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第16話 重力とオーバークロックの激突

 リリスの過負荷状態に陥った防壁が、砕け散った幽青色の光の雨となって降り注ぐ。その直後、極道の底層を束ねる頭目、アーサーの残骸も祭壇の縁に激突した。黒焦げになった機械義肢からは、今なお断続的に目もくらむような火花が散っている。


 闘技場の中央。


 ヴィクター・黒川の胸腔内では、宙に浮かぶ幽緑色のコードコアが妖しく輝いていた。その表面に刻まれた雪絵一族の紋章が、薄暗い光の中でひときわ不気味な存在感を放っている。


「来い、雪絵の娘よ! お前の父親が俺に遺した贈り物を、その目で確かめるがいい!」


 ヴィクターは狂気じみた雄叫びを上げた。月代頭に埋め込まれた神経インターフェースが、オーバーロードを示す赤い光を明滅させる。サイバー般若の刺青に覆われた顔は、極度の興奮によって醜く歪んでいた。


 心を打ち砕くほどの真実を突きつけられても、ヴィクトリア・雪絵のまつげは微動だにしなかった。


 彼女は静かにその場に立っていた。廃墟を吹き抜ける暴風に、銀白色の長い髪がわずかに揺れる。


 ヨーロッパ風のレースをあしらった戦術用アイマスクの奥で、彼女の瞳は『盲眼心網』を通じ、ヴィクターの体内で激しく変動する熱画像と感情スペクトルを冷徹に見据えていた。


「私の父は、一流の遺伝子学者だった。彼が生涯をかけて追い求めていたのは、人類の進化と救済よ」


 ヴィクトリアの声は、砕けた氷のように冷たかった。そこには一片の温もりもない。


「それに比べて、あなたはどう? 追放された盗人にすぎない。薄汚い下水溝で、ガラクタを継ぎ接ぎしながら、かろうじて生き延びている哀れな虫けら。あなたの体から漂う機械油の臭いだけで、吐き気がするわ」


「このアマ……死にたいらしいな!」


 ヴィクトリアの侮蔑は、ヴィクターの肥大した自尊心を容赦なくえぐった。


 彼は怒号を上げた。左腕に刻まれた般若の刺青が、一瞬にして灰白色から血の滴るような深紅へと変わる。


「義体オーバークロック、三〇〇パーセント! くたばりやがれ!」


 耳障りな金属の破裂音とともに、ヴィクターの左腕を覆う装甲が次々と剥がれ落ちた。その内側から、無数の神経導管がむき出しになる。


 高濃度のナノ神経毒が、高圧洗浄機の噴射のような勢いで放出された。腐食性を帯びた幽緑色の酸霧が混じり合い、瞬く間にレオンのいる一帯を覆い尽くす。


「ヴィクトリア、下がれ!」


 レオンは人間のものとは思えない獣の咆哮を上げた。


 身長二メートルに達する巨体を勢いよく翻し、ヴィクトリアを背後にかばう。背中のカーボンファイバー製骨刃が一斉に展開し、押し寄せる毒霧を防ごうとした。


 しかし、三〇〇パーセントまでオーバークロックされたナノ毒素の威力は、あまりにも凶悪だった。


 毒素がレオンの黒と金の重装型バイオニック鱗に触れた瞬間、恐ろしい「シューッ」という音が響いた。


 難攻不落を誇る鱗が、見る間に腐食して剥がれ落ちていく。その下から、隆起した筋肉と暗赤色の肉が露出した。


「ぐああっ!」


 レオンは苦悶のうめき声を漏らした。


 凄まじい激痛が、体内のS級獣化遺伝子に激しい拒絶反応を引き起こす。左目の深紅の光が狂ったように明滅し、背中の筋肉が不自然に痙攣した。まるで無数の毒蛇が皮膚の下を這い回っているかのようだった。


「ボス! あいつの電磁場が強すぎる! 俺の蜂群ドローンじゃ、まったく近づけない!」


 後方では、ジャック・星野が仮想キーボードを猛烈な勢いで叩いていた。ピンク色の短髪の下、その額には汗がびっしりと浮かんでいる。猫耳型のホログラムヘッドホンからは、耳をつんざくようなノイズが絶え間なく流れていた。


「失敗作の混血野郎が! 邪魔だ、どけ!」


 ヴィクターは狂ったように笑った。


「その盲目の売女もろとも、地獄に落ちやがれ!」


 機械化された左腕が大きく振り抜かれる。毒霧をまとった強烈な拳が、レオンの胸部めがけて叩き込まれた。


「ドンッ!」


 凄まじい衝撃に吹き飛ばされたレオンは、背後の荷重柱を粉砕した。そのまま瓦礫の中に片膝をつく。


 荒い呼吸を繰り返すたび、口元から灼けつくような白い息が漏れた。腐食した傷口からは、黒と赤の入り混じった血がにじみ出ている。


 ヴィクターは足元の瓦礫を踏みしめながら、一歩、また一歩と迫ってきた。


 その左腕にある毒素噴射口が、再び致命的な幽光を放ち始める。


 まさに絶体絶命。


 そのときだった。


 騒然とした戦場の中に、かすかでありながら、異様なほど鮮明なハイヒールの音が響いた。


「コツ、コツ、コツ」


 ヴィクトリアが、レオンの背後から歩み出た。


 改良型のヴィクトリア朝風ゴシックロングドレスは、血と汚泥にまみれた廃墟の中ではあまりにも場違いだった。だが、その場違いな美しさが、かえって今にも壊れてしまいそうなほど繊細で、息をのむような存在感を際立たせていた。


 彼女は指先でそっとスカートの裾を揺らした。


 その瞬間、気品ある淡い香りが、凍てつくような冷気をまとって空気中に広がった。


 それは、彼女だけが持つ特別な情報素――『凛冬の抱擁』だった。


 冷香がレオンの鼻先をかすめる。


 すると、拒絶反応によって暴走寸前だった彼の獣化遺伝子が、奇跡のように静まっていった。


 全身を襲っていた激痛が、優しい力に包まれて和らいでいく。


 焦点を失いかけていた深紅の獣眼が、鋭く一点を捉えた。


 レオンは振り返り、目の前に立つ陶器の人形のような少女を見つめた。


 彼は無意識に後ずさろうとした。


 血と泥に汚れた自分の体で、彼女の純白のドレスを汚してしまうことが怖かったのだ。


 しかし、ヴィクトリアはかすかに身をかがめた。


 紙のように白い指先が、腐食を免れたレオンの頬の鱗をそっとなぞる。


 不器用でありながら、どこまでも優しい仕草だった。


「レオン、力任せに戦わないで。あなたの『心』で、重力の流れを感じるの」


 レオンの全身が、びくりと震えた。


 ヴィクトリアの冷ややかな横顔を見つめる彼の瞳から、最後に残っていた狂暴さが消えていく。


 その代わりに宿ったのは、絶対的な静寂と冷静さだった。


 レオンは、ゆっくりと立ち上がった。


「くだらねえ小細工を!」


 ヴィクターが嘲笑する。左腕から、再び毒素が噴き出した。


 だが、今度はレオンは避けなかった。


 彼は左目を閉じた。


 唯一残された右目の瞳の奥で、まるで星々が崩壊し、ひとつの点へと収束していくかのような光景が浮かび上がる。


「重力エンジン……反転」


 轟音が炸裂した。


 レオンを中心とする半径十メートルの重力場が、瞬時に恐るべき歪みを起こす。


 飛び散る瓦礫も、腐食性の毒霧も、ヴィクターが放ったナノ毒素さえも、その場で異様なほど静止した。


 そして次の瞬間、それらは目に見えない巨大な力によって、強引に圧縮されながら宙に浮かび上がった。


 レオンは背中から伸びたカーボンファイバー製骨刃を、逆手に握り直した。


 重力エンジンが極限まで駆動する。


 骨刃は高周波の唸りを上げながら瞬時に伸長し、構造を再編成していく。


 やがてそれは、全長二メートルにも及ぶ暗金色の野太刀へと姿を変えた。


 極道古流剣術・極意――『斬鉄』!


 レオンは両手で刀を握り締めた。


 筋骨隆々とした両腕に、無数の血管が浮かび上がる。


 彼は派手な義体スキルをひとつも使わなかった。


 ただ古流剣術の極意である「呼吸」「発力」「斬撃」の瞬間的な爆発力を、重力崩壊の破壊的なエネルギーと完全に融合させたのだ。


「死ね、雑種野郎!」


 ついに死の恐怖を覚えたヴィクターは、左腕を必死に動かして防御態勢に入ろうとした。


 だが、もう遅い。


 レオンが刀を振り抜いた。


 轟音を伴う爆発は起こらなかった。


 響いたのは、極めてかすかな「シュッ」という音だけだった。


 暗金色の刀光が、まるで空間そのものを切り裂くかのように走る。


 重力場によって圧縮された毒霧ごと、ヴィクターの左肩を何の抵抗もなく通り抜けた。


 時間が、ほんの一秒だけ止まったかのようだった。


 次の瞬間。


 ヴィクターが誇っていた、極限までオーバークロックされた重型機械左腕が、鏡のように滑らかな切断面を見せながら、ゆっくりと胴体から離れた。


 そして――


 ドンッ!


 重い音を立てて、地面に落下した。


 切断面に発生した超高温が、血管も配線も瞬時に封じていた。血の一滴すら流れ落ちない。


「うああああああああっ!!」


 遅れて襲ってきた激痛と、神経が断ち切られたことを知らせるフィードバックが、ヴィクターに凄まじい絶叫を上げさせた。


 巨大な体がバランスを失い、地面に重々しく膝をつく。


 切断された左腕の付け根から、火花が激しく飛び散った。


 圧倒的な武力による爽快感と、極限まで研ぎ澄まされた暴力の美学。


 そのすべてが、たった一太刀の中に凝縮されていた。


 だが、レオンは刀を収めなかった。


 彼はわずかに身を横へずらし、背後にいる少女へと戦場を譲った。


 ヴィクトリアはスカートの裾を軽く持ち上げ、膝をついたヴィクターの前まで優雅に歩いていく。


 スカートの下に隠された高周波振動刃は、まだ抜かれていなかった。


 この程度の敵を相手にするなら、もっと優雅な方法がある。


「お、お前……この盲目女……殺してやる……!」


 ヴィクターは残された右手で地面を強くつかみ、血が滴り落ちそうなほどの憎悪を独眼に宿した。


 左腕を失ったことで制御を失ったナノ毒素が、今や彼の体内の神経経路を無秩序に暴れ回っていた。


「あなたの毒素、なかなか精巧な配合ね」


 ヴィクトリアは、見下ろすようにして彼を「見た」。


 その唇に、冷ややかな笑みが浮かぶ。


「でも、ひとつ忘れているわ。ナノマシンの基礎制御ロジックは、情報素の周波数に左右されるのよ」


 彼女はゆっくりと右手を持ち上げた。


 その指先には、透き通った一滴の液体がまとわりついていた。


 雪絵一族の仇敵を葬るため、三年もの歳月を費やして調合した、必殺の毒香――『葬雪』。


 ヴィクトリアが指先を軽く動かす。


 一滴の『葬雪』が、般若の刺青に覆われたヴィクターの額へと落ちた。


「ば、馬鹿な……そんなはずが……!」


 ヴィクターの瞳孔が、恐怖に大きく収縮した。


 体内で制御を失っていたナノ毒素が、『葬雪』に触れた瞬間、まるで触媒に出会ったかのように激しい反応を起こしたのだ。


 遺伝子鎖が、凄まじい勢いで断裂していく。


「ドンッ!」


 鈍い爆発音が、ヴィクターの体内から響いた。


 ナノ毒素が内臓、神経網、そして義体のコアで同時に爆発したのだ。


「ゴフッ――!」


 ヴィクターは、黒い機械油と肉片の混じった血を大量に吐き出した。


 全身が激しく痙攣する。


 自らの誇りとしていた機械義体は、内側から徹底的に腐食され、崩壊していった。


 胸腔内に浮かんでいた幽緑色のコードコアにも無数の亀裂が走り、その光は急速に弱まっていく。


 知略による必殺の一撃。


 刃を振るうこともなく、返り血を浴びることもなく、それでいて確実に命を奪う――。


 ヴィクトリアは静かに手を引いた。


 懐から真っ白なシルクのハンカチを取り出し、指先に付着したわけでもない灰を払うように、そっと拭った。


 まるで、たった今、舞い落ちた花びらを指先から払いのけただけであるかのように。


 その一連の所作を見つめていたレオンの深紅の獣眼に、驚嘆と、深い愛情が入り混じった光が宿った。


 彼は刀を収め、慎重にヴィクトリアのそばへ歩み寄った。


 自分の体に染みついた血の臭いが、彼女の冷香をかき消してしまわないように。


「終わったな、リリス」


 レオンの声はかすれていた。


 それでも、彼女に向ける言葉だけは、いつもと変わらず優しかった。


 だが、二人がすべての決着がついたと思った、その瞬間。


 異変が起きた。


 死に瀕していたヴィクターが、最後の力を振り絞ったのだ。


 残された右手が毒蛇のように飛び出し、レオンの足首をがっちりとつかんだ。


「ガキッ!」


 機械の指が瞬時にレオンの脚のバイオニック鱗を貫き、その下の肉へと深々と食い込んだ。


「レオン!」


 ヴィクトリアの顔色が変わった。


『盲眼心網』が、極めて凶暴なデータストリームの発生を捉えたのだ。


 腐食によって見るも無惨な姿となったヴィクターの顔に、再び背筋の凍るような異様な笑みが浮かぶ。


 彼は独眼でレオンを見据え、最後の息を振り絞った。


 そして、胸腔内にあった雪絵一族の紋章を刻んだ不完全なコードコアを、機械の指を伝わせるようにして、無理やりレオンの体内へと注入した。


「器が……ようやく完成する……」


 呪いのような遺言を残すと、ヴィクターの独眼から光が完全に消えた。


 彼の頭が力なく垂れ下がる。


 今度こそ、二度と動くことはなかった。


「ぐあああっ!」


 レオンは突然、片膝を地面についた。


 両手で頭を強く抱え込み、苦痛に身をよじる。


 体内のS級獣化遺伝子と、強制的に埋め込まれた不完全なコードが、凄まじい衝突を引き起こしていた。


 彼の瞳の中では、深紅の獣の光と幽緑色のデータストリームが、狂ったように交互に現れては、互いを引き裂こうと暴れ回っている。


「レオン!」


 ヴィクトリアはすぐさま膝をつき、両手で彼の灼熱した頬を包み込んだ。


 高濃度の『凛冬の抱擁』を惜しみなく放出し、暴走する彼の精神を鎮めようとする。


 しかし――。


 彼女の『盲眼心網』は、さらに恐ろしい事実を捉えていた。


 レオンの意識の奥深くで、巨大で、太古から存在するかのようなデータストリームが蠢いている。


 そこには、濃厚な血の臭いを思わせる禍々しい気配があった。


 そのデータストリームは、誰にも止められない勢いで、レオン自身の自我を貪り食い始めていたのだ。


 そして、闘技場の天井、その暗い影の中。


 冷たい金色の瞳が、ホログラム映像を通じて、静かに一部始終を見つめていた。

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