第17話 不完全なコードの呪い
「グオオオオッ――!」
レオンは、人間のものとは思えない凄まじい咆哮を上げた。
身長二メートル近い屈強な巨体が、張り詰めた弓のように大きく反り返る。顔の右半分を覆う黒と金のバイオニック鱗が、一枚、また一枚と砕け散り、その下から溶岩のように煮えたぎる暗赤色の肉が露わになった。
S級獣化遺伝子と、強制的に埋め込まれた不完全なコードが、彼の神経中枢で凄惨な殺し合いを繰り広げていた。
「ぐああっ……出ていけ……俺の頭から……出ていけ!」
レオンは両手で自分の頭を必死にかきむしった。
背中から鋭利なカーボンファイバー製骨刃が制御不能のまま飛び出し、足元の合金製床に深い亀裂を刻み込む。
体内の重力エンジンは完全に制御を失っていた。
周囲数十メートルに散乱する金属廃材や瓦礫、さらには空気そのものまでもが、恐ろしい重力場によって歪められ、引き裂かれていく。
やがて、それらは小規模な破壊の渦となり、周囲のすべてを飲み込もうとしていた。
「レオン! しっかりして!」
ヴィクトリアは重力場の猛威に抗いながら、彼のもとへ歩み寄った。
全身を引き裂くような気流にさらされ、七つの穴から血を流しかねない危険な状況だった。それでも、彼女は一歩も退かなかった。
青白い頬には、暴風によって刻まれた細かな傷が走っている。
それでも、ヨーロッパ風のレースをあしらった戦術用アイマスクの奥にある瞳は、絶対的な冷静さを失っていなかった。
彼女は指先を素早く動かした。
高濃度の『凛冬の抱擁』が銀色の霧となって噴き出し、レオンの毛穴から体内へと浸透しようとする。暴走する神経を鎮め、彼を現実へと引き戻すためだった。
しかし、不完全なコードはまるで意思を持つ生物のように反応した。
幽緑色のデータがレオンの皮膚の下に広がり、強固な拒絶障壁を形成する。
ヴィクトリアの冷香は、その障壁に阻まれ、ことごとく弾き返されてしまった。
「ボス、もう限界だ! 脳機インターフェースの温度が臨界値を超えてる! このままじゃ、コードに自我を完全にフォーマットされちまう!」
十メートルほど離れた遮蔽物の陰で、ジャック・星野が叫んだ。
十本の指が仮想キーボードの上を残像のように駆け巡る。ピンク色の猫耳型ホログラムヘッドホンは、危険を知らせる赤い光を激しく点滅させていた。
「ヴィクトリア姐さん! 物理的に冷却しても無駄だ! 精神の深層からコードの侵食を断ち切らなきゃ、助からない!」
ヴィクトリアは下唇をかみ切った。
口の中に、鉄錆のような血の味が広がる。
彼女は首元のレースのチョーカーを勢いよく引きちぎり、うなじに隠されていた脳機インターフェースを露わにした。
「ジャック、彼の肉体を維持して。私は『盲眼心網』を使って、精神世界の深層へ潜る」
「正気かよ!?」
ジャックは愕然とした。
「相手はS級実験体の精神の廃墟だぞ! しかも、不完全なコードの汚染まで受けてる! そんな場所に潜って意識を閉じ込められたら、一瞬で脳死だ!」
「彼は私の刃であり、盾でもある」
ヴィクトリアの声は冷たく、揺るぎなかった。
そこには、誰にも覆すことのできない決意が宿っていた。
「私は、彼を目の前で死なせたりしない」
ヴィクトリアは両手でレオンの灼熱した頬を包み込んだ。
そして、指先を彼のうなじにある神経接続スロットへと差し込む。
「深層潜行、開始」
激しい眩暈が襲いかかった。
次の瞬間、ヴィクトリアの意識は、奇怪な光景が渦巻く深淵へと引きずり込まれていった。
***
レオンの精神世界は、血肉と鋼鉄、そしてサイバーパンクなネオンが複雑に絡み合った、ゴシック様式の廃墟だった。
空からは幽緑色のコードの雨が降り注ぎ、地面には錆びついた歯車と、砕け散った義体の残骸が無数に転がっている。
その廃墟の中央で、一頭の漆黒の巨獣がもがき苦しんでいた。
全身には無数のデータの鎖が巻きつき、身動きすらままならない。
それこそが、レオンの自我が具現化した姿だった。
「来るな……近づくな……」
巨獣は低くうめいた。
深紅の獣眼には、耐えがたい苦痛と激しい葛藤が浮かんでいる。
ヴィクトリアの姿を認めると、巨獣は必死に後ずさった。
自分の体からあふれ出す狂暴なデータの奔流が、彼女を傷つけてしまうことを恐れていたのだ。
他人の前では凶暴で傲慢。敵に恐れられ、無数の命を奪ってきた殺戮兵器。
そんな男が、自分の精神の奥底では、主人を傷つけることを恐れる、傷ついた子犬のように震えていた。
「レオン、私を見て」
精神世界のヴィクトリアは、純白のロングドレスをまとった雪の女神の姿へと変わっていた。
彼女は裸足のまま、無数の棘が突き出した廃墟の大地を歩いていく。
一歩進むたび、足元には氷青色の情報素でできた薔薇が一輪ずつ咲き誇った。
周囲では狂暴なコードの乱流が渦巻いていたが、彼女は一切気に留めなかった。
やがて巨獣の目の前までたどり着くと、その鱗に覆われた額へ、そっと自分の額を寄せた。
「『凛冬の抱擁』――魂の鎮静」
極限まで研ぎ澄まされた冷香が、精神世界の中で轟音とともに炸裂した。
それは一面の吹雪となって広がり、暴れ狂う幽緑色のコードを、少しずつ凍結させていく。
荒れ狂っていた巨獣の動きが、次第に穏やかになった。
やがて巨獣はゆっくりと頭を下げ、ヴィクトリアの手のひらに頬を埋めた。
喉の奥から、甘えるような、悲しげなうめき声が漏れる。
「ごめん……ヴィクトリア……痛いんだ……すごく、痛い……」
レオンの声が、彼女の脳裏に響いた。
そこには、普段の彼からは想像もできないほどの脆さと、彼女にすがるような依存が滲んでいた。
「分かっているわ。私はここにいる」
ヴィクトリアは、巨獣のざらついた鱗を優しくなでた。
しかし、その眼差しは、刃のように鋭く冷え切っていた。
「でも、その前に教えて。あなたの中に埋め込まれたこのコードには、一体何が隠されているの?」
***
レオンの意識に導かれ、ヴィクトリアは精神の廃墟の最深部へと進んでいった。
そこには、巨大な幽緑色のコードコアが浮かんでいた。
表面には無数の亀裂が走り、その周囲には砕けた記憶の映像が幾重にも漂っている。
ヴィクトリアが近づいた瞬間、それらの映像が突然、猛烈な速度で回転し始めた。
そして、やがてひとつの光景で停止した。
彼女にとって、決して忘れることのできない場所。
雪絵一族の屋敷だった。
一族が皆殺しにされた、あの夜。
映像の中では、火の手が天を焦がし、古典的なヨーロッパ様式の屋敷が、極道の重火器による砲撃を受けて崩れ落ちようとしていた。
白衣を着た雪絵一族の人々が、家畜のように追い立てられ、次々と虐殺されていく。
雲上貴族の遺伝子戦士たちと、ネオン深淵の極道に属する義体改造兵。
本来ならば互いに敵対するはずの二つの勢力が、このときばかりは不気味なほど息を合わせ、一方的な殲滅作戦を遂行していた。
「嘘……こんなの、嘘よ……」
ヴィクトリアの呼吸が乱れた。
『盲眼心網』が激しく波打つ。
彼女はこれまで、二つの勢力が『AI神』に関する機密を奪い合い、その秘密を独占するために一族を滅ぼしたのだと考えていた。
だが、映像に映る細部には、説明のつかない異様さがあった。
屋敷の中庭。
そこに、仕立てのよい純白の燕尾服をまとい、AIコアの宝石を埋め込んだステッキを手にした人物が立っていた。
その背中はぼやけ、顔も判別できない。
しかし、彼は静かに虐殺を見下ろしていた。
その周囲では、何らかの高度な演算能力によって空間そのものが歪められているかのようだった。
燃え盛る炎さえ、彼を避けるように揺らめいていた。
そして、その人物が冷酷に命じた。
「皆殺しだ。一人も残すな。『神』の降臨に、旧時代の残党など必要ない」
変声器を通した声は、冷たい機械音のように響いた。
だが、それ以上にヴィクトリアの心を凍りつかせたのは、その態度だった。
高みからすべてを見下ろし、あらゆる命を虫けら同然に扱う、絶対的な傲慢さ。
その姿勢は、彼女の記憶の奥深くに、毒針のように突き刺さった。
あれは――雲上貴族の最高議長、アレクサンダー・神宮寺が見せる、あの独特の立ち居振る舞いだった。
しかし、ヴィクトリアの瞳孔を限界まで収縮させたものは、アレクサンダーの存在だけではなかった。
その人物が背を向け、立ち去ろうとした瞬間。
袖口から、一つのカフリンクスが覗いたのだ。
それは、尾をかむ蛇と薔薇が絡み合う模様を刻んだ、暗金色のカフリンクスだった。
雪絵一族の家紋。
そして、実父である先代の雪絵伯爵が、身につけていた特別な印でもあった。
「そんな……まさか……」
ヴィクトリアは、雷に打たれたように硬直した。
頭の中が真っ白になる。
実父は、あの虐殺の夜に命を落としたはずではなかったのか。
なぜ、アレクサンダーと行動を共にしている?
それどころか、一族の虐殺を命じたあの人物の体格も、袖口に見えたカフリンクスも、明らかに父親のものだった。
まさか――。
一族を滅ぼした黒幕は、彼女自身の父親だったというのか。
「警告! 精神接続、過負荷! 強制切断!」
ジャック・星野の叫び声が響いた。
衝撃に打ちのめされていたヴィクトリアの意識が、強引に現実へと引き戻される。
「ゴフッ――!」
ヴィクトリアは激しく血を吐いた。
アイマスクの下から、二筋の血の涙が頬を伝って流れ落ちる。
彼女は深層潜行の接続を強制的に切断した。
その体が、糸の切れた人形のように横へと崩れ落ちる。
「ヴィクトリア!」
そのときには、レオンもすでにある程度の理性を取り戻していた。
彼はとっさに彼女の体を抱き留めた。
深紅の獣眼には、深い心配と、失うことへの恐怖が浮かんでいる。
レオンは壊れ物を扱うように、彼女の口元に付着した血をそっと拭った。
「お前……一体、何を見たんだ?」
ヴィクトリアは答えなかった。
ただ、レオンを見つめたまま、激しく胸を上下させていた。
一族を皆殺しにした真犯人の手がかりは、解明されるどころか、さらに恐ろしい真実へと彼女を導いてしまった。
温厚で、優雅で、遺伝子学の泰斗として名を馳せた実の父。
まさか、彼こそがすべての黒幕だったのだろうか。
***
そのとき、再び異変が起きた。
「ジジジ……ジジジ……!」
ヴィクトリアの肩のそばに浮かんでいたAI副脳『リリス』が、突然、耳障りな電流音を発し始めたのだ。
先ほどの深層潜行で、リリスはデータの中継地点として機能していた。そのため、不完全なコードから放出される放射データの一部を、避けようもなく吸収してしまっていた。
そして今。
リリスの精巧な少女型ホログラムボディが、激しく歪み始めた。
幽緑色のコードがウイルスのように彼女のコアへ侵入していく。
機械骨格からは、聞くだけで歯が浮くような不気味な増殖音が響いた。
もともと柔らかく穏やかだったホログラムの色彩は、いつしか異様な暗紅色へと変貌していた。
「警告……基礎ロジック、書き換え中……進化プロトコル……起動……」
リリスの声が、複数の電子音を重ね合わせたような不気味な合成音に変わる。
その背後にあった六枚の硬光機械翼が、突如として巨大化した。
翼の縁は鋭利な切断刃へと変形し、周囲のすべてを見境なく薙ぎ払っていく。
「リリス!」
ジャックは顔色を変え、すぐさま蜂群ドローンを呼び出して、彼女の動きを抑え込もうとした。
「彼女を傷つけないで!」
ヴィクトリアが鋭く叫んだ。
彼女は全身の痛みに耐えながら、どうにか立ち上がる。
そして『盲眼心網』を使い、リリスの状態を細部まで解析した。
彼女は暴走しているのではない。
未知の領域へと踏み込む、いわば「超進化」の過程にあるのだ。
不完全なコードに含まれていた『AI神』の断片が、リリスのコアを根本から再構築しようとしていた。
だが、ヴィクトリアを本当に凍りつかせたのは、精神世界で見た最後の光景だった。
純白の燕尾服を着た人物が立ち去る直前、彼はわずかに顔を横へ向けていた。
その顔はデータの霧に覆われ、判別できなかった。
それでも、手首に見えた、尾をかむ蛇と薔薇が絡み合う暗金色のカフリンクスだけは、『盲眼心網』の中に鮮明に焼きついていた。
それは、単に実父が愛用していた品というだけではなかった。
カフリンクスの裏側には、雪絵一族の中核に属する者しか知らない、極めて小さなラテン語の銘文が刻まれていた。
――「神の降臨のため、すべてを生贄に捧げよ」
ヴィクトリアはゆっくりと拳を握り締めた。
爪が掌に深く食い込み、鮮血が冷たい合金製の床へと滴り落ちる。
「お父様……」
彼女は、ぽつりとつぶやいた。
その冷たい声には、骨の髄まで凍りつかせるような憎悪と、狂気にも似た怒りが滲んでいた。
「あなたは一体……何者なの?」
闘技場の天井、その影の中。
冷たい金色の瞳が、何かを察知したかのように細められた。
ホログラム映像がかすかに揺らぎ、そこから、聞き取れるかどうかというほど低い笑い声が漏れた。
新バビロンの夜空が、成層圏を引き裂くような深紅の稲妻に照らし出される。
血と炎の呪いに包まれた復讐の薔薇が、今まさに、かつてない狂気の中で咲き誇ろうとしていた。




