第15話 血祭りの夜、狂乱の饗宴
「遺伝子配列、照合完了。雪絵一族の血脈……活性値、基準を達成」
内堂の空気が、砕けた氷の粒になったかのように凍りついた。
レオンはヴィクトリアを見下ろしていた。かつて狂暴な猩紅の光を放っていた義眼には、今や冷たい幽青色のデータストリームだけが流れている。
右半顔の黒金の鱗は動きを止め、呼吸の周期さえも正確に計算された機械的なリズムへと変わっていた。
「初めまして、実験体01号。あるいは……ヴィクトリアお嬢様、とお呼びしたほうがよろしいでしょうか?」
抑揚のない金属的な合成音が、がらんとした室内に響き渡った。
ヴィクトリアは一歩も退かなかった。
ヨーロッパ風のレースをあしらった戦術用アイマスク。その奥にある瞳は、静かに前方を「見つめて」いる。
【盲眼心網】が瞬時に展開され、レオンの体内を流れるエネルギーの三次元マップを構築した。
彼の神経中枢には、巨大で未知の演算能力が居座っている。レオン本来の意志を消し去ろうと、容赦なく侵食を続けていた。
(雲上メインフレームからの直接命令……? ずいぶん乱暴な乗っ取りね)
ヴィクトリアは心の中で冷笑した。
しかし、表情には悲しげでか弱い微笑みを浮かべる。
紙のように白い指先をゆっくり持ち上げ、力なくレオンの冷たい胸甲に添えた。
「ええ……私は確かに、雪絵家最後の娘です」
声はかすかに震え、運命を受け入れた者の哀しみを帯びていた。
だが、袖口に隠された指先は、いつの間にか小型の情報素カプセルを握り潰していた。
神経シナプスに特化した、ごく微量の鎮静情報素。
それが指先から滲み出し、レオンの鱗の隙間へと浸透していく。
強い感情の揺らぎを伴う生体電気信号を受信したAIの論理処理モジュールに、わずか〇・一秒の遅延が生じた。
「あなたの本体は、底層の闘技場で私を待っているのでしょう? ヴィクター総長は、あまり気が長い方ではありませんから」
ヴィクトリアは自然な動作で手を引いた。
白杖で床を軽く叩く。
まるで本当に絶望した盲目の獲物であるかのように、彼女は背を向け、外へと歩き始めた。
レオンは彼女を引き止めなかった。
感情を持たない殺戮マシンのように、正確な歩調でその後ろをついていく。
ただ、彼自身は気づいていなかった。
ヴィクトリアが背を向けた瞬間、幽青色の義眼の奥で、ほんの一瞬だけ、抵抗するような猩紅の光が瞬いたことに。
***
## 底層深淵――『獣血闘技場』
ここは、新バビロンで最も汚らしく、最も狂暴な悪の巣窟だった。
巨大なホログラムの般若面が、闘技場の天蓋で狂ったように明滅している。
血管のように張り巡らされた猩紅のネオン管。その下には、錆びついた巨大な鉄檻がいくつもそびえ立っていた。
空気には、機械油と安物の合成アルコール、そして濃厚な血の臭いが混じっている。
数千人もの極道たちが観客席を埋め尽くし、義体化された機械の腕と生身の肉体がぶつかり合う音が、耳をつんざくほどの轟音となって響いていた。
ヴィクトリアが闘技場中央の祭壇へ足を踏み入れた瞬間、会場を満たしていた喧騒が、ほんの一瞬だけ途切れた。
彼女は、ヴィクトリア朝様式を現代風にアレンジしたゴシック調のロングドレスをまとっていた。
幾重にも重なるスカートは、暗闇の中で咲く黒薔薇のように広がっている。
白磁のような肌。レースの目隠し。そして、この血塗られた地獄にはあまりにも不釣り合いな、冷ややかで壊れそうな雰囲気。
まるで狼の群れに迷い込んだ一羽の白鳥だった。
その姿は、極道たちの心に潜む原始的な暴虐と貪欲を、一瞬にして燃え上がらせた。
「これは……実に見事な『芸術品』だ」
耳障りな機械の轟音とともに、ヴィクター・黒川が十メートルの高さにある観客席から飛び降りてきた。
重厚な機械化左腕が祭壇の中央へ叩きつけられる。
次の瞬間、頑丈な合金製の床に、蜘蛛の巣のような亀裂が走った。
ネオン深淵の極道総長。
彼は伝統的な月代頭に剃り上げた頭皮へ、危険な赤い光を放つ神経接続端子を埋め込んでいた。
口には電子タバコをくわえ、左腕に刻まれたサイバー般若の刺青は、抑えきれない興奮に呼応して、狂気じみた紫紅色へと変わっている。
「雪絵家の盲目のお嬢ちゃん。お前の香りは、実に人を酔わせるな」
ヴィクターは青い煙を吐き出し、毒蛇のような眼差しでヴィクトリアを捉えた。
「だが、残念ながら、お前の身体には興味がない。俺が欲しいのは……お前の遺伝子に隠された『鍵』だ」
彼は調香師を装う彼女の芝居など、最初から気にも留めていなかった。
狙いはただ一つ。
雪絵一族の血脈に隠された、AI神の最下層コードだった。
「やれ!」
ヴィクターが猛然と吠えた。
機械化された左腕から、太い採血針が瞬時にせり出す。
針先には、合金さえ侵食するナノ神経毒が滴っていた。
それがヴィクトリアの頸動脈へ向かって突き出される。
「お前の血をすべて抜き取れば、究極義体のオーバークロックが完成する! そうなれば、あの高みでふんぞり返っている雲上貴族どもを、一人残らず引き裂いてやれる!」
採血針が空気を切り裂き、迫ってくる。
ヴィクトリアは退かなかった。
むしろ、一歩前へ踏み込む。
ドレスの裾の下で、隠し持った高周波振動刃が死の唸りを上げた。
彼女は顔を上げ、凍てつくような笑みを浮かべる。
「それなら……あなたに、それを飲み干す命が残っているか試してみましょう」
「パリンッ!」
ヴィクトリアは掌に隠していた特殊なガラスアンプルを握り潰した。
高濃度の『狂乱』情報素が、目に見えない嵐となって闘技場全体を襲った。
それは、自らの血液を触媒として調合した致死性の毒だった。
情報素は空気循環システムを通じ、会場にいる極道たちの神経中枢へ直接侵入していく。
次の瞬間、観客席のあちこちで、極道たちの目が充血し始めた。
義体の拒絶反応が一斉に爆発する。
彼らは獣のような咆哮を上げ、敵味方の区別もつかない狂乱状態に陥った。
仲間同士で噛みつき、刃物を振り回し、互いを殺し合い始める。
「狂人め! お前、正気か!」
ヴィクターが怒号を上げた。
彼は神経毒の侵食を無理やりねじ伏せ、義体のオーバークロックを三〇〇%まで引き上げた。
採血針は、あと数センチでヴィクトリアの首に届くところまで迫っていた。
「ドォォォンッ!!」
まさに、その刹那だった。
闘技場の天蓋を覆う強化ガラスが、轟音とともに粉砕された。
「この俺様が、取り立てに来てやったぜ!」
ジャック・星野が上空から飛び降りてきた。
ピンク色の短髪が気流に煽られて舞い、猫耳型ホログラムヘッドホンが鮮やかな青い光を放っている。
彼の十本の指が虚空を猛烈な勢いで叩く。
数百機の小型ドローンが、金属の蜂の大群のように一斉に飛び出し、ヴィクターの頭上で次々と自爆した。
強烈な電磁パルスがヴィクターの視覚センサーを妨害する。
採血針の軌道が、わずかにずれた。
針先はヴィクトリアのレースの目隠しをかすめ、その脇の空気を突き刺した。
「援護する!」
闘技場の重厚な扉が、暴力的な衝撃によって吹き飛んだ。
重装パワード・エクソスケルトンを装着したアーサーが、電磁レール砲を担いで大股に踏み込んでくる。
青い電磁レールが眩い光を放った。
放たれた高性能炸裂弾がヴィクターの周囲を固めていた防衛機甲を直撃し、まとめて鉄屑へと変える。
狂暴な火力の雨が降り注ぎ、極道の手下たちを容赦なく押さえ込んでいった。
「レオン! 何をぼさっとしているの!」
混乱の中、ヴィクトリアが鋭く叫んだ。
彼女は勢いよく振り返り、背後に立つAIの傀儡――レオンの襟元をつかんだ。
そして、自分の指先についた一滴の血を、彼の冷たい唇へ乱暴に塗りつけた。
「それは私の血よ、レオン!」
ヴィクトリアの声が、狂乱の轟音を切り裂いた。
「あなたの遺伝子は燃えている! あなたの魂は叫んでいる! それでも、一生、雲上の偽善者どもの操り人形でいるつもりなの!?」
血液が喉を通る。
特殊な生体電気信号が、ヴィクトリアの決死の感情を帯びた情報素と激しく共鳴した。
レオンの体内で、AIの幽青色の命令と、S級獣化遺伝子の狂暴な本能が、凄惨な死闘を繰り広げ始めた。
「警告……論理衝突……遺伝子鎖……崩壊……」
レオンの喉から、苦痛に満ちた機械音が漏れる。
次の瞬間。
彼は勢いよく顔を上げた。
幽青色の義眼が激しく明滅する。
そして、まるで火山が噴火するかのように、狂暴な猩紅の光がその眼を再び呑み込んだ。
「グオオオオオッ!!」
底層深淵全体を揺るがす獣の咆哮が、レオンの胸の奥から炸裂した。
背中からカーボンファイバー製の骨刃が一斉に飛び出す。
重力エンジンが全出力で稼働を開始した。
恐るべき局所重力場が発生し、祭壇周辺の金属床が一気に半メートルも陥没する。
鎖を完全に引きちぎった古代の凶獣。
レオンは、ヴィクターが誇る機械化左腕を片手でつかみ、そのまま力任せに引き裂いた。
金属の腕が、無惨にひしゃげていく。
「失せろ! 失敗作の混血野郎が!」
ヴィクターは狂ったようにもがいた。
左腕からナノ神経毒が噴水のように噴き出し、レオンの顔面へ浴びせかけられる。
「リリス!」
ジャックが叫んだ。
「任せて!」
小柄な影が、側面から一気に飛び出した。
リリスの全身には、幽青色のエネルギー回路が浮かび上がっている。
彼女は両腕を大きく広げ、義体コアから眩い光を放った。
そして、闘技場の予備エネルギーシールドシステムへ直接接続した。
本来なら防御に使われるはずの膨大なエネルギーを、力ずくで吸収し、変換していく。
「【絶対防壁】、展開!」
巨大な六角形の硬光シールドが、ヴィクトリアとレオンの頭上に広がった。
ナノ神経毒も、極道たちが放つ流れ弾も、シールドに命中するたびに波紋を生むだけだった。
リリスはそれらを残らず吸収し、自身のエネルギーへと変換していく。
「よくやった、チビ助!」
アーサーが豪快に笑った。
肩に担いだレール砲が、再び充電を開始する。
一方、レオンはヴィクターに息をつく暇さえ与えなかった。
残存する神経毒をものともせず、機甲兵器さえ引き裂く力を全身から解き放つ。
そして、ヴィクターの巨体を祭壇中央の支柱へ、思い切り叩きつけた。
カーボンファイバー製の骨刃が、ヴィクターの機械化された右肩を貫通する。
そのまま壁へと縫い止めた。
レオンは高みからヴィクターを見下ろした。
獣のような猩紅の眼には、暴虐と殺意が満ちている。
しかし、血に染まった巨大な手は、背後にいる少女を傷つけないよう、慎重に骨刃の返しを引き寄せていた。
機械の破片が飛び散り、ヴィクトリアの白い肌に傷ひとつつけないように。
圧倒的な残虐さと、極限まで研ぎ澄まされた優しさ。
その相反する二つが、レオンという男の中で共存していた。
「終わりだ、ヴィクター」
レオンの声は、しゃがれていて危険だった。
地獄から舞い戻った死神を思わせる響きがある。
しかし、壁に縫い止められたヴィクターは、突然、抵抗をやめた。
彼は火の消えた電子タバコを口から放り捨てた。
狂気に満ちた顔に、ひどく不気味な笑みが広がっていく。
左腕に刻まれた般若の刺青が、一瞬にして生気を失った灰白色へと変わった。
「終わりだと? 違うな……」
ヴィクターは狂ったように笑った。
「ショーは、まだ始まったばかりだ!」
彼は両手を自分の胸へと突き立てた。
耳障りな金属の裂ける音が響き、肉片と血が飛び散る。
ヴィクターは、自らの機械化された胸郭を力ずくで引き裂いたのだ。
だが、その胸の中には、内臓も血液も存在しなかった。
代わりに、胸腔の奥で、幽緑色の光を放つ不完全なコードコアが浮遊していた。
脈打つように明滅するそのコアの表面には――
雪絵一族の紋章が、はっきりと刻まれていた。
ヴィクターはヴィクトリアを凝視した。
口元が耳まで裂けるほどに歪む。
そして、嘲弄と狂気を極限まで混ぜ合わせた声で、彼は吠えた。
「さあ、来い、雪絵の娘よ!」
「お前の父親が俺に遺した贈り物を……その目で確かめるがいい!」




