第18話 ヤンデレの狂気、その凄絶な報復
ヴィクトリアの紙のように白い指先が、わずかに震えていた。
蛇が自らの尾を噛む姿と薔薇が絡み合った、暗金色のカフリンクス。その姿は、まるで悪夢の烙印のように彼女の脳裏に焼きついていた。
実の父親? 一族を皆殺しにした真犯人?
ヴィクトリアは深く息を吸い込み、瞳の奥に渦巻く殺意と困惑をすべて押し殺した。そして再び、冷ややかで儚げな盲目の調香師へと戻る。
「お嬢様、大変です! 外がもう大惨事ですよ!」
ジャックの悲鳴にも似た叫びが、静寂を破った。
「ドォォォン――!」
重厚な合金製の大扉が、乱暴に溶断される。
目もくらむような深紅の光と、濃密な硝煙が一気にホールへと流れ込んできた。
公共通信チャンネルから、背筋が凍るような少女の笑い声が響き渡る。
「ヴィクターが死んだですって? あの脳みそまで筋肉でできた老いぼれが、まさか死んじゃうなんて!」
セシリアの声が、数百ものスピーカーから同時に鳴り響いた。そこには病的な高揚と狂気が入り混じっている。
「でも、そんなことはどうでもいいわ! 龍馬様、極道のあのゴミ虫どもが滅びたお祝いに、わたくし、とびっきり華やかな花火をご用意しましたの! きっと気に入ってくださいますよね?」
硝煙の向こうから、数百人もの底層義体改造人間が、まるで濁流のように押し寄せてきた。
彼らはもともと極道の最下層に属する、使い捨ての鉄砲玉だった。だが今、その目には強制ハッキングによって植えつけられた不気味な赤い光が宿っている。
さらに恐ろしいことに、彼らの胸部に埋め込まれた小型核電池が、高周波の警告音を発しながら急激に温度を上げていた。
痛覚神経は完全に遮断され、自爆プログラムが起動している。
つまり、彼らは生きた爆弾だった。
「くそっ! 脳機ハッキングだ! 底層街区の住民を片っ端から爆弾に変えやがった!」
ジャックは十本の指を仮想キーボードの上で残像が生じるほどの速さで走らせた。しかし、すぐに絶望的な表情を浮かべる。
「物理ファイアウォールが迂回されてる……! セシリアのやつ、雲上メインフレームの演算能力まで使ってやがる!」
この自爆部隊を群衆の中へ侵入させれば、拠点全体が焦土と化す。
改造人間たちが人々まであと十メートルに迫り、胸部の反応炉が臨界点に達しようとした、その瞬間だった。
一筋の細長い人影が、まるで幽鬼のように飛び出し、部隊の最前列に立ちはだかった。
アーサー・源氏だった。
彼は色褪せるまで洗い込まれたサイバー和服をまとい、履き古した木製の下駄で、冷たい合金の床を踏みしめていた。乾いた音が、静まり返った空間に響く。
伏せた目のまま、右手をゆっくりと腰の古流打刀へ伸ばした。
「おい、時代遅れの骨董品! 正気かよ! 相手は数百個の爆弾だぞ!」
ジャックが叫ぶ。
アーサーは答えなかった。
ただ、ゆっくりと刀を抜き放つ。
その刹那、彼の脊椎に埋め込まれた旧式義体インプラントが、過負荷を告げる轟音を上げた。幽青色の高圧電弧が刀身を伝って激しく走り、古井戸のように静かな彼の顔を照らし出す。
「全集中……雷の呼吸」
「壱ノ型・霹靂一閃!」
雷光が炸裂した。
アーサーの姿は、闇を切り裂く青い稲妻へと変わった。
古流剣術の極限速度と高周波振動刃が、寸分の狂いもなく融合する。
刀の切っ先が駆け抜けた後に、爆発は起こらなかった。
ただ、神経中枢の回路が瞬時に断ち切られる、鈍い音だけが響く。
数十人もの改造人間が、同じ瞬間に神経中枢を斬断され、胸部の赤い光を一斉に消した。そのまま力なく床へと崩れ落ちる。
だが、これはまだ始まりにすぎなかった。
アーサーは手首を返す。刀身を包む雷光が、さらに激しく膨れ上がった。
「伍ノ型・熱界雷!」
彼は荒れ狂う雷霆の旋風となり、自爆部隊の只中を縦横無尽に駆け抜けた。
古風な剣客の美学が、この瞬間、余すところなく解き放たれる。
青白い雷光が走るたび、改造人間が一人、また一人と倒れていく。
雷の呼吸による一掃効果は、まさに圧巻だった。
飛び散る四肢、火花を散らす回路。密集した自爆部隊の中に、純粋な剣技だけで、絶対的な安全地帯を切り開いていく。
「まったく、興ざめな余興ですこと」
そのとき、上空にセシリアが姿を現した。
サイバーパンク風のロリータドレスをまとい、二つに結んだツインテールは青いホログラムの光を放っている。
背中では、硬光で構成された六枚の「天使」の機械翼がゆっくりと広がり、致命的な切断力を帯びた光を放っていた。
彼女は高みからヴィクトリアを見下ろす。
精巧な人形のような顔には、歪んだ熱狂が浮かんでいた。
「龍馬様、わたくし、あのゴミどもを片づけて差し上げましたわ。ご褒美をいただけますか? 頭を撫でてくださいます?」
そして、その視線が突然ヴィクトリアへと向けられる。
瞬く間に、目の色が嫉妬と憎悪に染まった。
「特に、この盲目女! 龍馬様の雄姿を見ることもできない目なんて、いっそくり抜いて、わたくしの標本にしてしまえばいいわ! そうすれば、永遠に龍馬様を『見て』いられるでしょう?」
言い終わるより早く、セシリアの背中にある硬光翼が一斉に膨張した。
六本の鋭利な切断刃となって、ヴィクトリアの顔面へと襲いかかる。
同時に、彼女の大脳皮質から恐るべきハッキングデータストリームが放出された。ヴィクトリアの盲眼心網を直接焼き切ろうというのだ。
「キィン――!」
間一髪。
ヴィクトリアの指先から高周波振動刃が弾き出された。
盲眼心網を全開にし、セシリアの攻撃軌道を必死に捉える。
しかし、セシリアには雲上の演算能力による強力なバックアップがある。力も速度もヴィクトリアを上回っていた。
振動刃の表面に、亀裂が走り始める。
「どきなさい、この下賤な女!」
セシリアが金切り声を上げた。
「触れるな……彼女に」
その声は、ヴィクトリアの背後から聞こえてきた。
低く、かすれていながら、まるで死に瀕した獣の咆哮のようだった。
レオン・龍馬。
身長二メートル近い巨躯を持つこの獣は、今や見るも無惨な状態だった。
右半分の顔を覆う黒金色の生体義体鱗。その隙間から、青い冷却液と暗赤色の血が絶え間なく滲み出している。
前話でリリスが異変を起こした際に放出したコード放射線が、彼の体内に潜むS級獣化遺伝子の拒絶反応を、完全に爆発させていたのだ。
筋肉は意思に反して痙攣し、左目の赤い義眼は狂ったように明滅する。呼吸するたびに、骨と骨が擦れ合う耳障りな音が響いた。
コードがもたらす苦痛は、何千本もの鋼針で脳をかき回されるようだった。
それでも、彼の巨大な体躯は、越えることのできない山のように、ヴィクトリアの前に立ちはだかっていた。
ヴィクトリアは、彼の体内で荒れ狂う遺伝子の衝突を感じ取った。
指先から、ほのかな冷香の情報素を滲ませる。そっと彼の背中に触れ、拒絶反応による激痛を和らげようとした。
その不器用な優しさを感じた瞬間、レオンの荒々しかった眼差しが、ほんの一瞬だけ柔らかくなる。
そして次の瞬間、彼の体から、さらに強大な力が噴き上がった。
「龍馬様……」
苦しむレオンの姿を見たセシリアの瞳に、一瞬だけ痛ましげな色が浮かんだ。
だが、それもすぐに病的な狂気へと塗り替えられる。
「ご自分の姿をご覧になってください! 遺伝子の拒絶反応で、もう死にかけているじゃありませんか!」
彼女は両腕を広げ、甘く、狂おしい声で訴えた。
「この盲目女を殺して、その遺伝子をわたくしに捧げてくだされば、あなたの進化を完成させて差し上げます! わたくしたちは同じ存在なのです! そうでしょう?」
「言ったはずだ……」
レオンがゆっくりと顔を上げた。
赤い義眼が、セシリアを射抜くように見据える。
背中からカーボンファイバー製骨刃が一斉に飛び出し、重力エンジンが限界を訴える轟音を上げた。
「彼女から……離れろ!」
彼は床を踏み砕いた。
巨大な体躯が黒い旋風と化し、セシリアの硬光翼へ真正面から突進する。
「龍馬様! この盲目女のために、命まで捨てるおつもりですか!」
セシリアが絶叫した。
六枚の硬光翼が交差し、死の網を編み上げる。
レオンは避けなかった。
重力圧壊を使えば、セシリアの防御を打ち砕くこともできたはずだ。
だが、それはできない。
セシリアの攻撃軌道が、彼の背後にいるヴィクトリアへと向けられていたからだ。
彼は、防御を捨てることを選んだ。
「グサッ――!」
刃が肉を貫く、鈍く重い音がホールに響き渡った。
レオンの骨刃は、セシリアの硬光翼二枚を無残に切り裂き、彼女の体を激しく吹き飛ばした。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。
セシリアに残された硬光翼の一本が、何の妨げもなくレオンの胸を貫いていたのだ。
鮮血と青い冷却液が混ざり合い、硬光翼を伝って、冷たい合金の床へと滴り落ちる。
レオンの巨大な体が、ぐらりと揺れた。
それでも、彼は倒れなかった。
苦労して首を巡らせ、後ろを振り返る。
そこには、傷一つ負っていないヴィクトリアがいた。
彼は、無事なほうの目で彼女を見つめた。
その眼差しには、不器用な優しさが宿っていた。
そして、血に濡れた唇の端を、かすかに持ち上げる。
「怖がるな……俺が、守ったから……」
ヴィクトリアの盲眼心網は、レオンの生命反応が急速に低下していく様子を、はっきりと捉えていた。
白い指先が、小刻みに震える。
蕾のようなレースの眼帯の下から、冷たい涙が一筋、頬を伝って滑り落ちた。
一方、空中に吹き飛ばされたセシリアは、レオンの胸に刻まれた致命傷を見つめていた。
先ほどまでの狂気に満ちた表情が、瞬時に凍りつく。
背中の機械翼は力なく垂れ下がり、青いホログラムのツインテールが激しく明滅していた。
彼女はゆっくりと宙を降り、レオンの目の前に膝をついた。
震える手を伸ばす。
血にまみれた彼の頬に触れようとした。
しかし、その指先は、あとわずかというところで止まった。
二筋の涙が、精巧な人形のような顔を伝って流れ落ち、足元の血溜まりへと滴った。
「龍馬様……」
セシリアの声から、もう鋭さは消えていた。
そこにあったのは、胸が張り裂けるほどの絶望と、理解できないという困惑だった。
「どうして……あなたは、死んでまで、この盲目女を守ろうとするんですか……?」




