろして、自分たちを高貴な『神』だと思い込んでいる連中も、同じ穴の貉だ」


 ヴィクトリアの青白い頬には、何の表情も浮かんでいなかった。


 ただ、指先から漂うかすかな冷香が、いっそう濃くなったように感じられた。


 彼女はとうに、その可能性に気づいていた。


 それでも、真実が完全に暴かれた今、骨の髄にまで染み込んだ憎悪は、毒蛇のように神経を蝕み続けていた。


「だから、計画は変更しないわ」


 ヴィクトリアは身につけていたベルベットの小さなポーチから、透明な試験管を取り出した。


 中では、淡い紫色の液体が静かに揺れている。


「これは新しく調合した『セイレーンの涙』。これを静脈に注入すれば、高濃度の雪絵一族の情報素を放出できる。同時に、遺伝子拒絶反応によって衰弱した状態を演出するの」


 彼女は試験管を指先で軽く回した。


「ヴィクターは、必ず自分の手で私を捕らえに来る。血祭りの祭壇で、あいつも、その背後にいる雲上の主人たちも……まとめて地獄へ引きずり込んでやるわ」


「認めない!」


 レオンが、脇にあった支柱へ拳を叩きつけた。


 轟音が炸裂する。


 鉄筋コンクリート製の柱に、一瞬で亀裂が走った。


 制御を失いかけた重力エンジンの影響で、内堂の照明が狂ったように明滅する。


「お前、頭がおかしくなったのか! ヴィクターはアーサーみたいな雑魚とは違う! 左腕にはナノ神経毒が仕込まれてる。オーバークロック状態なら、機甲兵器だって引き裂けるんだぞ!」


 レオンは怒り狂う獅子のように吠えた。


 猩紅の義眼が、ヴィクトリアをまっすぐに見つめている。


 その声には、彼らしくもない動揺と凶暴さが入り混じっていた。


「囮になるだと? そんなこと、俺の死体を踏み越えてからにしろ! 今すぐ底層深淵へ行って、あのクソ老いぼれの首をねじ切って、ボール代わりに蹴り飛ばしてやる!」


「それで、そのあとは?」


 ヴィクトリアは冷たく問い返した。


 声は大きくない。


 それでも、鋭い刃のように相手の胸を貫く。


「雲上貴族のメインフレームに居場所を特定され、極道全体から追われる身になる。それがあなたの望みなの?」


 レオンは答えられなかった。


「レオン、これが唯一の機会なの。ヴィクターは生まれつき疑り深い男よ。私が自分から隙を見せなければ、あいつは決して亀の甲羅から出てこない」


 ヴィクトリアは顔を上げた。


「あなたは、私に一生ネズミのように隠れて暮らせと言うの?」


「それなら、俺がお前を連れて雲上まで乗り込む!」


 レオンが咆哮した。


 感情の激昂に反応し、獣化遺伝子が拒絶反応を起こし始める。


 首筋に走る縫合痕が裂け、黒い血が滲み出した。


 だが、彼は痛みなど感じていないかのように、ヴィクトリアへ一気に詰め寄った。


 巨大な身体が生み出す圧迫感は、普通の人間なら呼吸さえできなくなるほどだった。


「俺には……できないんだ!」


 声が震えていた。


「お前が死にに行くのを、ただ黙って見ているなんて、俺にはできない! お前が死んだら、俺はいったい何なんだ? こんな気味の悪い身体ひとつ、たった一つ守りたい光さえ守れないのかよ……!」


 最後の言葉には、追い詰められた獣のような嗚咽が混じっていた。


 底層深淵で冷酷に敵を屠り、誰もが恐れる暴君。


 その男が今、まるで大切なおもちゃを失うことを恐れる子供のように、不器用に、そして絶望的に訴えていた。


 ヴィクトリアは黙っていた。


【盲眼心網】は、レオンの体内で理性を引き裂くほどに膨れ上がった苦痛を、はっきりと感じ取っていた。


 そして、彼女を想って激しく脈打つ心臓に刻まれた、むき出しの恐怖までも。


 ふいに、ヴィクトリアが小さく笑った。


 レオンは、何が起きたのかわからないという顔で彼女を見つめた。


 ヴィクトリアは退かなかった。


 むしろ、一歩前へ踏み出す。


 背伸びをして、白く細い両手でレオンの顔を包み込んだ。


 黒金の鱗と、無数の痛々しい傷痕に覆われた顔。


 その両頬を、壊れ物を扱うように、そっと抱きしめる。


「レオン、よく聞いて」


 声は優しかった。


 しかし、その奥には、決して折れることのない威厳が宿っていた。


「私はヴィクトリア・雪絵。私の命も、私の復讐も、私自身の手で決着をつける。あなたはただ、私の手にある最も鋭い刃でいてくれればいいの」


 言い終わるより早く、ヴィクトリアはわずかに顔を上げた。


 そして、ためらうことなくレオンの乾いた唇に口づけた。


 何の前触れもない、しかし、ひどく大胆なキスだった。


 ヴィクトリアの指先から、微量の鎮静情報素が放たれる。


 冷香が瞬く間にレオンの感覚を包み込んだ。


 彼女の唇は柔らかく、ひんやりとしていた。それでいて、拒絶を許さない強さがあった。


 不慣れながらも迷いなく、固く閉じられた彼の唇を開いていく。


 レオンの全身が、びくりと震えた。


 その瞬間、彼の脳は完全にフリーズした。


 S級獣化遺伝子の狂暴な衝動も、重力エンジンの轟音も、すべてが柔らかな感触の中で停止する。


 彼は呆然と立ち尽くしていた。


 機甲兵器さえ引き裂く巨大な両手が、宙に浮いたまま固まっている。


 抱きしめたい。


 けれど、黒金の鱗も、鋭い爪も、まるで磁器人形のように繊細な彼女の肌を傷つけてしまいそうで、どうしても手を伸ばせなかった。


「……っ」


 レオンの喉から、くぐもった声が漏れた。


 紅い義眼が次第に焦点を失い、その奥に、言葉にできない戸惑いと、深い陶酔が浮かび上がってくる。


 何十年ものあいだ、暗闇の中で孤独に鼓動を刻み続けてきた彼の心。


 それが今、温かな炎に包まれ、内側から燃え上がっていくようだった。


 ヴィクトリアが、ゆっくりと唇を離した。


 身長二メートルの冷酷な暴君は、耳まで真っ赤になっていた。


 荒い息を繰り返しながら彼女を見つめるその眼差しからは、もはや暴力の気配など微塵も感じられない。


 ただ、溶けるような優しさと、すべてを委ねた者の完全な服従だけが残っていた。


「……わかった」


 レオンの声は、ひどく掠れていた。


 彼は頭を下げ、額をヴィクトリアの額へそっと寄せた。


 完全に手なずけられた巨大な獣のように。


「お前のために、刃を振るう。だが……必ず生きて戻れ」


 ヴィクトリアが返事をしようとした、その瞬間だった。


 異変が起きた。


「ピッ――」


 かすかだが、骨の髄まで突き刺さるように鋭い電子合成音が、突然レオンの頭蓋内に響き渡った。


 ヴィクトリアの【盲眼心網】が、瞬時に異常を捉えた。


 レオンのものではない、極度に冷徹で巨大な演算能力。


 それが、すべてをなぎ倒す勢いで彼の神経中枢へ侵入していく。


 彼女が先ほど放った情報素が、レオンの体内に潜伏していた何かを、意図せず目覚めさせてしまったのだ。


「レオン?」


 ヴィクトリアの胸が締めつけられる。


 彼を支えようと、手を伸ばした。


 しかし――


 レオンは突然、一歩後ずさり、彼女の手を避けた。


 その瞬間、内堂から温度が根こそぎ奪われたかのようだった。


 レオンはゆっくりと顔を上げた。


 先ほどまで狂暴な猩紅の光を放っていた獣化義眼が、不気味に二度明滅する。


 そして、完全に冷たい、深い幽青色へと変わった。


 右半顔を覆う黒金の鱗は動きを止め、暴走しかけていた背中の骨刃も、一瞬にして収納された。


 彼は背筋を伸ばし、まっすぐに立った。


 そこには、底層の極道らしい傲慢さも、ヴィクトリアを前にした不器用な優しさも、跡形もなく消え失せていた。


 レオンは高い位置からヴィクトリアを見下ろした。


 青い義眼には、感情の欠片もない。


 まるで、生命のないデータの羅列を眺めているかのようだった。


「遺伝子配列、照合完了。雪絵一族の血脈……活性値、基準を達成」


 彼はゆっくりと口を開いた。


 その声は、もはやしゃがれた低い唸り声ではなかった。


 抑揚のない、金属のように冷たい機械合成音へと変わっていた。


 わずかに首を傾け、完璧でありながら、背筋の凍るような笑みを浮かべる。


「初めまして、実験体01号。あるいは……ヴィクトリアお嬢様、とお呼びしたほうがよろしいでしょうか?」

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